10月の半ばの月曜日、肌寒い午後。
 秋の雨が、窓の外に降り続ける。

 畳み終えた洗濯物を膝に置いたまま、俺はどんよりと重い灰色の雲を眺めて小さくため息をついた。

 神岡が育休を終え、副社長の職務に復帰して約半年が過ぎた。
 晴と湊は、現在1歳9ヶ月だ。もう外を歩くことにもすっかり慣れ、遊び方も日に日に活発になりつつある。
 二人にとっては、眼に映るもの全てが「初めて」だ。散歩の途中で出会う草花や落ち葉ひとつひとつに立ち止まり、愛らしい声を上げながら小さな手を差し伸べる。覚えたての片言を使いながら好奇心いっぱいの瞳を輝かせる二人の姿は紛れもなく天使だ。
 けれど、無尽蔵の無邪気さであちこち危なっかしく動き回る二人の相手は、ぶっちゃけハードでもある。

 職務復帰して以降の神岡の仕事への没頭ぶりは、凄まじいほどだ。
 空席にした時間を取り戻すように、彼は貪欲に仕事に向き合っていた。
 会社という組織における一年という期間は、相当な分量だ。社会は日々目まぐるしく変化していく。その動きを鋭敏に捉え、時代に応じた進歩を続けることこそが会社の生き残る道だ。今やこれだけの存在感を持つようになった大企業を担う立場であるということを、神岡は改めてはっきりと意識したのかもしれない。
 それでも、彼の家族への愛情は以前と全く変わらない。日々活発になっていく息子達の成長を、神岡も出来る限り間近で見つめたいようだ。仕事から解放されるはずの週末を、彼は子供達との触れ合いに目一杯費やしていた。

「樹さん、疲れてるでしょう? 休日にそんな全力で子供達と遊ばなくても……俺ひとりで散歩行けますし」
 先週の日曜の夕方、家族で遊びに出た公園から帰ってきたリビングで、俺は神岡についそんな言葉を漏らした。
「ん? 無理なんかこれっぽっちもしてないよ。むしろ、家族で楽しむこの時間を奪われる方が僕には苦痛だ。
 君と子供達に触れることが、僕の疲れを癒してくれる一番の薬なんだから」
 秋だというのに少し汗ばんだ額をタオルで拭いながら、神岡はいつも通り明るく笑う。

「パパ、おふろ!!」 
「おふね、ピュー!」
 外から帰るや否や、晴と湊はそれぞれの小さな手にバスタイム用の船のおもちゃをしっかりと握り、瞳をキラキラ輝かせて神岡の足元を囲んだ。
 二人はパパのいる週末のスケジュールをすっかりインプットしており、午後いっぱい近くの公園で遊んだ後のパパとのお風呂が最近の二人の何よりの楽しみだ。可愛らしい船の形の水鉄砲でお湯を飛ばし合うのが今の彼らのマイブームである。
「よし、お風呂だな! いっぱいピューって遊ぼうな」
「うきゃきゃっ」
 平日も週末も休みなしに見える神岡の様子を、俺は微かに不安な思いで見つめた。


 雨足が、少し強まったようだ。窓にいくつも細く透明な跡を残す雨粒が、根拠のない心細さを一層ゆらゆらと揺する。
 きっと今も、神岡はあの広い副社長室で、脇目も振らず目の前の業務に集中しているのだろう。毎晩帰りも遅く、最近は彼の帰宅に全く気づかないこともしばしばだ。

「——こうやって俺が勝手にモヤモヤしてても、仕方ないんだよな」
 
 ふっと小さく息をつき、俺は膝に重ねたベビー服を抱えて立ち上がった。
 子供たちも、そろそろ昼寝から起きる時間だ。









「ゆーと、パカパカ〜! きゃははっ!」

 憂鬱な雨が上がった、水曜日の午後。
 穏やかな陽射しの差し込むリビングのプレイマットで、湊が宮田の背中にしがみついてきゃっきゃっと愛らしい声を上げた。
 宮田は湊のちっちゃな身体を背に乗せ、四つん這いでマットを既に3周目だ。
「湊ーお前さあ、なんで毎度僕にばっか馬せがむんだよ!?」
 口では文句を言いつつも、宮田は湊をうっかり落とさないようゆっくり優しく前進する。
「ほら、宮田さんって背高いし手足長いじゃないですか。髪も栗色サラサラでタテガミっぽいし、湊にはかっこいいサラブレッドに見えるんじゃないですか?」
 晴とパズルで遊びながら、須和くんが口元の笑いを必死に押し殺してそう返した。
「須和くんそれ何気にディスってんだろーがっ!?」
「まさかー褒めてるんですってば」
「相変わらず仲良いな。喧嘩するほど仲がいいってほんとだよな」
「「そういうんじゃないと思うけど」」
 二人の素っ気ない答えが綺麗にハモり、俺はまた笑わされる。

 水曜日の午後は、我が家が一気に賑やかになる。神岡が育休を終えてからこっち、宮田と須和くんが美容室の定休日に毎週二人揃って顔を出してくれるようになったからだ。
 宮田と須和くんがルームシェアを始めてから、約一年が経つ。完全に正反対キャラであるふたりの同居が一体どうなるか、最初は内心ハラハラしながら見守ったものだったが、お互いそれなりに同居生活を楽しんでいるようだ。まあいろいろ根掘り葉掘りは聞かないが、二人の表情を見ればそれは明らかだ。

 「しょーご、ワンワン!」
 晴が大きな声でそう言いながら、須和くんに向けて犬の形をしたピースを満面の笑みで差し出す。
「そうだね晴、これはワンワンだね!」
 いろいろな動物の形をした大きなピースをはめ込む木製のパズルは、晴のお気に入りのおもちゃだ。須和くんはいつも穏やかな笑顔で晴のパズルに付き合ってくれる。宮田と湊が動の遊びなら、須和くんと晴は静の遊び、といった感じだ。
 晴も湊も、今や二人の顔をすっかり覚え、須和くんを「しょーご」、宮田を「ゆーと」と元気いっぱいに呼び捨てにする。水曜の午後は、親である俺の入り込む隙もないほどに、4人でワイワイと盛り上がるひと時なのだ。


「——なあ、大丈夫なのか?」
 遊び疲れて、晴と湊がやっと昼寝を始めた午後4時。
 リビングのソファで俺の淹れたコーヒーを啜り、宮田がボソッと呟いた。
「……え?」
「宮田さん、文章に主語がないですって。いつものことだけど」
 ベッドの晴と湊の寝顔を愛おしげに眺めていた須和くんが、やれやれという顔で宮田の横に座る。

「あ……大丈夫かって、俺のこと?
 俺は大丈夫だよ、なんとか。子供達の生活リズムもしっかり整ってきたし、二人とも俺の言ってることだいたい分かるみたいで、もう小さな赤ちゃん時代は終わりつつあるんだなあってしみじみ思うよ。
 それに、こうやって毎週水曜に顔出してくれる心強い味方が2人もいるしな」
「うん、三崎くんは大丈夫な感じだよな。すっかりママが板についたようで一安心だ」
「おい、ママって」
「はは、冗談だって。
 じゃなくてさ。僕が心配なのは、神岡さんだ」

「……」

 最近自分の中でも膨らみ出したざわつきを見抜かれた気がして、俺は手の中のカップに視線を落とした。

「スタイリングで来店する度に、彼、なんだかどんどん疲労していくように見えてさ。
 家でも会社でも、目一杯フル回転しちゃってるんだろうなって、一目瞭然なんだよな……」
「宮田さんから神岡さんの様子聞いて、俺も少し気になってます。神岡さん、相変わらずいつも帰り遅いんですか?」
 俺の向かいのソファで、二人はどこか不安げに俺を見る。

「……うん。ちょっとワーカホリックになってる気がして、俺も少し心配なんだ。
 でも、あれだけの大企業の副社長だし、一年間職務を離れた分を取り返したい気持ちもすごく分かるんだよな……
 あまり無理はしないでほしいって、何度も言ってるんだけど……本人にブレーキかける気がない限り、俺にはどうにもできなくて」

 自分の中のもやつきが、もはや自分だけの心配事ではなくなっていることに内心動揺しつつ、俺はあまり深刻な空気にならないよう浅く笑った。

「んー、神岡さん、なんか少し危なっかしいほど完璧なんだよな〜。
 仕事ばかりで家ではトド、みたいに隙でもあるダンナなら、三崎くんもビシッと強く言えるんだろうけど。外でも家でも完璧で、あんなふうに隙がない人に周囲からブレーキかけようとしても、なんだか歯が立たないというか……難しいな」

 宮田のそんな言葉を受け、須和くんがコーヒーの湯気を見つめながら呟く。

「——『完璧』って、もしかしたら何か嵌《はま》ってはいけない罠みたいなところがあるかもしれませんね。
 責任感の強い人ほど完璧を目指してしまいがちだけど、それってつまり、自分で自分をぐいぐい追い込む原因になってしまう。自分自身もそのことに気づかず、自力でブレーキを踏むのが難しくなるようなところがありますよね。
 ちょっとアバウトでいい加減な方が、本人も周囲もラクでなんとなく安心というか……どこか矛盾してるし、不思議ですけどね。あ、ここにそういう人がちょうどいましたね」
「え、どこに?」
 須和くんの横目を、宮田はアホのようにちゃらっと受け流す。
 その場が軽い笑いに包まれ、重苦しい空気が少しだけ和らいだ。

「三崎くん、彼に真っ直ぐ言えるのは君しかいないんだしさ。
 今度の週末にでも、『樹さん、あんまり頑張り過ぎないでください! あなたのためだけじゃなく、俺のために!!』って彼の胸にスリスリ頬擦りでもしてみろよ。そういうのが一番伝わるんじゃないの?」
「そうですね。三崎さんにそうやって頼まれたら誰だって……」
「……」
「あれ、宮田さんなんですかその目は?」
「別にー」

 冗談だか本気なんだかわからない彼らのやりとりを、俺はいつになく真剣に聞いていた。