7月の半ば、朝6時。
 昨夜は晴も湊ともなかなか寝付いてくれず、俺も神岡も睡眠は切れ切れだ。神岡はまだ眠っている。
 麦茶を啜りつつぼーっとした頭で聞いたニュースでは、あと数日で梅雨明けらしい。


 明るい日差しの輝く梅雨明けが待ち遠しい、などといつもならば心待ちにするところだが、今年はその梅雨すらも意識している暇がなかった。
 晴と湊がこの世に誕生してから、間もなく半年。子供達のすさまじい成長をひたすら追いかけ、親としての役割を必死に手探りする日々は、まさに息をつく暇もない。

「親」という仕事が、こうしてある日突然始まる。命を育むというとてつもない重責の海に、全くの未経験者がドボンと投げ込まれるとは……思えば凄い話だ。


 けれど——
 俺の隣には、いつも神岡がいてくれる。
 堪らない心細さを、愛する人と一緒に乗り越える。その喜び。
 責任重大なこの大仕事に向き合う苦しさは全て、そのまま「幸せ」へと変わっていく。


 子育ては、母親が片手間でこなせればそれでいい、という仕事じゃない。
 人生を共に歩む人と力を合わせ、自分たちの子供の命と向き合うこと。そうやって初めて、ズブの初心者二人が少しずつ「両親」になっていくこと。
 その意味を、俺は改めて強く噛み締めた。



「そろそろ始めよっか、柊くん」
「そうですね」
 その後起きてきた神岡と手早く朝食をとり、洗濯等も一通り終えた俺たちは、オムツ替えと授乳を済ませた子供達を抱き上げ、柔らかなマットを敷いたリビングの床へ降ろした。
 最近始めている、「寝返りレッスン」だ。
 二人は今6ヶ月。動きはますます活発になり、先月ごろから見え始めた仰向けの状態からぐうっと身体を横向きにねじる動きに、「おお! とうとう初寝返りか!?」とその度に固唾をのんで見守っている俺たちなのだが、そこから先がなかなか進まない。そこで、育児情報サイトで読んだ「寝返りレッスン」を導入することにしたのだ。
 レッスン、と言っても、遊びの延長のように子どもたちの動きを少しだけ手助けしてやり、寝返りの流れを教えてやる、というようなものである。二人の様子を見ていると、晴より湊の方が身体を捻る動作に積極的なようだ。

 リビングのマットに二人を降ろして暫し。湊が、最近頻繁に見せる動きを始めた。左脚をぐいっと右脚の上に交差させ、中途半端に下半身のねじれたポーズを作る。
 そこに俺がすかさず手を貸し、上半身に手を添えてゆっくりと全身を横向きに……そして、寝返りの姿勢まで持っていってやる。

 ころりとうつ伏せになった湊は、頭をしっかりと持ち上げながら、ぱあああっと満面の笑みを浮かべた。
「うきゃきゃきゃっ!!!」
 ぱかっと開いた口から、脳が溶けるかと思うほどに愛らしい笑い声が上がる。

 どうやら寝返りレッスンは湊にとってお気に入りの遊びらしい。ずっと同じだった仰向けの視界から、突然ぐるりと世界が変わるのが面白いのかもしれない。
「よ〜〜〜し湊、いい感じだぞ!」
「この調子で次は是非自力の寝返りを見せてくれ! 晴〜、弟に負けてらんないぞー!!」
「んむむ……ぶぐぐう〜」
 喝采を受ける湊の横の晴は、神岡に両足を持たれて下半身を捻るレッスンの最中だが、自発的にトライしようという様子は特になく、自分の指をチャプチャプとしゃぶって楽しげにむぐむぐ言っている。なかなかにマイペースな呑気坊主だろうか。
 晴のそんなのんびりとした表情もまた俺たちを微笑ませる。


 こうして見ていると、二人の性格は少しずつはっきりと分かれてくる。
 だが、どちらがいい、悪いという判断をするのではなく——それぞれの長所を存分に伸ばしていける環境を作ってやるのが、俺たち親の最重要な仕事なのだろう。

 間違いなく同等に愛おしい二人の成長を見つめながら、日々思うことである。









「そろそろ、離乳食をスタートさせてもいいかもしれませんね。首もしっかり座ったし、最近は俺たちの食事の様子見てめちゃくちゃ興味示してますしね」

 その夜。
 子供達がぐっすり眠ってからやっとシャワーを浴び、リビングの照明を落としながら俺は神岡に小声で話した。

「うん、僕もそう思ってた。
 少し前は何の反応もなかったのに、赤ちゃんの成長ってほんとすごいよな。最近は僕たちの食事の様子見ながら口元もぐもぐしたりして、『食べたい〜!』っていう声がもうはっきり聞こえてくるよ」
 先にシャワーを浴びてソファで涼んでいた神岡は、二人の可愛らしい様子を思い浮かべるように愛おしげに微笑む。

「じゃ、子供達の様子見ながら、近いうち始めましょうか、離乳食……って、ちょっ!?」
 隣に座りつつそう答える俺を、神岡はいきなりお姫様抱っこでぐいっと抱き上げた。
「晴も湊も、今夜はぐっすり寝ちゃったし。僕たちもゆっくり休憩しよう。久しぶりに」
 抱き上げられた耳元で囁くその甘い声に、自分の中の「性」がむくりと起き上がり、抗い難い力で反応を始める。

「……え、でも……待っ……」
「待ってる余裕なんてない。——君も知ってるだろ?」
 あれよと言う間に寝室のベッドへ運ばれ、優しく降ろされた俺を逃すまいと彼の腕がきつく抱き締める。

 ——そう。よく知っている。
 こうして躊躇している自分など、ただのフェイクだ。
 この人に呼び起こされる強烈な欲求を抑え込むことなど、できるはずがない。

「君の匂いが、最近また少しずつ強くなっている気がして——僕の側で授乳などされた日には、子供達の前では良き父でいようという確固たる決意が根こそぎひっくり返りそうになるよ」
「なっ……何すごいこと言っちゃってるんですか樹さん……」
 真っ赤になって慌てる俺の首筋を唇でなぞりながら、彼の熱い吐息が言葉を続ける。
「この匂いを、まさか他の男が嗅ぎつけたりしやしないかと、いつも気が気じゃないんだ……この人は僕のものだと、ここに新たな種を植えたくてたまらなくなる……」
 そんな言葉と共に剥き出しになった下腹部を優しく撫でられ、俺は思わず真っ青になった。
「あーーーーーーそれはダメっっ絶対ダメですっ……!! ちゃんと避妊してくれなきゃ、もう二度と一緒にベッド入りませんからっっ!!!」
「ははっ、冗談だよ。たまにはこういうエロい台詞も盛り上がっていいかなーと思って」
「笑えないですほんと!!!」
 涙目になって睨みつける俺を、彼は優しく抱き寄せた。

「ごめん。
 そんなこと、望むわけがない。
 あれほどの危険に満ちた出産を乗り越えて今君が側にいることが、奇跡のように幸せなのに」

 熱を含んだ声と彼の匂いが、俺を柔らかに包み込む。

 その指と唇の甘い刺激に満ちた愛撫から、身体が溶け出すような快楽へ——
 この人からしか得られない悦びに、俺は溺れるほどに身を任せる。


 どれだけ時間を経ても。
 この人と交わす想いの深さは、永久に変わらない。

 永久に続くものなんて、どこにもないと思いながらも——この人と抱き合う度に、俺はそんな不思議な確信を抱いてしまうのだ。









 その3日後。
 梅雨明けが報じられた金曜日の朝。
 食欲もあり、健康状態も申し分なくご機嫌な晴と湊に、記念すべき「初めて」がやってきた。
 眩しく輝く夏が訪れたこの日、離乳食をスタートすることにしたのだ。

 ご飯と水を小鍋に入れ、約20分ほど蒸し煮にする。その後30分ほど蓋をしたまま蒸らしてから、ミキサーで滑らかにすり潰す。人生最初の一口目になる「10倍粥」の完成だ。
 初日は、これを小さなスプーンに1杯。
 最初の1週間はこの10倍粥を、1〜2日目はスプーン1杯、3〜4日目は2杯、5〜7日目は3杯、というペースで進めていく。


 大きな受け皿ポケットのついた離乳食用のスタイをつけ、それぞれのベビーチェアに座らせた二人に、俺と神岡で純白の粥をそれぞれの小さな口に運ぶ。

 生まれて初めて口にする「米」という食べ物の味に、二人は一瞬はっとしたように目を見開き——そして、まだ不器用な唇や舌を一生懸命むぐむぐと動かしながらそれを味わい、何とも言えない喜びの表情を浮かべた。
 人生初の「美味しい顔」だ。

 その瞬間、不意に何か熱いものが、ぐっと胸から目へと突き上げた。

「初めて」ということの尊さ。
 二人のその顔を目の当たりにして、痛いほど実感する。

 人生で何万回と繰り返す「食事」。
 命が燃えている限り途絶えることのないその行為の、最初の一口目が、たった今始まったのだ。


「——美味しそうだな、二人とも」

 神岡も、俺と同じように何かが胸に詰まるような声を出す。

「……本当に、そうですね」
 すぐ泣く、と思われるのも癪だから、何とか平静を保った声で返事を返した。


 晴。湊。
 お前たちのそんな顔を、これからもたくさん、俺たちに見せて欲しい。
 美味しいと感じる瞬間。幸せを味わう瞬間。
 お前たちの人生の中で、そんな瞬間を一瞬でも長く、多く、手にして欲しい。

 そのために、俺たち親ができることは。


「——樹さん。
 ここからも、頑張りましょうね。パパと父さんを。全力で」
「うん。——そうだな」

「あうあう!!」
「ぐぶぶーっ!!」

 もっと欲しい!と催促するように手足をパタつかせて瞳を輝かせる子供達の様子に、俺たちは思わず笑顔を見合わせた。