須和くんとその母親が部屋へやってきた週の金曜。
 夜8時少し前。今日は神岡が早めに帰宅した。
「平日のこの時間に帰宅できるって久しぶりだなー。下半期の会社の滑り出しも問題ないし、そろそろ育休に戻れそうな見通しが立ってきたよ。よし、晴、湊、すぐ準備するからパパと風呂入ろー!」
 神岡は明るい顔でそう言いながら、ネクタイを元気にほどいた。

 浴室で、子供達のはしゃぐ声と、神岡が子供達に何か話しかける楽しげな声が響く。
 何だかたまらなく幸せな時間だ。
 こんなささやかな場面の連なりが、つまり何にも変えがたい幸せなのだ。
 子供達の着替えと紙オムツを防水マットの上に揃えながら、俺はふとそんなことを思う。

 風呂上がりの晴と湊は、二人とも太く柔らかい手足をマットに投げ出し、ぽわっと頰を桃色に染めていかにも気持ちよさそうだ。
 真っ白に丸い二つのお腹を両手の指でくすぐると、小さな口元をぱかっと開け、手足をパタつかせて弾けるように笑う。
「きゃきゃきゃ〜〜っ!!」
 はあ〜〜〜……愛くるしさが過ぎて呼吸困難。脳がもうほんと溶けそうになる。
 風呂上がりのひととき、こんなスキンシップが俺たちの日課だ。


 子供達の着替えを済ませ、ミルクを用意するついでに覗いたスマホに、メッセージが1件届いていた。
 須和くんからだ。
『明日、両親に自分自身のことをちゃんと話そうと思っています。
 あれから、母の様子は以前と特に変わらない気がしますが、何をどう思っているのか想像すると、半端なく気が重いというか……
 でも、家族から逃げていては、この息苦しさからも解放されない。そう腹を括って、全部ぶちまけて気の済むまで話し合えればと思います』

 重く張り詰めた須和くんの気持ちを思う。
 浴室から出てきた神岡にも、そのメッセージを共有した。

「そっか……いい加減にじゃなく、ちゃんと家族で話そうとしてるんだな、須和くん」
 髪をタオルで拭きながら内容を読み、神岡がそう呟く。

「そうですね。あれからどうなったか気になっていましたけど、親子で顔を付き合わせて話す時間を持とうとしているんですね。
 彼のことだから、そう決めたら真っ正面からぶつかるんだろうな。
 彼の両親がどう反応するか、彼の思いに真っ直ぐ向き合ってくれるか……それが気がかりですが」

「うん……
 家族というのは、時に他人同士よりも激しく衝突し、ともすれば感情が複雑に縺《もつ》れてしまう場合があるからな。
 肉親とのいがみ合いは精神的に重いし、拗れたものが解消するまでに時間がかかったりして……なかなか厄介なものだよね」

 自分自身の経験とも重なる部分があるのだろう。俺の隣で粉ミルクを測る神岡の眼差しが微かに沈む。

 流水の下で哺乳瓶のミルクを冷ましながら、俺は神岡と共に歩むようになってからの自分達を思い起こした。
 そして、彼と両親との関わりの変化を。

「……けど。
 どんなことも、時が流れれば少しずつ明るい方へ向いていきますよね。傷が少しずつ癒えたり、自分自身の気持ちも変化したりして。
 家族がお互いに歩み寄ろうとする気持ちさえ失くさなければ、きっと大丈夫……そんな気がします」
「そうだね。それは間違いない。
 僕も、両親との関係がこんな風に穏やかで明るいものになるなんて、昔は想像すらできなかった。
 君が、僕の隣に来てくれたお陰だ。
 ——ねえ。僕からも須和くんに一言メッセージしたいけど、いいかな?」
「ええ、もちろんです! 須和くん喜びますよ!」
「今の彼に届けたい思いを、なんとか言葉にしたいよね……んー……」

「……ああぁ〜。だぁーー!!(なあー。ちょっとミルク遅いんじゃね!?)」
「グオおううう!!!(風呂上がりの喉の渇きを想像しろ!!)」
「あーーまずい、子供達がミルク催促はじめた!」
「最近の晴のイラつき喃語がこええ……穏やかな普段とのギャップが凄すぎる……!」

 不満げに手足をバシバシ言わせて愛らしい喃語を連発する子供達の温かい身体を抱き上げ、俺たちは苦笑いを見合わせた。









 その夜、10時過ぎ。
 自室の机でパソコンに向き合う翔吾の手元のスマホが、メッセージの着信を知らせた。少し時間を空けて、2件届いたようだ。
 翔吾は目の前の課題を中断し、画面を確認する。

 そこには、何行にもなるメッセージが2通届いていた。

『須和くん、明日ご両親と話すんだね。俺も神岡も、応援してるから!
 君の真っ直ぐで温かい人柄は、どんな困難も打ち砕く力を持つものだ。自分の信じるものを見つめて、真っ直ぐ誠実に歩けば、必ず道は開けるよ。
 もしも君が痛みや苦しみを抱えても、君を応援したい人が周りにたくさんいる。それだけは忘れないで。
 全力で努力して、それでもうまくいかなければ……俺たちにできることがあれば、何でも話して、頼ってほしい。
 そういう場所があると思ってもらえたら、俺は嬉しい』

『神岡です。僕からも一言送るね。
 僕も、両親と気持ちの噛み合わない時間を長く味わったから、君の苦しさは本当によく理解できる。
 けれど、僕が柊に出会って救われたように、君も今、こうして新しい人間関係を築きつつある。柊の言う通り、もう君は独りきりじゃないんだ。
 だから、ご両親に向かって牙を剥くような感情は捨てたらいい。ムキにならずに、素直に自分の思いをご両親に打ち明けてみて欲しい。
 身構えず、素直にありのままの自分を見せることは、相手と歩み寄るためにとても大切なことだよ。
 世の中には、どうやっても分かり合えない相手もいる。たとえ親子でもね。
 分かり合えなくてもいい。話し合いがどんな結果になったとしても、相手と誠実に向き合ったならばそれでいいんだ』


「…………」

 溢れるほどに温かくて強い、二つのメッセージ。
 二人から贈られた言葉の一つ一つを、何度も噛み締める。

 自分は明日、一人きりで戦いに挑む気がしていた。今の今まで。
 自分の前に聳《そび》えるあれほど固く冷ややかな壁に、本当に向き合えるのか。こんな気持ちでその場に臨んで、何か明るいものを掴むことができるのか。
 自分から希望しておきながら、まともな話し合いなど到底無理な気がしていた。

 メッセージを表示したスマホを両手で包み、一つ大きく息を吸い込んだ。
 がんじがらめに硬直した感情が、今は温かな熱を持ち、きつく巻きついた強固な鎖を溶かしていく。

 そうか。
 今の自分には、受け入れてもらえる場所がある。もしも、明日どんな結果になったとしても。
 分かり合えなくてもいい。いい結果を得ようと必死になる必要はない。ありのままの自分で、全力で向き合えば、それでいいんだ。

 闇に一人きりで立ち竦んでいた不安と恐怖が、去っていく。
 心が緊張から解かれたせいなのか。温かい涙が湧き出して仕方ない。
 贈られた二つの思いを力一杯抱きしめるように、翔吾はひたすらその言葉たちを読み返した。









 翌日、土曜日の夕方。
 リビングのソファに、翔吾は両親と向かい合わせに座った。
「翔吾、なんの話だ、改まって?」
 父親が、いつもの空気に微かにざわついた気配を加えながら翔吾を見る。
 母は、黙って翔吾を見つめた。

「二人に、話したいことがあるんだ。
 本当は、親にこんな話をせずに済むならどんなにいいかと思う。
 けど——それじゃ、俺はこのまま檻から出られないから。
 長い前置きとかしないよ。

 俺は、ゲイだ。
 多分、女性とは恋愛できない。
 それと——近いうち、ここから出ていきたいと思ってる」

 変にもたつけば最後まで言い切ることができなくなりそうで、翔吾はそれをさらりと告げた。


「———」

 父の表情が、何か聞き違いでもしたかのように歪んだ。

「翔吾、今なんて……」
「俺はゲイだよ、父さん。
 父さんと母さんが、これまで散々毛嫌いし、蔑んできた、その『気持ち悪くて理解できない』人間だ」

「——まさか。そんなこと、あり得ないだろう?
 だってお前は、これまでそんな様子全く……」
「我慢していた。必死に隠した。二人の様子を見てれば、とても話すことなんかできない。
 辛かったよ。父さんと母さんから、自分の存在を否定されるような言葉を聞く度に、頭を掻き毟りたくなった」

「…………」
 父の表情が、これまで見たことのない険しさを帯びた。

「——認めろ、ということなのか。
 こんな唐突に、そんな話を聞かされて……そういう立場を理解して、今すぐ認めろ、と言いたいのか」
「違う。無理やり認めて欲しいなんて、少しも思ってない。
 ただ——俺がそういう存在だと伝えなければ、俺と父さんや母さんとの関係は、これまでと何一つ変わらないじゃないか。俺はこれまで、あんたたちにとって都合のいい『真面目で大人しい息子』でしかなかったんだから。
 俺はこれ以上、そういう役は演じられない。それを、はっきり伝えたかった」
 
 眉間を深く寄せて複雑な眼差しを向ける父と、ただ静かに俯く母を、翔吾はやりきれない思いで見つめる。
 それでも、この話はまだ終われない。

「父さんと母さんにとって、今までの俺って、どんな存在だった?
 俺を一人の人間として見てくれたこと、今までにあった?
 恥をかかせないで欲しい。みっともない姿を晒さないで欲しい。傍目から見て完璧な息子でいるのが当然。黙って親の言うことを聞いていればいい。——父さんと母さんの気持ちは、俺にはいつもそう感じられた。まるで、自分たちのアクセサリーが泥で汚れては困るとでもいうように。
 俺は、あんたたちのアクセサリーじゃない。
 自分自身を偽り、あんたたちの虚栄心を満たすための道具でいるのは、もうまっぴらだ。あんたたちがこの家中に張り巡らすくだらない価値観から、俺は自由になりたいんだ」


「…………」

 ビリビリと緊張した空気が、一瞬静まり返る。
 息子の言葉の矛先を逸らすかのように、父は息子をきつく見据えた。

「——翔吾。
 今回こういう話を切り出す決意をしたのは、何が原因だ?
 カミングアウトと言うんだろう? お前だけでは、急にこんな行動を起こすはずがない。——お前自身にも親にも悩みの種にしかならないこんな行動を、誰にけしかけられた?」
「あなた、そういう言い方は……」
 おどおどとした表情で言葉を挟む母に、父は冷ややかな視線を投げる。
「伸恵、お前にも言っておいただろう。妙な交友関係を深めないよう、翔吾に早めに話しておけと。どうしてこういうことになった?」
「今週の月曜に、母さんが直接あの人たちの部屋に話しに行ったんだ。俺との関係を絶ってくれって。俺に何の相談もなく、俺がいない時間を選んで」
 翔吾の言葉に、伸恵は表情を強張らせて俯く。
「忘れ物取りに戻ってきたら、その最中の母さんと偶然かち合って。その瞬間、怒りが抑えられなくて——彼の家の玄関先で、母さんに大声で怒鳴ったんだ。自分は同性であるこの人に惚れてる、って」

「——……」

 父は一瞬唖然とした顔になり、やがてテーブルの拳をわなわなと震わせ始めた。
「……し、翔吾……
 お前——よりによってこのマンション内で、一体どれだけ恥ずかしい騒ぎを……
 今回のことも、全部そいつらの影響なのか。それも、惚れてるなんて……正気の沙汰じゃないだろう!? 彼らの名前をちゃんと教えなさい。このまま済ませていい話じゃない」
「————あなた、本当に、もうやめて……」
「言うよ。
 大切な人たちを、これ以上あんたに『そいつら』と呼ばせる気はない。
 三崎 柊さんと、神岡 樹さんだよ」


「…………」

 その二つの名を聞いた父の顔が、すっと青ざめた。