3月中旬の金曜、業務終了後の午後6時30分。
 神岡工務店本社の全社員が、大ホールに集められた。


 副社長が、来週から育児休業に入る。
 そういう情報は、社員たちの間にも少しずつ流れていた。
 副社長不在の間の業務分担や変更事項について、上層部が慌ただしく動いていることもリアルに感じ取れ、それが間違いない情報であることを裏付けている。
 今日ここへ集められた趣旨はその件に関わる説明だろうと、多くの社員は理解していた。


 社長である神岡充が壇上へ上がると、ホールはしんと静まった。
 社長は、会場の社員を静かに見渡すと、マイクの前で穏やかに話し出した。

「——今日、皆様にお集まりいただいたのは、副社長である神岡樹の育児休業取得について、皆様へお知らせするためです。
 副社長は、ご家庭の育児を支えるため、来週より1年間の予定で育児休業期間に入ります」

 ホールが、さわさわと小さくざわめいた。
 社長は、その間を少し置いてから静かに続ける。

「責任ある立場のものが長期間不在となりますが、その間も全力で万全の体制を取り、今後も充実した社内運営を目指していきたいと思っております。
 何卒ご協力のほど、よろしくお願い申し上げます」

 全社員に向け、社長は深く頭を下げた。
 ホールのざわめきは、未だ微かに続いている。

「——この後、副社長よりご挨拶をさせていただきます。
 この件に関するご質問等は、副社長の方からお答えさせていただきます」

 社長が退き、副社長である神岡樹が壇上へ上がる。 

 彼は、全社員へ深く一礼すると、静かに息を吸い込んだ。

「皆様。
 突然のお知らせで、大変申し訳ありません。
 この度、私は家庭を支えるため、一年間の育児休業を取得させていただくことになりました。 
 ご意見やご批判など、様々なお声があるかとは思いますが——何卒ご理解をいただきたく、お願い申し上げます」


「——……」


 何かざわつくものを押さえ込んだような社員たちの気配に、副社長は一瞬微かに表情を硬くしつつも、その空気に屈することなく穏やかに微笑む。
 そして、一つ息を吸い込み、静かに続けた。 


「私事になりますが——少しだけ、お付き合いください。

 2週間ほど前のある朝、私のパートナーが育児による過労で放心状態に陥り、泣いている双子を数時間放置してしまうという出来事が起こりました。
 皆様もご存知と思いますが——私のパートナーは、当社設計部門に在籍する三崎柊くんです。
 彼は、根っからのクソ真面目で頑固なタイプで。
 会社での私の業務量の多さに配慮し、ここまでずっと家事も育児も私に一切手出しをさせることなく、彼一人で家のことを全て担ってくれていました。

 ——それが、どれだけ重く、辛い時間だったか。
 私は、それをこれまで少しも理解できていませんでした。

 そして……私の前で辛い顔ひとつせず、笑顔を絶やさず育児に向き合う彼の姿に、私はどこかで甘えてしまっていたのかもしれません。
 こういうことになるまで、結局彼の苦しみを何一つ知らず、自分から手を差し伸べることをしなかった。

 ——愚かだと思いませんか?
 私は危うく、誰よりも大切な人の心と子供達の命を、恐ろしい危険に晒すところでした。
『知らなかった』では、決して済まされないことなのに」


 改めてその恐怖を噛み殺すように響く副社長の言葉に、やがて会場はこれまでと全く違う静けさに包まれた。


「——……すみません。少し取り乱してしまいました。お許しください」

 気持ちを切り替えるように言葉を切り、一つ深い呼吸をして、副社長は改めて静かに顔を上げる。


「——何よりも仕事が、会社が最優先される、という日本社会の固定観念は、大きな誤りです。
 誰が何と言おうと、私はこの考えを変える気はありません。
 育児や家事という仕事は、社会の中では『厄介な面倒ごと』でしかない。休暇を取得しそれに携わることは、人事評価や昇進にもマイナスに作用する。現在の日本社会のその仕組みを——その誤った意識を、私は変えていきたいと考えています。

 今後は、我が社においては、育児休業取得を人事評価のポイントとして加点していく仕組みを作る。男女ともに積極的に育児に関われる体制に、大きくシフトしていく。
 現在、社内でそれを検討中です」


「……育児休業取得を、人事評価のポイントとして加点……」
「それ、すごくない……!?」

 ホール全体に、新たなざわめきが起こった。


「家族を愛し、育児などの苦労を共に分かち合うことは、人生において会社や仕事よりも遥かに価値のあることです。
 そして、授かった命の成長を親として支え、見守れるのは、人生の中でほんの僅か一瞬だ。
 かけがえのないその一瞬の苦労と幸せを、親として、人として、しっかりと味わえる環境を作りたい。
 神岡工務店の目指す方針として、私達はそう考えています。

 私が不在の間、皆様には大きなご負担をおかけすることとなりますが——どうぞご理解いただき、ご協力を賜りますよう、重ねて深くお願い申し上げます」


 しっかりと会場全体に視線を向けてから、副社長は改めて深く頭を下げた。



 水を打ったように静まったホールのどこかから、小さな拍手が起こり——
 やがてそれは、ホール全体を揺るがす巨大な拍手に変わっていった。









 その夜。

 夕食後、子供達の世話を終えて二人を寝かしつけた俺たちは、これ以上待ちきれないように縺れ合いながらベッドへ倒れ込んだ。


 これまでそれぞれに耐えてきた苦しみが、堰を切ったように解き放たれていく。
 互いの肌の熱いほどの温もりを、これでもかと抱きしめ合う。


 言葉になど、ならない。

 人生で直面する苦労を、二人で分かち合う。
 そんな当然のことが——やっと今、俺たちの手に入った。


 本当ならば何よりも尊いはずの、「子供を育てる」という仕事。
 それは、独りきりで抱えた途端、耐え難い苦痛へと豹変する。
 子供達への自分自身の愛情すら信じられなくなる恐怖をも、一瞬覗き込んで。


 ——でも。
 深い苦しさと重みを伴う、かけがえのないこの仕事を——明日からは、愛する人と分かち合える。

 今日までの苦痛は、最高の幸せへと形を変える。


「——樹さん」

 そう呼びながら、彼の首に強く腕を回す。
 しなやかな曲線を描くその首筋に、熱くなる頬を擦り寄せた。 


 この人は、いつもこうして真正面から苦境に乗り込み、俺の苦痛を喜びに変えてくれる。

 この人を、愛している。
 ただ、その想いが抑えようもなく湧き出し、溢れていく。



「——……柊」

 耳元で、小さな囁きが溶けた。
 様々な思いを詰め込んだような、深く響く囁き。


「……」

 胸が苦しくて、何一つ返せない。
 ただ黙って見上げる俺に、彼は熱を湛えた眼差しで微笑む。
 続いて首筋に訪れた溶けるほどのキスに、新たな吐息が唇から漏れた。


 甘く匂う熱い肌を通して、彼が俺を満たしていく。

 そして同じように、俺が彼を満たしていく。



 ——幸せだ。

 心から。



 どうしようもなく溢れる感情が、訳もなく涙になってとめどなく頬を伝った。