「——……」

「どうしますか?
 キスだけ、なんて子どもの遊びにもならへん緩い取引にすら逃げ腰ですか?」

 小田桐は、そこで俄かに人を蔑むような目つきと口調に切り替わり、口元をクッと引き上げた。

「あなた、本当に副社長として現場のピンチ救う気あるんですか?
 こんなんじゃ、東京本社からわざわざこっちまでヘルプに出て来ても、あなたのせいでますます混乱を招いただけだったと、そういう結果が出てしまいそうですが——違いますか?
 ここまで傷ひとつなく颯爽と歩いてきた麗しい副社長に、残念な評判が立たなければいいですけどね。あいつに会社引き継いで神岡工務店は大丈夫なのかって」

 鼻で嗤うように吐き出されたその言葉に、崖淵へ追い詰められた樹の足下はとうとう音を立てて崩れ落ちた。

「…………
 日曜の説明会はトラブルなしに進められるよう取り計らう、というあなたの言葉は、本当なんでしょうね」

「……ええ、もちろんです。
 ——ということは、この取引に乗ってくださるんですね、神岡副社長。
 ああ、そろそろデザートです。ここのカシスのシャーベットはまさに極上の一品ですよ」
 今まで浮かべていた嘲笑を嘘のように消し去り、小田桐はきつく睨み据える樹の眼差しにこの上なく甘く微笑んだ。

 料理の皿が全て下げられ、芳ばしい湯気の立ち上るコーヒーカップが目の前に置かれた。
 自分で選択しておきながら、この先の展開をイメージすることができない。
 デザートがサーブされるまでの間に、樹はトイレに立つふりをしながら、小田桐の目の届かない場所で内ポケットのスマホを取り出す。
 不快な緊張で、指が微かに震えている。
 ボタン操作で明るくなった画面を見つめても、誰からも何の通知も届いていない。
 この状況から何とか脱する道筋は、どこにも見つからない。
 樹は重く俯きながらスマホを胸に戻した。


「じゃ、行きましょうか」
 苦痛だった食事をようやく終え、にこやかに席を立つ小田桐に樹は黙って従う以外にない。
「高校生じゃあるまいし、道端ですることでもありませんね……とりあえず、せっかく取った部屋ですから、ルームサービスの酒でも飲んでひと息つくのはいかがですか。
 どうせなら、苦虫を噛み潰したような顔はやめて、思い切り楽しむべきじゃないですか? 僕だってそれほどレベルの低い男じゃないはずですよ。——あなたのご希望は何でもお聞きしますから」 

 最上階へのエレベーターを待ちながら、恋人でもエスコートするかのように囁きかける小田桐に、樹はこの上なく冷ややかな眼差しを向ける。

「それほどよく自分の価値をご存知なら、こんなところで悪趣味な嫌がらせなどしていないで、もっと簡単に餌に食いつく相手を漁ったらいかがですか。あなたに引っかかる人間などいくらでもいるでしょう。男でも、女でも」
「はは、辛辣ですね。ええ、いくらでもいますよ。嫌気がさすほどね。
 でもね、食っても旨くない雑魚を100匹釣り上げたとして、一体何が楽しいんです?」
「——……」

「人々が血眼になって希少な宝石を探すのは、それがなかなか手に入らないからでしょう? 本物そっくりなガラス玉があったって、それを本気で欲しがる者など一人もいない。——人間なんて、結局無意味な妄想に振り回されて右往左往するだけの、どうしようもなくくだらない生き物ですよ。そう思いませんか」

 自分を見つめる小田桐の眼差しが、不意に昏い本心をちらつかせた気がして、樹は一瞬返す言葉を失う。
 この男の本心が何だというのか。樹はそのどうでもいい感情を雑に追い払った。

 エレベーターに乗り込み、二人だけの小さな空間で、樹は無機質に確認する。
「約束した通り、本当にキスだけです。済み次第帰ります。勝手に予約されたスイートルームはあとはおひとりで好きなだけ楽しんでください」
「はは、そうしますよ」

 エレベーターを降り、むかつくほどに柔らかなカーペットを踏み、小田桐が最高級スイートのドアを静かに開けた。
「さあ、どうぞ」
 誘《いざな》われ、室内に足を踏み入れる。正面の広いガラス窓から月明かりが差し込み、贅沢な部屋を仄白く浮き上がらせている。
 背後でドアが閉まると同時に、樹の胸ポケットで不意にスマホが鳴り響いた。
 スマホの画面に柊の名を確認した瞬間——手首を激しく掴み上げられ、その拍子にスマホが床へ落ちた。
 そのまま乱暴に両手首を掴まれ、強烈な力で背が壁へ押し付けられる。
 スマホは床で呼び出し音を鳴らし続け、樹は押さえ込む力を振り解こうと必死にもがくが、異常なまでに力の籠もった男の手を逃れることができない。

「——……電話に、出させてくれ」
「だめです。
 もう抵抗するのはやめてください。あなたは取引に応じたんですから。——この部屋を出るまでは、あなたは僕に従わなければならない」
「……っ」
「あなただって、契約相手が土壇場でジタバタ悪あがきをしても、手を緩めたりしないでしょう?
 ——黙って、静かに目を閉じて」

 床のスマホの着信音は、ふつりと途切れた。
 抗う力が微かに緩んだ瞬間、ぐいと顎を指で固定され、唇が強く塞がれた。
 どうしようもなく強引なはずのそれは、拒む余裕すらを与えず柔らかく繊細に纏わりつき、樹の唇の硬直を崩しにかかる。
 執拗に求められ、それ以上の侵入を頑なに拒みながらも、押し寄せる熱に激しく息が乱される。
 何とか僅かに息を吸い込み、言葉を発した。
「——っ……もう……」
「もう、何ですか」
「取引は……これで済んだはずだ」
「は? 何をおっしゃってるんです?」
「……」
「キスって、唇からスタートして、相手の全身にくまなく施すものでしょう?
 あなただって、愛おしい奥様に当然そうされるくせに」
「…………!」
「契約履行は、今始まったばかりですよ。ほんと、中学生じゃないんですから」
「——そんなことは、一言も……
 あなたは、私を騙して……!」
「騙してなんかいません。
 キスを、唇を重ねるだけの行為だと勝手に解釈したあなたがいけないんだ」

「————」
 返す言葉も選べずにいる樹のネクタイに、小田桐の右手の指がかかる。
 もどかしげに、それでも器用に結び目を解かれ、そのシュルシュルという音に樹の背筋がゾワゾワと逆立つ。
「や、やめ——」
 抗おうとした瞬間、小田桐は自分のスラックスのポケットから小さな光るものをするりと取り出した。
 彼は片手でそれを器用にカチリと操作する。
 それは、鋭い光を放つ折り畳みナイフだった。

「済みません。こういうの持ち歩くの、趣味なんです。余程のことがないと使いませんけどね」
 耳元で、甘い声が低く囁く。

 逃れられない。
 この狂気じみた執着を、どうやっても振り切れない。
 この男の気が済むまで、ここを出ることはできない。

 彼の罠に自ら足を踏み入れてしまった自分の愚かさが、今更強烈に襲いかかる。

 抗うべく握っていた拳は半ば緩み、背中がずるずると壁伝いに下へずり落ちる。
 ワイシャツのボタンを緩められた首筋を男の唇に思うまま貪られ、樹は苦しげに息を吐いた。