まどかさんは、俺たちの願いを聞き入れてくれた。
 幼稚園などでママ仲間に顔を合わせてしまうと声を上げるタイミングを失ってしまいそうだから、この週末のうちにグループトークへメッセージを送ってみる、と約束してくれた。

「私も、今までの自分自身を反省する機会が持てて、むしろ良かったのだと思います。
 今日のことがなければ、私はきっと自分が痛い目に遭いたくないという卑怯さを黙認したままでした。
 大切な友達を見捨てて、皆さんの抱える苦しみに触れることもなく人生を過ごしてしまう——それを思うと、ぞっとします」
 静かにそう呟くまどかさんを見て、改めて思う。
 彼女の心の中の苦しさも、また深いにちがいないと。
 ママ仲間に向けて反意的な主張をすることで、これまで保ってきた彼女の安全な居場所は一気に危険に晒される。最悪の場合、彼女と紗香さんが周囲から完全に孤立してしまう可能性もないとは言い切れない。
 それでも、彼女の明確な口調は、もう迷ってはいないことをはっきりと感じさせた。

「——それに。
 険しくて一人では歩けない道でも、二人なら歩き通せる。……きっと、そうだよね」
 紗香さんに向けて明るく笑いかけるまどかさんもまた、この上なく聡明で強い女性なのだ。
 紗香さんは、泣き出す前の少女のような顔でまどかさんへ微笑み返した。

「……ありがとうございます、まどかさん。
 もしも今回のことが原因でお二人が孤立したり、辛い仕打ちを受けるようなことがあれば、僕たちもそれなりのリアクションを起こしたいと思っていますので」
 ブレのない姿勢で答える神岡の美しい微笑に、まどかさんは驚いたような表情になる。
「リアクション、って……アヤノちゃんママや、向こうのグループにですか?」
「ええ。ここまで突っ込んだお願いをしておいてその先は皆さん任せなんて、あまりに無責任ですしね。それに、そういうとんがった人たちと一度話をしてみたいと、かねがね思っていましたから。
 まどかさんも紗香さんも、今後向こうのママ達から何か目立った言動を受けた場合は、僕たちにお知らせいただけますか?
 あ、大っぴらに喧嘩してやろうとかそういうつもりは全くありませんのでご安心を」
 神岡の申し出に俺も笑顔で頷きつつ、微かに心がざわつく。
 ……なんかさっきからちょっと怖いぞ、神岡のこの静かな気迫。

「神岡さんや三崎さんがそんな荒っぽい行動をするはずがないことは、よくわかっています。
 けれど……彼女達の出方によっては、穏やかなままでは済まない、ということですね……?」
 神岡への紗香さんの問いかけに、微かな緊張が感じられる。
「そういうことです」
 彼の微笑が一層冴えた。

 その場に漂った空気に、ふうっと張り詰めた息を微かに漏らした俺である。









 紗香たちと会った翌日、日曜の午後。
 何度も机の前を往復した末、一つ大きく呼吸をしたまどかは、意を決してスマホを握った。

『グループトークから紗香さんを外すのを、やめない?』
 悩みに悩んで、結局そういう最小限の言葉にしかならない。
 初っ端にどんな説明を加えても、一番伝えたいその点がグループに広まれば、受け取った側の反応はそれほど変わらない気がした。
 汗に湿る指で、ぐっと力を込め送信ボタンを押す。

 ——賛成意見が、一つでも先に返信されれば。
 祈るような思いで、じっと画面を見つめる。

『え、どういう意味?』

 最初に返してきたのは、グループ外しの提案者であるアヤノちゃんママ——石倉 理穂だった。
 最悪の展開だ。
 冷や汗が脇に滲み出るのを感じながら、その返事を必死に文字にする。
 こういう展開も当然想定していた。
 紗香や神岡たちに半ば強引に呼び出されて説得を受けたことは、言いたくなかった。それを知られれば紗香が一層の非難を浴びることは間違いない。

『紗香さんを仲間外れにするのを、やめられたらと思って。
 ずっとこういう気持ちでいるの、辛くなったから』

 すぐに理穂から返事が来る。
『だってあの人、自分で勝手に私たちから離れていったんじゃん。なんで私たちがこっちから許すみたいにしなきゃなんないの?
 それに、何考えてるかわからない人たちの仲間入りを進んでするような人、なんか違和感ありすぎて気持ち悪いし』

 違う。
 これだけでは、自分の言いたいことは伝わらない。
 ちゃんと言わなければ。言わなければならないことを。
 まどかは勇気を奮い起こし、言葉を打ち始める。
『紗香さんのためだけじゃなくて……考え方を変えたいと思うの。
 恋愛対象は異性なのが当たり前で、それ以外は悪趣味で気持ち悪い、っていう考え方は、間違ってる。
 最近、そういう事情を知る機会があって……はっきりそう思った』

『えっマジー? もしかしてまどかさんも「あっちの人」になっちゃったワケ?』

 完全に人を蔑むその返信に、強い怒りがこみ上げる。
 激しい感情を押さえ込み、まどかは自分の思いを必死に纏める。
 今一番伝えるべきことは、一体何か。

『それ、すごい勘違いじゃないかな……
 劣っているのは、誰でもない、私達だよ』

『どういう意味よ』

『私たち、ほかの人の考え方や生き方を散々噂して、酷い陰口言い合ってるよね。
 考えてみればそれって、ただ人を馬鹿にして楽しんでるだけだよね。
 自分達の生き方を、普通で正しくて間違いないものだと思い上がって、それ以外の生き方をしている人たち、そのことで苦しんでいる人たちを好きなだけ蔑んで。下品な優越感に浸って楽しんでいる。そうでしょう?
 もしも、自分が「言われる立場」だったら……そういう想像を、したことある?
 蔑まれる立場の苦しみを考えもしないで、遊び感覚で人を貶して、優しい友達を仲間外れにして。
 私たちのしてることって、汚《きたな》すぎる』

 まるで箍《たが》が外れたように、溜め込んでいた怒りが次々に湧き上がって、止められない。恐る恐る顔色を見ながらなんて、何だかもう馬鹿らしくなってきた。
 思ったままを言葉にし、迷わず送信する。

『は? 急に何様?
 別にいいんじゃない? つまりまどかさんも私たちと考え方が違う、ってことね。よくわかった』
 全く余裕を失わない理穂の態度に、歯ぎしりが出そうになる。
 ここで引き下がるわけにはいかない。絶対に。
『みんなは、どう思う? 私が感じている疑問って、間違ってる?
 みんなの気持ちも聞かせて欲しいの。黙ってるっていうのは、今の状況に賛成するのと同じことだよ。みんな、賛成なの?』

 画面を見つめるが、誰からも応答がない。


 ——失敗した。
 ひんやりとした絶望感が、背中を這い上る。


 呆然と机にスマホを置きかけたその時、手の中で小さくメッセージの着信音が鳴った。
 スマホを取り落としそうになりながら、震える指で画面を確認する。

『……私も。
 私も、紗香さんに戻って欲しい。以前みたいに。
 このグループから離れてあの人たちを応援する紗香さんの気持ちが、私にはよくわかる』

 野口さんだ。
 いつもは大人しくて目立たない、小柄で華奢なママだ。

『私も、そう思う。
 なんで私たちが他人の陰口を言う権利があるのかって、ずっと疑問で、苦しかった』
『私と旦那や子供が、もし周りの人から指差されて悪口言われてたら、どんな気持ちだろうって……それ考えたら、今すごくゾッとした。
 私も、紗香さんを外すのはもう嫌だな。すごく違う気がする』

 いくつも届くメッセージに、思わず胸が熱くなる。

 今のグループは、まどかも含めて6人だ。
 野口さんのコメントの後、二人のママが共感してくれた。つまり、このグループのうち4人は紗香を戻すことに賛成を表明したことになる。

『紗香さんに戻ってもらおうよ。今すぐ。ちゃんと謝ってさ。
 もしアヤノちゃんママがどうしても賛成できないんなら、今意見が一致したみんなで、紗香さん入れて、別のグループ作ればいいんじゃない?』

 いつも勢いのある元気なママが、躊躇なくさっくりまとめてくれる。
 理穂からの返事は、ぷつりと途切れた。


『——よかった。みんなに言ってみて。
 嬉しい。本当に』

 まだ小さく震える指で、そう送信する。
 同時に、まどかの目の奥がじわっと熱く込み上げた。









「新しいグループを作りました。
 紗香さんに戻って欲しいママ達3人と、私と紗香さんの5人で」

 その翌週の土曜日。
 前回と同じキッズカフェで、俺たちはまどかさんと紗香さんからそんな明るい報告を受けた。
 先週日曜にグループトークで繰り広げられたやり取りをまどかさんから詳しく聞き、改めて俺たちも手に汗を握ったのである。

「アヤノちゃんママともう一人のママは、こっちには入っていませんけど……無理矢理話し合っても、多分また揉めるだけかなと……
 彼女達ももう自分達の主張を押し付けては来ませんし、幼稚園で会っても冷酷な気配を感じることはなくなりました。
 お二人が手を差し伸べてくれたおかげで、また以前のようにママ達と楽しく交流できるようになりました。
 本当に、ありがとうございました」
 紗香さんが、目を微かにうるっとさせて深く頭を下げた。

「良かったですね。
 お二人の明るい顔を今日見られて、こんなに嬉しいことはありません」
 神岡も、ほっとしたように二人へ微笑む。

「本当に。ママたちが皆温かい思いで共感してくれて、実は俺たちもすごく嬉しいんです」
 マンションですれ違う度に彼女たちへ抱いていた恐怖感が少し晴れたような嬉しさで、俺も大きく頷いた。

「こんな風に、少しずつでもお互いに認め合うことができれば、世間はもっと幸せになるのに……」
 まどかさんが、小さくそう呟く。

 その通りだ。
 全てを深く理解し合うのは難しくても、「そういう考え方や生き方もある」と互いに受け入れ合うだけで、社会はずっと優しくなるはずなのだ。 

 その時、プレイスペースでガラガラっと音がし、同時に子供の可愛らしい声が響いた。
「あー! みーくん、こわしちゃダメっ! せっかく作ったのに! それ、おしろのやねなんだから取らないでよ!」
「うぶぐうう〜〜!(だってこの色すきなんだもん!)」
 優愛ちゃんと湊が、鮮やかなブルーの三角形の積み木を取り合っている。お城の崩れる様子が面白かったのか、陸くんと陽奈ちゃんが側できゃっきゃっと笑う。
「あうあー(のど乾いたなー)」
 晴はふわっと窓の外を見ながらチュパチュパと親指をしゃぶり始めた。
 そんな子供たちの表情も、今日は一層輝くように眼に映る。
「そろそろ子供達にもお茶あげよっか」
 俺たちは、顔を見合わせて明るく笑い合った。



 キッズカフェから帰宅し、眠そうな子供達をベッドに下ろす。
 湊はお気に入りのタオルにまん丸い頰をもふもふとすり寄せ、晴は左手の親指をしゃぶって一気にお昼寝モードだ。

 二人を寝かしつけながら、神岡が静かに呟く。
「今回の件、上手くいってよかったな。
 僕も、会社の方が落ち着けばまた育休に戻れる。厄介だった例の契約も望ましい形で成立したしね、当面の大仕事はひと段落だ。
 ただ、今10月始まったばかりだろ? 下半期の滑り出しを確認できるまで、あと半月ほどは出社したいと思ってるんだが……もう少しだけ、大丈夫?」

「ええ、大丈夫です」
 二つのグラスに麦茶を注ぎ、一つを神岡に差し出しながら俺は明るく返す。

「いろいろあっても、こうして乗り越えられたんですし。
 あと半月くらい、何の心配もないですよ」

「——うん。そうだよな」

 子供達の寝顔を見つめ、俺たちは穏やかに微笑み合った。