俺と神岡は、佐伯の実家である藤堂家へ来ていた。
 応接間の立派なテーブルを挟み、ソファの俺の横から身を乗り出す勢いで、神岡は向かい側の藤堂悟を真剣に見つめていた。


 俺が神岡に、藤堂に会ったことと自分の決意を打ち明けてから1週間後。
 彼は、どこか思い詰めたように切り出した。
 ——藤堂と直接話をしてから、最終的な答えを出したい、と。

 確かにそうだろう。人から伝え聞いた情報だけで、重要な決断をするわけにはいかない。
「僕から佐伯先生に、藤堂先生と会いたいことを話すよ。佐伯先生から都合のつく日にちの連絡が来たら……僕と一緒に、彼のところへ行ってくれる?」
「もちろんです」
「いくら安心できる情報をもらっても、顔も知らない相手に君の身体を預けるわけにはいかないからね」
 そう言うと、彼は小さく微笑んだ。

 いろいろな思いの入り混じった神岡の複雑な表情からは、彼の心の内はうまく読み取ることができない。
 自分の気持ちを表に出すのは、納得できる状況が揃っていることを確認してから……もしかしたら、そんな風に考えているのかもしれない。


 そんなこんなで、5月の上旬、爽やかな晴れの土曜日。
 俺と神岡は、一緒に藤堂の元を訪れたのだ。

「ええ、保証します。彼の命は、私が絶対に守ります。
 先日、三崎君にも説明しましたが……彼は、心身共にとても健康だ。赤ちゃんを育める条件は充分に整っていると、私は判断します」
 藤堂は、変わらぬ穏やかな笑みを浮かべて神岡を見つめ、明瞭な口調で答えた。

「……ただ……」

「————」

 その先は、神岡はもちろん、俺も前回の説明で聞いていない部分だ。
 なんだか聞くのが怖くて、俺は思わず心の中でぎゅっと目をつぶった。

「三崎君の命を守るために、宿った命を諦めなくてはならない——そういう状況が発生する可能性があることは、理解しておいてほしいと思います。
 何が起こるかわからない……そんな万一の事態は、妊娠や出産には可能性として必ずついてくることです。まして、今回は前例のないケースですので……絶対に安心だという説明は、残念ながらできません。
 それでもなお、可能性にチャレンジする、という決意が固まっておられるならば——私は喜んでお手伝いさせていただきます」


「……やはり、そうですよね。
 僕も、その点がずっと引っかかっていて……」

 神岡は、真剣な面持ちを崩さないまま、少し俯くようにそう呟いた。
 そして、俺の方へ静かに向き直ると、俺の目をじっと見据える。

「——柊くん。
 これだけは、しっかりと確認しておきたいんだ。

 君が万一、宿した命を諦めなければならなくなった場合……そのことを君が一生悔い、苦しむようなことになるとしたら、僕は今回のチャレンジに同意したことを、きっと後悔する。
 やはり、何としても君に反対すべきだったと、僕は一生そう思い続けるだろう。
 もしも、せっかく宿った赤ちゃんを諦める以外に選択肢がなくなってしまったら……
 そういう後悔に呑み込まれる心配はないと……君は、そう言い切れる?」

 俺は、神岡の切実な思いの詰まった言葉をしっかり受け止める。
 そして、自分自身の中でもずっと繰り返していた気持ちを、彼に明かした。

「そういう危惧のために、この可能性に賭けることをやめる。——それも、一つの方法です。
 でも、俺は……やっぱり、可能性があるならば、トライしたい。
 踏み込まなければ、成功もまた手に入らない。
 そうですよね?

 新しい命を、生み出したかった。それは間違いなく自分の中の真剣な願いだった。
 本気でそう願ったのだから……その願いが神に否定されるならば、それはもう仕方がありません。
 ——そのチャレンジを、後から後悔に変える気は、俺にはありません」


「……本当に?」
「本当です」

 俺の言葉に、彼はやっと緊張を緩め、明るい微笑みを浮かべた。

「——わかった」


 そして、藤堂へまっすぐ視線を向けると、神岡は穏やかに言った。

「藤堂先生。
 これまでは、不安が大きくて頷くことができずにいましたが——実は、僕も彼と全く同じ気持ちです。
 大切な人と一緒に、新しい命を生み出す。こんな奇跡のようなことが自分にもできるとは、今まで思ってもいなかった。
 こんな幸せを現実にするために、先生に力を貸していただけるなんて……僕達にとって、これ以上有り難いことはありません。

 先生がついていてくださるならば、僕も彼と一緒に、躊躇わずにこのチャンスに賭けてみようと思うことができます。
 僕達を、これからどうぞよろしくお願いいたします」


 この瞬間……俺の顔は、どうやら誰が見ても分かるほどにぱあーっと輝いたようだ。

「とうとうやったわね、三崎さん!」
 藤堂の横でじっと俺たちの話を聞いていた佐伯が、俺の表情の変化を見て心から嬉しそうにそんな言葉をくれた。
 藤堂も、俺たちの固い空気が解れたことを感じたのか、明るい笑みを浮かべて力強く話す。
「こちらこそ、よろしくお願いします。全力で、お手伝いさせていただきます。
 私こそ、こんなにやり甲斐のある仕事に携われるのは、この上ない幸せですよ。
 そして、あなたたちのようなしっかりとした思いを持ったご両親の元に生まれてくる子は、間違いなく幸せです」
 そんな藤堂の温かい言葉が、改めて胸にジワリと沁みる。


「よし! そうと決まったら、早速色々二人に教えなくちゃね! しっかり受胎するためのいろいろな知識とか……ね、父さん?」
「うん、そうだな!」

 そんなことを言いながらニッと微笑み合う佐伯と藤堂の様子に、俺たちは今更のようにかっと赤面して俯いた。









「んー……まだかな」

 7月、梅雨明け間近の蒸し暑い朝。
 俺は、起き抜けのぼーっとした頭のまま、口に体温計を咥えていた。


 あの日、俺と神岡は、藤堂と佐伯から妊娠の仕組みについて詳しいレクチャーを受けた。
 女性の体の仕組みというのは、すごいものだ。俺たちは、改めて唸った。
 男と女が一緒になり、子供をもうける。はるか昔から当たり前のように繰り返されてきたことのはずなのに、男は女性の体の詳しいメカニズムをそれほど理解していない。
 こんな大切でデリケートなことを女性だけに押し付けていては、まずいんじゃないか?……なんだかそんな気がした。
 いや、これからそれを身をもって経験しようとしている男が、ここに一人いるのだが。

 妊娠しやすい時期などを把握するには、基礎体温をつけることが効果的だという。最近は、測定した体温を自動的にアプリへ転送してグラフ化してくれるアプリ連動型婦人体温計も存在するらしく、早速それを購入してみた。
 そうして基礎体温をつけるようになって、そろそろ2ヶ月半が経つ。


 ピッ、とかすかな音が鳴る。
 安静にしていた身体を起こし、アプリに送られた結果を眺めた。

 とりあえず、俺は生まれてこのかたずーっと男だったんだぞ? いやもちろん、今だって男なんだけど。
 藤堂たちから説明された通りに、果たして体のリズムなんて刻まれてるものだろうか?
 そんな半信半疑でいたのだが……
 ……確かに、刻まれてるようだ。

 測定し始めて数日後に、いつもの頭痛や倦怠感、わずかな出血があった。
 ちょうどその辺りから、基礎体温は下がっている。
 そして、低温の期間が約2週間続いたある日を境に、体温は0.5℃ほど上昇した。
 その状態が約半月続き……次の生理らしきもののスタートと同時に、また体温は下降。
 なんだかんだで、そういう波はリズミカルに続いていた。

 この波がしっかりと来ていないようだと、妊娠のタイミングが掴みづらかったり、場合によっては妊娠できない可能性もある……そう藤堂から説明を受けていた。
 だが、どうやら俺の女性機能は順調に動いているようだ。
 日を追うごとに次第にはっきりとするグラフの波に、俺の気持ちは一層じわじわと高まってきていた。


 そして……今記録されたばかりのデータを、俺はもう一度じっと見つめる。


 ……もしかして……

 このデータに間違いがなければ……
 どうやら、佐伯がウキウキと教えてくれた「ここが妊娠可能期間よ♪」というタイミングが、今日を含めて数日……ということになるらしい。


 にわかに、心臓がどっどっとうるさく音を立て始める。
 あわわわ……どっどうしよどうしよっっ???


 ……落ち着け。
 神岡に、そのことをちゃんと伝えて……ちゃんと、もらわなくてはならない。
 ただでさえ、女性よりずっと貰いづらい身体なのだから……チャンスを無駄にはできないのだ。
 ええええ、でも……こういう気持ち、当然だが初体験で……
 なんというかその……こんな気恥ずかしいのかこういうのって!?
 思わず挙動不審になりそうな自分自身を、ぐっと抑え込む。

 おい、しっかりしろ俺。
 これはお前が心待ちにしていたことじゃないか。喜び勇んで取り組むべきだ。
 それに、ラッキーなことに今日は金曜日だ。
 週末の間に、彼から思う存分もらえるじゃないか……よかったな。


「…………」

 うああ……
 もう自分の心の呟き一つ一つに、ほんと汗が吹き出しそうになる。

 明らかにテンションのおかしくなっている自分に困惑しながら、俺はそろりとベッドを降りた。