9月も半月ほどが過ぎた。
 さらりと涼しい風がふと肌を撫で、いつまでも明るかったはずの空が次第に濃い夕暮れの色に包まれるようになる。
 蝉の声も、もう遅生まれの個体の声が時々細く聞こえるだけだ。

 いつもならば、過ぎ去る夏を惜しむ寂しさに襲われる時期だが、そういえば今年はそういう寂しさを味わう余裕すらも持てずにいる。
 まさに子供達の成長を見守り、支えることで明け暮れる毎日だ。
 ぶっちゃけた話、朝から晩まで家事育児との格闘である。そして、晴と湊の目まぐるしい程の成長過程の一瞬一瞬を、宝物のように記憶に刻む日々だ。

 子供達は目下生後8ヶ月の真っ只中だ。晴も湊も共によく食べよく遊び、どこもかしこも一層ふっくらと健やかに育ちつつある。
 離乳食は午前と午後の二回食がすっかり定着した。母乳から粉ミルクへ切り替え、授乳は離乳食の合間に1日4度程度になっている。いやもう実に楽になったのだ母体は。
 夜中も時々目を覚ますが、ぐずってギャン泣きを続けるようなことはほぼなくなった。
 二人とも下の前歯が生え始め、きゃきゃっと笑う度にその真珠のような白い頭が可愛い口の中にチラ見える。……ってかほんと神はなんと愛らしいものをお創りになったのか身悶える……
 こうして見ると、彼らが「乳児」から「幼児」へ向けてすごい勢いで成長しつつあるのがよくわかる。人間はこうして育つのだ、という事実に、改めて何か強く揺さぶられる思いだ。

 身体機能の発達については、うつ伏せスタイルから「ずり這い」への移行を僅かずつ見せ始めている。ずり這いとは、ハイハイの一歩手前、まだお腹や腰を持ち上げない状態でまさにずりずりと這いながら前進する方法だ。
 うつ伏せ状態の子供たちの手が微妙に届かない場所へ、お気に入りのおもちゃなどを置いてみる。すると、二人ともキラキラした瞳でその対象をじっと見つめ、ふっくらと小さな両手を踏ん張って顔を上げ、対象物を目がけて何とか近づきたい……という感情が全身から溢れ出す。
 だが、そのためにどうやって手足を動かしたら良いのかが、まだわからない。むっちり太い両脚をもどかしげにジタバタさせて、「あーーーー!!(あれが欲しいんだよー!!)」と大声で訴えるその様子が、もうたまらなく可愛い。

 二人の様子をよく見比べると、湊は何とか力ずくでにじり寄るためにもがいており、一方の晴はじっくりと自らの身体の動きを把握しようとするような真剣な顔になっているのもまた無茶苦茶に面白いのだ。


 とある育児サイトで、「ママやパパが四つん這いになって赤ちゃんと遊んであげたりすると、その様子を真似ながらハイハイを始めたりする場合もあります」という情報を得て、今日は早速それをやってみた。
「ほらー晴、湊!お馬さんだぞー♪面白いだろ?一緒にやってみよう!」
 などと言いながら、俺は四つん這いになりプレイマット上をぐるぐるしてみるが、子供達はプレイジムやお気に入りのおもちゃにそれぞれ夢中でこっちを見ようともしない。
「……そんな君のお尻を一番追いかけ回したいのは何だかんだ言って僕なんだが……」
「え? 樹さん今なんか言いました?」
「いやー何も」
「ほらほら、パパも見てないで一緒にやってくださいお馬さん!」

 そんなこんなで、日々ドタバタしながらも子供達の成長は目下順調そのものなのである。









 その夜。
 激しく重ね合わせた熱い身体を俺の横へ倒し、腕枕に頭を乗せる俺の髪に優しく触れながら、神岡は何か考え込むように呟いた。
「——来週から、少し会社へ行かなきゃならないかもしれない」

「え?」
 少し汗ばんだ俺の額の髪を指で緩く整え、彼は少し困惑したように淡く微笑む。
「いや、例のちょっともたついてる契約の件でね。
 今山場に来ているんだが、最終的な決断はやはり僕も社内会議に参加した上でしっかり詰めなきゃだめだと思う。——後で後悔を引きずるようなことにはしたくないしね」

「……そうですか」

 俺は、何か最近遠ざかっていた思いで、彼を見つめ返した。
 優しさの奥に、鋭い光を潜めた眼差し。
 いつもと変わらぬ伸びやかな首筋や引き締まった肩が、微かに荒々しい獰猛さを感じさせる。
 仕事に向き合う時の、挑戦的に研ぎ澄まされた彼の空気。
 大きな組織を動かすリーダーの血が剥き出しになったオーラが、彼の全身から静かに立ち上っている。

 堪らなく甘い匂いを放つそのオーラに、俺は思わず額を彼の胸元にすり寄せた。

「家のことは、大丈夫です。
 会社のこの先を左右する重要な案件、あなたの納得のいくまで協議してください」

「——うん。ありがとう。
 君にそう言ってもらえると、この契約を最善の形で纏めたいとますます強い意欲が湧くよ。
 出社したついでに、必要な仕事もできる限りこなしておこうと思ってるんだ。……もしかしたら、帰宅なども相当遅くなる日が続くかもしれない」

「大丈夫ですってば。
 子供たちの生活リズムも、最近随分しっかり整ってきましたよね。母乳をミルクに切り替えてからは本当に楽になりましたし。生まれた直後のような異常事態は、もう考えなくてもいいんじゃないかと思うんです。
 大事な契約なんですから、うちのことなんか心配してちゃ、ダメですよ?」

 胸元でクスッと微笑む俺の首筋を優しく引き寄せ、彼が囁く。

「いや。会社のことなんか必要最低限にして、すっ飛んで帰ってくるよ。
 だから、僕のいない時にもしも何かあったら、必ずすぐに連絡してくれ。間違っても無理や無茶はしないでほしい。——約束してくれるね?」

「わかりました。約束します」
「うん。そう言ってくれれば僕も安心だ」

 そんな話を終えたところで、なぜだか二人揃って身体をもぞもぞせざるを得ない。


「…………うーん。
 柊くん……
 今夜は、僕的にはどうやら一度じゃ済まなくなってきたようなんだが……」

「そうですね。——俺も、このまますんなり安眠するとかちょっと無理そうです……」


 結局何だかまるで出会った頃のように、俺たちはその後も延々と溶けるほどに甘い時間を過ごしたのだった。









 翌週、月曜の朝。
 約半年ぶりにビシッとスーツに着替えた神岡は、愛用のビジネスバッグを手に大股に玄関へと向かった。
 その脳内は既に戦闘モードへと切り替わっているようだ。
 大企業を支える有能な男を送り出すことに、俺もいつにない誇りを感じる。

「柊くん、行ってくるよ」

 すいと肩を抱き寄せられ、優しく唇が重なる。
 爽やかなホワイトムスクの香りにふわりと包まれた。


「——行ってらっしゃい」

 はあ……
 この上更に惚れさせてどーすんだ……
 そういう思いが漏れそうになるのをぐっと堪えながら、俺はその颯爽とした背中を見送った。
 神岡不在の間に起こる出来事を、まだ予想もできないまま。