「はあぁぁ…………」

 体の周期的にチャンスの到来した、金曜の夕方。
 気づくとどこかへすっ飛びそうな集中力を必死に呼び戻しながら、俺はその日の仕事をなんとか終えた。
 ざわざわと騒ぐ気持ちを押さえつけながら目の前の業務に取り組むのは、思った以上に神経が擦り減り……気づけば普段の金曜より余計にぐったりしてしまった自分に鞭を打つ。

 おい、疲れたとか言ってる場合じゃないだろ俺!
 今日は、これからが本番なんだからな。

 ……だからそう言い方やめろって! ガツガツした男なんて最低!!

「あーーーもうお前らうるさいっっ!! さあとりえず夕食の献立を考えるぞ!」
 朝から相変わらず複数に分裂して言い合いを続ける自分自身を罵倒しつつ、俺はそう声に出しながら会社を出た。


 ショッピングモールの食品コーナーを眺めながら自分の気持ちを冷静に分析すれば、今日はどうやらシャンパンでも開けたいくらい気持ちが高揚している。
 身体のリズムが順調らしいことも分かり……それに加えて、妊娠を望み始めて以降初めて訪れたチャンスだ。期待が募らないはずがない。

 ただ……俺の願いにゴーサインを出してからも、神岡の心の中は相変わらず見えにくい気がしていた。


 この2ヶ月間、先ずは俺の身体の波を確認してから……というその手順を、彼も静かに見守ってくれていた。
 本当に大切なことにはとても慎重に向き合う彼だ。状況を見守る間、自分の感情をあれこれ表に出したくはないのかもしれない。

 それは分かっているのだが……あまりにも静かなその様子を見ていると、心からの同意はやはり得られていないのか?と時々不安になる。


 彼に何かを我慢させて、俺が一人やる気満々に自分の希望を押し通しているのだとしたら。
 彼の気持ちが側にない出産や育児なんて、悲しさばかりが蓄積していくような気がしてならない。

 今日、帰ったら、もう一度、彼にちゃんと確認しよう。
 そして、彼の中にどうしても晴れないものがあるなら……このチャレンジは、やはり諦めた方がいい。


 店を出て、闇に変わっていく夕空を仰ぎながらそんなことを思い……俺の心は、そこでやっと静かになった。









 結局、今晩のメニューはなんとも言えずフツーな感じになった。
 薬味にミョウガを使った冷奴と、トマトのサラダ、生姜を多めに使ったさっぱり生姜焼き千切りキャベツ添えに、茄子と揚げの味噌汁。そしてごくフツーの缶ビール。……だってどうにもごちゃついた微妙な気分だったんだから仕方ない。

「お、今日は夏らしいメニューだね! 梅雨明け間近の蒸し暑さがさっぱり洗い流せそうだ」
 帰宅した神岡は、準備の進む献立を見ていつものように嬉しそうな顔をする。

 ……そうだよな。
 この人がいてくれれば、俺はもう100%幸せなんだよな。
 なんだか急にそんな穏やかな気持ちになりつつ、二人一緒に食卓についた。

「じゃ、1週間お疲れ様。乾杯ー」
「……あの、樹さん……大事な話があるんですが」
 ビールをお互いのグラスに注いだそんなシンプルな乾杯と同時に、俺は切り出した。

「ん?」
「……これ、見てください」

 俺は、基礎体温をつけたアプリを開き、そのグラフを彼に見せる。

「……これ……」
「最近約2ヶ月間の基礎体温の動きです」

 神岡は、そのグラフの動きをじっと見つめる。

「……藤堂先生の言っていたリズムが、ちゃんとできてるんだね?」
「ええ、そうみたいです。
 それから……今日の体温の変化を見ると、どうやらここ数日は妊娠が可能な期間になるらしくて」

「…………」


「——樹さん。
 俺、もう一度、あなたにちゃんと確認を……」
「柊くん」

 俺の言葉を遮り……彼の腕が伸びたかと思うと、俺はぎゅうっときつく彼の胸に抱き締められた。

「とうとう、スタートだね。
 ——頑張ろう、一緒に」


「————」

 抱きしめる腕を緩めずに、彼は静かに言う。

「……ここしばらく、君に何も言ってあげられなかったね。……ごめん。

 本当は、毎日君に様子を聞きたかった。
 このチャレンジがうまく前進しますようにと……そんな気持ちが、いつも心の中で騒ぎ出しそうだった。
 けれど、どんなに強く願っても、君の身体のリズムは僕にはどうにもできない。そして、君自身にだって、思うようにはならないことだろ?
 君にも僕自身にも、変なプレッシャーをかけたくなかった。

 だから——実際がどうなのかわかるまで、何も言えなかった。結局いつもの顔で、ただ君を見てることしかできなかった。
 君に心細い思いをさせてしまったなら、許してほしい。
 
 けど……良かった。
 ……嬉しいよ」

 抱き締めていた腕を解くと、彼は予想外の展開に驚いている俺の顔をじっと見つめた。

「男である君が、命を宿す。
 それはきっと、ただ明るく幸せな思いだけじゃ済まないだろう。
 むしろ、簡単にはいかない困難や障害ばかりかもしれない。
 ——覚悟はできてるね?」

 俺は、ぐっと強く頷く。

 そんな俺に、彼は穏やかに微笑んだ。

「僕もだ。
 でも、君と新しい命を育てる喜びに手が届くなら、何だって乗り越えられる。
 一緒に進もう。
 一緒なら、きっと大丈夫だ。——どんなことも」


「……あなたがいれば、それでいいんです、俺」
 俺は、彼の温かい瞳を見つめ返しながら……胸がぎゅっと詰まって、なぜかそんな答えしか出てこない。

「ん?……言ってること矛盾してるみたいだけど?」
 神岡は、ちょっと可笑しそうに俺を覗き込む。

「いいえ。矛盾してません。
 たとえどんなことがあっても……あなたがいれば、俺は幸せです」

「——うん。
 僕も同じだ。

 だから——これから一緒に、招き入れよう。
 もっと大きな幸せを」

 そうして、俺たちは初めて、一点の曇りもない笑顔で微笑み合った。









「柊くん、こっちにきて」
 ベッドの上、囁くように彼に呼ばれる。


「…………」

 いつもは全く無意識に進めている動作の一つ一つが、なんでこうギクシャクするのか。
『初夜』なんていう初々しい言葉までもが、脳をよぎっていく。

「あの……樹さん……
 よっ、よろしくお願いします……」
「ねえ、柊くん……」
 照明を落とした薄明かりの中、彼も困惑したような声を出す。
「頼むから、お願いとかはナシにしてくれ。これ、僕たち二人でやることだし……
 それに、僕も今日はなんだかテンションが完全におかしくなってる……」
「あの……樹さん」
「ん?」
「この前は、あんなに荒っぽく首筋噛みましたよね? あの猛獣モードはいったいどこ行っちゃったんですか?」
「ほんとだね。いざとなるとこうだから」
 彼はぽりぽりと頬を掻いて苦笑する。

 そういう優しいあなたが、好きなんだ。
 ——思わず出そうになるそんな台詞を、ぐっと飲み込む。

 相手の可愛いところを不意に垣間見てしまったりすると、自分がリードしてみたいなどという欲求が俄かに湧いたりするものだ。
 俺は愛おしさ全開の彼の首に腕を回し、啄むように唇を触れ合わせる。

「ちゃんとくれなきゃ、チャンスがふいになります」

 その刺激に堪りかねたように、彼はぐいと俺を抱きかかえると、熱い肌で覆い被さる。


「……奇跡だ。
 ——僕の命が、君の命とひとつに混じり合うなんて」

「本当に……奇跡です」


 当然だが、俺には膣もないし、受精のための体内の経路も相当細くなってしまっているらしい。
 細く分岐したその入り口に近く注ぐほど、成功率は上がるそうだ。

 強烈な刺激の先に、ひときわ強く疼く、奥深い場所。
 そこが、恐らくそのポイントだろう。
 自分の身体の中のことだ。なんとなく分かる。

 的の中心を散々に射られるかのように、身体の奥の甘い疼きを繰り返し突かれる強烈な快感。
 悲鳴に近い喘ぎを抑えきれず、危うく飛びそうな意識を必死に繋ぎ止める。


「……っ、——柊……っ……!!」

 顎を反らして激しく喘ぐ俺の胸元に、彼の熱い額がぐっと押し付けられた。
 腰が力強く引き寄せられ、この上なく熱いものが下腹部の奥深くに一気に満ちていく。

 初めて経験する、その不思議な幸福感に——
 俺は彼の汗ばむ首に強く腕を回し、荒い息のまま瞳を閉じた。