「急に呼び出してすみません」
 カフェの窓際の席でアイスコーヒーに伸ばしかけた手を止め、宮田は神岡に軽く微笑んだ。

「いや、いいんだ」
 神岡は、その向かい側にどこか忙しげに座る。
 その態度や表情は、「さっきの続きを早く!」とあからさまに要求している。


「僕のためにお礼の会を開いてくれるって話、嬉しいです。ありがとうございます。
 ……で、さっき電話で話した『噂』の件なんですが」

「うん」

「——あの、これ三崎君にはまだ黙っていた方がいいかとは……」

「その辺は後だ。とにかく話してくれ」

 急かすその言葉に、宮田は少し身を乗り出すように神岡に近づき、小声になる。

「2週間ほど前なんですが……
 うちの美容室の常連の女性なんですが、どうやら神岡さんと同じマンションの住人のようで……
『うちのマンションに、男性で出産した人がいるらしいって……なんか気味が悪くって。ね、信じられないでしょ〜?』
 というような話をスタッフとしてるところを、ちょっと小耳に挟んで」

「……」

「うちも、お客との会話には充分慎重に、という指導はスタッフに徹底しています。個人情報についての意識はもちろん、あまり込み入った事情に深入りはしないことなど、接客の際のマナーは全員よく理解しています。
 この客を担当した美容師も、そんな噂話を何気なく受け流していましたが……なんというか、その客の口調が何か無神経に人を侮辱するような雰囲気で。
 担当スタッフの話だと、その女性には幼稚園とまだ1歳にならない子がいるらしく……恐らく母親同士で、そんな噂話でもしているんじゃないかな、と。
 その後ずっと、この件が気持ちに引っかかっちゃって。
 どうしようか迷ったんですけど……一応、あなたにお伝えしておこうかと」


「——……
 そのうち、そういうことになるかもとは予想していたよ」

 神岡は、届いたコーヒーに手を伸ばすと、眉間を寄せたまま静かにカップを口に運ぶ。

「……藤堂クリニックへ1ヶ月健診を受けに行った時、駐車場で子供達を降ろす際にマンションの住人に声をかけられたことがあった。
『双子ちゃんですか! 可愛いですねー』なんて普通に会話をしていたんだが……『今日はママはパパ達に育児をお任せしてゆっくり休憩かな? 手伝ってもらえるのはありがたいんですよね〜』なんていう言葉に、柊くんが一瞬ぐっと固まって。
 そのすぐ後に、『いえ。ママじゃなくて、俺が産んだんです』って、はっきり答えたんだよ。
 その女性、『は??』っていう顔になって……僕たちの顔を怪訝そうにぐるっともう一度見回すようにして。
 その後は、ろくに会話にもならずに彼女は去っていった。

 その瞬間は、僕もものすごく驚いたんだが……全く動揺していない柊くんの横顔を見て、思ったんだよな。
 ——彼は、このことを周囲に隠しながら過ごす気は一切ないのだ、と」


「……そうですか。
 つまり、これは三崎くんが自ら動いた結果、とも言えるのかな……
 いかにも彼らしいですね」

「本当にな。
 だから、そういう噂がマンション内で囁かれているとしても、全く想定外ではなくてね。
 そして——こういう時には、面白おかしく『気味が悪い、気持ち悪い』というように蔑む言葉ばかりが、こうやって一人歩きをする。
 社会っていうのは、そういう場所なんだと、つくづく味わわされるよ」


「……」


 コーヒーを口に運ぶ神岡と同じように、宮田も黙ってアイスコーヒーのグラスを取り、小さな沈黙が二人の間に流れる。


「……でもな。
 柊くんも僕も、こういう状況にただ俯いている気など、全くない」

 カップを静かにソーサーに戻しながら、神岡は自分のその指先を睨むように呟く。

「多分、このことを知れば、ほぼ全ての人がまず僕たちを奇異の目で見るだろう。——人間の本能としての低俗な好奇心が働いてね。
 そしてその次に、『男の出産など受け入れ難い』とか、『両親とも男でまともな育児などできるはずがない』とかいう批判を浴びせる。
 その批判に、合理的な根拠など一切ないにも関わらず。
 根拠のないただ感情的な批判というのが、つまり偏見であり、差別なのだと……彼らは果たして、そのことに気づいているのか。
 ——そして、前例のないケースを受け入れようという気持ちを抱いてくれる人が、一体どれほどいるだろう。

 けれど、僕たちは、そういう理不尽な偏見や差別は、いずれ解消していくと——何がどうあっても、解消へ向けていかなければならないと、そう思ってる」

「……何がどうあっても?」

「そう。
 男女で結ばれ、子供を儲け、育てていく。それはただ『そういうパターンが多い』というだけで、『正しい』こととは全く無関係だ。数の少なさは、『誤り』とは違う。
 その証拠に、少し周りを見回しただけでも、うまく子育てのできない男と女がどれほど多いか。『男女ペアが正解』なんて、寧ろ怪しい。

 何の根拠もなく他人の生き方を蔑み、攻撃する権利など誰にもないということを、人間はいい加減学ぶべきだ。
 弱いものいじめが好きなその本性は決して治らないんだろうが、だからと言って差別を黙認していいことにはならない——そうだろ?」


 強く確かな口調でそう話す神岡を、宮田はじっと見つめる。

「——あなたは、随分変わりましたね」

「……は?」
 突然のそんな言葉に、神岡は虚を突かれたように宮田を見返す。

「いや。
 昔のあなたは、もう自分自身のことだけでいっぱいいっぱいみたいに見えましたから。
 ……これも全て『愛』の為せる技ですかねえ」

「——まあ、そうだな」
「……微妙にムカつく」
「君が言ったんだろ」

 ふっと、小さく笑い合う。


「——宮田くん。
 いつも、本当にありがとう。僕たちのことを気にかけてくれて」

「急に改まるとか、そういうのいいんで。僕はいつもやりたいことをやりたいようにやってるだけですし。
 あーー、そうだ。今度のパーティは超高級和牛肉のすき焼きがいいなあ」
「お、それはいいな。じゃ肉は宮田くんの差し入れってことで頼むよ」
「はーーー???」
「ははっ、冗談だ」


 そうして、会ったときとは違う空気の中で、二人はそれぞれの残りを飲み干した。









「ただいま柊くんっ!」
「おかえりな……ひえっ!!?」
 帰ってくるなり神岡は洗濯物を干す俺に駆け寄り、思い切り俺を抱きしめた。

「どっ……どうしたんですか!?」

「いや、なんでもない。
 けれど……やっぱり君は、素晴らしい人だ。
 改めてそのことを思い知っただけのことだ。

 君の強さを、僕ももっと見習わなきゃな。
 どんなことにも怯まず、誤魔化さずに、常に前を向く。
 ついさっきまで、僕は君を支えながら歩くようなつもりでいたけれど……やっぱりまだまだ君には敵わない」


「……えっと……何のことを……」

「まあ、小さなことはいいから。
 ねえ、今日はいい天気だし、子供達の機嫌が良かったら、午後は二人を連れて散歩にでも行こうよ。
 誰に聞かれなくても、『僕たちが親です』って、堂々と自己紹介すればいいんだよな」

「……ええ。
 みんなで散歩、いいですね」


 宮田に会って、一体何の話をしてきたのだろう。
 ちょっと気になる。

 けれど——
 出かける時の彼の暗い眉間は、今はすっかり明るく晴れ渡っている。


 きっと、何かが良い方向へ変わったんだ。
 彼の中の、何かが。


 それだけを考えることにして、俺は彼と額を寄せて微笑み合った。