「……あのさ、三崎くん。
こう見えて、僕結構緊張してるんだけど……」

「へえ、あんまりそうは見えないけど」


 3月初旬、火曜日の午後。
 春らしさが一層明るく感じられる、カフェの窓際のテーブル。
 俺の向かい側に座る男が、手元のアイスコーヒーのグラスに長い指を伸ばした。

「だって、君からいきなり話したいことがあるって連絡なんか来たら……とりあえず、穏やかじゃいられないだろ?
 それに、君もこんな平日の昼間から、ダンナ以外の男と会ったりしてて大丈夫なの?」

 ほんとにこいつは、言ってることと態度がすぐズレる。今口から出た緊張は何処へやら、後半はどこかニヤつきながら頬杖をつき、俺を楽しげに覗き込む。

 この男——宮田は、神岡が贔屓にしている美容室「カルテット」の腕のいい美容師だ。俺が以前ハウスキーパーとして神岡に雇われていた頃、神岡の依頼で俺のヘアスタイリングを担当していた。
 すらりとした長身、中性的に綺麗な顔。小洒落た見かけとは裏腹に、中身は相当にどろりと拗れた男だ。

 こいつは、俺と神岡が知り合う前から神岡のスタイリングも担当していたから、俺が神岡に雇われた時には既に彼にぞっこんだった。それこそ少し狂気じみたレベルに。
 そこに俺がちょろちょろと邪魔に入ったような形になり、俺はこいつからセクハラやら何やら散々嫌がらせをされたのだ。挙げ句の果てに、神岡に見込みがないとなると今度は俺に交際まで迫り……こいつの思考のねじれ具合には流石に辟易したものだ。
 本当なら顔も見たくない間柄になってもいいところなのだが……なんだかんだ言いながら、喧嘩友達のような関係が今も続いている。俺の髪の担当も、相変わらずこいつだ。

 そんな男に、よりにもよって超プライベートな相談事を……俺もいい加減とんでもない変人である。


「い……神岡には、今日は有休取ると伝えてあるし。あんたに心配してもらうようなことはない」
「……んー??
 言い直すなよ。最初の『い……』って、何だよ?」
 宮田は、俺のミスをいやらしく拾い、ますますニヤついてそう突っ込んでくる。
「……うるさい。それは今日の話には全く関係がない」
「へー。君さ、ひとの貴重な休日にこうして呼び出しといて、さすがに態度がなってないよ? 言わないんなら、僕も他にいろいろ予定があるんだし……」

「…………
 いっ、『樹さん』って言いかけただけだって!」
 くっそおー!!
 俺は恥ずかしさについ顔をカッと熱くして、ぶっきらぼうに返した。

「んくくっ……あー、やっぱり君ってほんと可愛いなあ」
「……」
 こういうとこで平静を保てない俺もいい加減アホだ。こいつの思うツボなのに……身体が勝手にそういう反応をしてしまうんだから仕方ない。
「『樹さん』かあ。いつもそう呼んでるってことねー。じゃあさ、僕の名前も呼んでよ。『優斗《ゆうと》さん、今日はよろしくお願いします♪』って、可愛くお願いできたら相談に乗ってやるからさ」
 宮田は、いかにも面白そうにますます調子に乗る。
「はあ!? 勘弁してくれ。あんたを優斗さん、なんて……」
「僕はどっちでもいいんだよー? 今すぐ帰ることもできるんだし♪」

「…………
 優斗さん。今日はよろしくお願いします……」

 本当に仕方なく、俺は宮田の目を見つめて言われた通りにお願いした。
 こいつの言いなりなんてマジ腹立つがここは我慢だ……!!
 
 そんな俺に、宮田は心底満足げにニヤつく。
「うああーー。マジヤバい、最っっ高」

「…………」
 はーー。馬鹿な俺。
 こいつと話したら、だいたいこうなることくらいわかってただろ。

 それでも、今日はこいつに聞いてもらう気で来たんだ。……耐えろ。 
 俺は気を取り直し、宮田の目をぐっと見て伝える。
「……あんたの要求は叶えた。今度は俺からの要求だ。
 これからする話は、一切口外しないこと。ふざけ半分で聞いてもらっちゃ困る。
 ——一応、以前とは違うあんたを信頼して言ってるんだからな」

「……了解。
 おかげさまで恋煩いも治ったし。約束は守る主義だから安心してよ。
 それに、こんなふうに君に頼ってもらえて、僕も実はかなり嬉しいんだからさ」

 少し改まった顔でそう言うと、宮田は浅く微笑んだ。







「ぐふ……っっ!!!」
 最初の一言目で、案の定宮田は飲みかけていたアイスコーヒーに盛大に噎せた。

「……ごっごめん三崎くん……もう一回、言ってくれる?」
「だから……今、妊活中」
 この辺から、会話は自ずとこそこそモードになる。
「誰が」
「だっ、だから……俺と神岡が」
「で……産むのはどっちだよ?」
「…………俺です」
「そうだろうな、君は見るからに妊娠しそうだし」
「おい、どういう意味だ」
「問題はそこじゃない。
 なあ、なんでそうなるんだ? いくら妊娠しそうだと言ったって、君は男だろ? そんなことあるはずが……」

「俺だって、最初は信じられなかったよ。
 でも……一年半くらい前から、月に一度くらい体調不良とわずかな出血があったりで……検査したら、それは生理だった。俺は女性の機能も体内に持ってるらしい。で、そっちの機能もどうやら正常に動いてるみたいで……女性に比べたら受精率は低いけど、妊娠可能だそうだ」


 宮田は、まだ信じられないというように、俺を上から下までまじまじと見つめた。
 そして、やっと次の言葉を繋ぐ。
「…………で、子供が欲しい、ということか」

「だって、そう思うだろ? 好きな人との子供ができるとしたら、欲しくなるだろ普通?」

「…………
 君の身体は、そんなことに耐えられるのか?」
「……まあ、安全とは言えない。
 でも、俺にもそういう仕事ができるなら……どうしてもトライしてみたい」

 宮田は、グラスの氷をストローでくるりと回し、少し何かを考えてから、俺に視線を向けた。
「で、進捗は……
 その顔つきじゃ、捗々《はかばか》しくないみたいだね」
 宮田に見透かされ、落ち気味の視線がますます下がる。
「実は、思った以上に気持ちが煮詰まって。
 本気で取り組んで、もうすぐ1年……俺なりに全力だし、彼も一緒に真剣に向き合ってくれる。目標達成に向けて、できる限りの努力は重ねているつもりだ。
 なのに、日々の努力をこうもあっさりと流され、答えが出るのかさえわからない状況っていうのは……こう、なんというか」
 ボソボソとそう呟き、今更のようにコーヒーのカップにミルクを注いでスプーンでぐるぐるとかき混ぜる。


「……君は、贅沢だ」

 そんな俺の耳に、宮田の低い呟きが届いた。

 はっきりと響いたその言葉に、俺は思わず顔を上げ、彼を見つめた。

「……贅沢?」

「そう。贅沢すぎる」
 宮田は、そう言っていつになく真面目に俺を見る。

「君は——望んだものは、何でも手に入ると思ってるだろ?
 きっと君は、子供の頃から目標をしっかり定め、それに向かって努力を惜しまず……最後には、その目標をしっかり現実にしてきた。
 君にはそんな能力も、根性も、しっかり備わってる。だからこそ、願ったことはどれも実った。——今まではね。

 でも……
 それを裏返せば……努力しても願いが叶わない苦しさというのを、これまで味わったことがないんじゃないか?」

「…………」

「ほら。よく言う『挫折経験がない』ってヤツだよ」
「簡単に言うな」
 俺の反論に、宮田はふっと小さな微笑を浮かべる。

「誰だって、挫折なんてしたくない。誰もが、真剣に自分の願いを叶えたいはずだ。
 けどね——例えば僕なんか。思い通りにならなくて、痛い思いや苦い思いをどれだけしてきたと思う?
 それに君も知っての通り、死ぬほど好きでも叶わない恋もある……そんな風にね」


 ……好きでも、叶わない恋……
 かつての宮田が、歪《いびつ》に捻れるほどに強く向けていた、神岡への想い。

 確かに……その通りかもしれない。

 努力を重ねて叶うこと。どんなに努力しても、叶わないこと。
 その二種類があることを、俺はちゃんと見ようとしていなかったのかもしれない。
 見たくない。叶わないなんて、思いたくない。——ずっと、そんな気持ちだった。

 けれど……
 そういう現実を、冷静に受け入れなければ……
 今回のような挑戦は、思うようにならない苦しさがひたすら心に蓄積していく一方なのかもしれない。


「君はさ、もう既にぜーんぶ手の中に独り占めしてるんだよ、全く。
 そんな立場にいながら、更に贅沢に悩みやがって……僕に言わせたら、むしろ思い切りどついてやりたいくらいだ」
 宮田は、ふんっと鼻から荒い息でも吐き出しそうな気配でそう呟く。


 ——宮田の言う通りだ。

 願いが叶わない場合もある。
 その現実も、静かに受け入れる気持ち。
 願いが叶わなくても、もう充分満たされている。——そういう気持ち。

 今の俺に必要なのは……きっと、それなんだ。


「やっぱり、あんたに相談して正解だったかも」
 俺は、少しばかり尊敬の念を抱きつつ、改めて宮田を見た。
「へえ、そう?」
「なんとなくね。……今、ちょっと目が覚めた気分だ。
 俺、そういうのを聞きたかったのかもしれない。……こういう相談されて、どつきたいって答えるの、恐らくあんたくらいしかいないからな」
 あんまり深く感謝を見せるのもどこか照れ臭く、俺はいつもの調子のまま、ボソボソとそんなことを言った。

「ふうん。……まあ、なんか役に立ったならよかった。
 あ、もし神岡さんといくら頑張ってもうまくいかなければ、代わりに僕がタネ提供してあげてもいいけど。どう?」
「は!? 断る!! 絶対!!!」
「ははっ、まあ冗談は置いといても。男性側が問題ってことも、実際あるんだし。
 一応、そっちも調べてみたらいいんじゃない?
 あ。それから、女の子はストレスとかそういう原因で生理が乱れたりするらしいから。三崎くんもあんまりカリカリすると大事な生理止まっちゃうかもよ? 気をつけてねー」

 スルスルとそんなことを言いながら、宮田は何食わぬ顔でストローを咥える。

 ——思ったより、指摘が色々鋭いなこいつ。

「あー、なるほどね」
 内心の感嘆をそんな軽い返事で押し隠し、俺もぬるくなったコーヒーを喉に流し込んだ。







「ただいまー。……あれ?」
 仕事を終えて帰宅した神岡が、テーブルのメニューを見てちょっと意外そうな顔をした。
「今日はすき焼き? 最近のメニューとはガラッと違って、珍しいね」
「ええ。たまにはシンプルに具材切って並べて一緒につつくメニューも楽チンでいいなーと思って。あ、肉は最高のやつですよ?」
「うあー、それは楽しみだ! うーん、なんだか今日はビールな気分かなー」
「ですね! そう思ってキンキンにしておきました」

 そんな俺の様子を、神岡は嬉しそうに見つめる。
「どうしたんですか?」
「ん、いや。今日の柊くん、久しぶりになんか楽しそうな顔してる気がして」
「……かもしれませんねー。
 樹さん、待ちきれません! 早く食べましょー!」
「そうだね! じゃ急いでシャワー済ませてくるよ」

 俺が満ち足りていれば、神岡も幸せそうな顔になる。
 不足しているものなんて、何もない。

「んんー、美味だ。久々に、体に染み込む美味さだなーこれ!」
「そういえば、がっつり肉食べるのは俺もほんと久しぶりです」
「こんなに贅沢な夕食とったら、その分しっかり運動しないとなー。……ね、柊くん?」
「あ、確かにそうですね。じゃ食べたら俺も風呂入ってきます」

「…………
 おお……こんなにもすんなりOKが……!?」

 よりによって、宮田の言葉がこんなにも自分を救ってくれるなんて。

 その日、俺は心の中で繰り返し宮田に感謝を呟いた。