「柊くん、ただいま」
「おかえりなさい」

 藤堂と会った、その日の夜。
 俺は、まだ決心のつかないざわついた気持ちのまま、帰宅した神岡を迎えた。

 佐伯に送られて夕刻に帰宅してから、夕食の支度を進めつつずっと考えていた。

 新しい命を授かりたいという俺の話に、あんなに頑なに拒否反応を示した神岡だ。簡単な説得で頷くはずがない。
 それどころか、この話を蒸し返したりしたら、本当に彼を怒らせてしまうことも考えられる。
 ただでさえ仕事を山のように抱えた彼に、そんな負担はかけたくなかった。

 しかし……だからと言って、俺も今日得た朗報をいつまでも自分の中だけにしまっておきたくはない。
 彼が賛成してくれて、一緒にその可能性に賭けることができたら、俺にとってこんなに嬉しいことはない。

 だが、もしも——
 藤堂からの情報を彼に説明しても、なお神岡の賛成を得られないとしたら……今度こそ、この話は諦めよう。
 それだけは、はっきりと俺の中で決まっていた。
 親となる俺たちのどちらかが望まない子を無理に儲けて、せっかく誕生した命を不幸にすることだけはしたくない。
 つまり……彼が笑顔でこの話に頷くことが、今回の計画を前に進めるための絶対条件だ。

 そのためにも、彼に打ち明けるベストタイミングを狙わなければならない。
 今日か、来週か。それとも、年度始めの繁忙期を避けてGW前のウキウキ感の中で話すか……?

 そんなことをぐるぐると考えつつも夕食は完成し、二人でテーブルに着いた。
 本日のメニューは、ビーフシチュー、トマトとモッツアレラのカプレーゼ。何か考えごとがある時は煮込み料理を作りたくなるのがどうやら俺のクセらしい。じっくり煮込む時間があれこれ思い悩むのにちょうどいい。

 食事の前に少しワインが飲みたいな、という彼の希望で、彼のグラスに赤ワインを注ぐ。

「柊くんは? 明日は日曜だし、少し一緒に飲まない?」
「……そうですね。俺ももらおうかな」

 持ってきたグラスに、神岡がワインを注ぐ。
 頭の中の大きな渦に気を取られ、彼がその時俺にじっと視線を向けていることに、俺は全く気づかなかった。

「……柊くん」
「はい?」

「……今日、何かあった?」

「…………」

「図星かな?」

 ギクリと顔を上げた俺を、彼は頬杖をついて見つめ、クスっと微笑んだ。

「……君は、実は隠し事がすごく下手なの、気付いてないだろ?
 クールな顔で隠したつもりでも、あちこちで心の奥が漏れ出してる。
 知り合ったばかりの頃からそうだった。普段とても冷静なくせに、僕の変人っぷりにちょいちょいパニクってる君が可愛くてね。僕はいつも笑いを堪えるのが大変だった」

「えっ……
 そんな以前から……
 俺、そんなにいろいろダダ漏れてました……?」
「うん、相当にね」

 彼に出会ってからの自分のあれこれが一気に思い返され、思わず顔がかっと熱くなる。
「……樹さん……思った以上に人が悪いですね……」
「あははっ、今頃気づいた?」
 そんなことを言いながら、神岡は楽しそうに笑う。

「……でも。
 いろいろあっても、僕と君の幸せは、もう簡単には壊れない。——そうだろ?
 僕も、君には自分のことを隠したくないし……本心を見せ合うこともせずに作る幸せなんて、本当の幸せとは言えない。
 だから、君にも、本心をちゃんと僕に見せて欲しい。
 それが原因で、僕が君から離れることはない。絶対に。
 お互いに気持ちをちゃんとぶつけ合ってから、二人で進む道を一緒に決めよう。
 ——どう?」

 穏やかで温かい彼のそんな言葉に——俺の胸にあった不安は、煙のようにすっと消えた。

「……あなたが側にいてくれて、俺、幸せです。
 ——今日あったことと、俺の今の本心を、全部あなたに話します。
 だから……あなたも、本当の気持ちを聞かせてください」

「もちろんだ」
 俺の言葉に、彼は優しく微笑んだ。







「…………なるほど」
 俺の話が全て終わるまで黙って聞くと、彼は数杯目のワイングラスを空にして、そう静かに呟いた。

「今日出かけた先のこと、嘘をついてごめんなさい。
 このチャンスをどうしても逃したくなくて……でも、あなたに許可をもらう勇気も、どうしても持てなくて……つい」

「——そうだよな。
 そう考えれば……君の話をちゃんと聞きもせずに、僕も一方的にこの話を切り上げてしまった気がする。
 ……悪かった。
 君の気持ちがそれほど強いものだとは、思っていなかったから」

「……」

「君との子どもが生まれるとしたら……
 僕にだって、これ以上幸せなことなんてない。
 実は、君が新しい命を宿したいと僕に話した時から、僕の頭の中もずっとそのことで溢れそうだった。
 けど——君を危険には晒したくない。絶対に、君を失うわけにはいかない。
 僕の溢れそうな思いは、実現しないものとして何処かに押し込めるべきだ。必死にそう思おうとした。

 でも……
 藤堂先生の説明と熱意は、充分信頼できる。今、君の話を聞いて、そう思った。
 ……少し、考える時間をくれる?
 今回考えて出す答えが、僕の最終的な答えだ。……それでいい?」

「はい。
 俺も、今回あなたに賛成してもらえなければ、もうこの話は終わりにします」

 俺の言葉に、神岡はほっと安心したように微笑んだ。
「ん。わかった。
 ……あ! すっかり夕食が遅くなっちゃったね。君のビーフシチュー、実はさっきから食べたくて待ちきれないんだ」
「そうですね! 温めてきます。……あー今になって俺も急にぐーぐー言い出しました、腹の虫が」

 そうして、やっと俺たちは緊張を解いていつものように笑い合った。






「——あ、そうか」

 その夜。
 ベッドの上で俺の首筋に鼻を寄せ、神岡が小さく囁いた。

「……え?」

 よく聞き取れずに聞き返した俺に、彼は艶やかな微笑で答える。

「少し前から感じていた、君の甘い匂いの原因……
 もしかしたら、そういう君の身体の変化が関係してるのかも、って」

「……そんなに違いますか?」
「うん、違う。
 何か具体的な匂いが違うんじゃなくて……なんだろう、雄にしかわからない匂い……とでも言うのかな」
「え……まさか、発情期のメスの匂い的な……?」
「あ、それだ」

「…………!?」

 俺の冗談めいた言葉をあっさりと認めた彼は、微妙に青ざめた俺にぐっとのしかかり、その美しい微笑みを一層深くする。

「だから、こんな気分になるんだな……君が苦しむほどに押さえ込んで、自分の熱を一滴残らず君の奥へ注ぎ込みたくなる」
「……ちょ、まって樹さん……なんかすごい猛獣化してますよ……そっそれに、今はまだ俺の妊娠について迷ってるんですよね……!?」
「そんな迷いなんてすっ飛びそうだ……
 それに、君もそれを望んでるんだし……あー、もういっそ今すぐ解除しようか」
「あーー! まだダメっ!! ダメですっっ!! そこはよく考えてからっ……!!」
「そうやって焦らされたら、男はますます辛抱が効かないって……君も知ってるだろ?」
 唸るように耳元でそう囁くと、彼は俺の首筋にきゅうっと甘く歯を立てた。

「……いっ、樹さん……っ」

 ゾクゾクとする快感と恐怖感に揺さぶられて半分涙目の俺に、彼は悪戯っぽくクスっと囁く。

「……なんてね。冗談だよ。
 驚かせ過ぎた?……ごめん。

 どうするのが僕たちにとって一番幸せか、一緒によく考えよう。
 ——愛してる、柊」


 この人は——いつも、俺の幸せを何よりも先に考えてくれる。

 だから。
 今回のことに、彼がどんな答えを出しても、俺はそれに従おう。
 俺にとっても、この人を幸せにすることが何よりも大切なのだから。 

 そんな思いと同時に訪れた、彼の優しいキスの心地良さに——俺は改めて満ちてくる幸せを感じていた。