その翌日の朝一、神岡工務店社長室。
 樹は、社長であり父親である充の向かい側のソファに、険しい表情で座っていた。


 昨日、初めて目の当たりにした、深刻な家庭内の状況。
 愛する人の抱えていた苦しみ。
 あまりの衝撃に、言葉を失った。

 自分の命よりも大切だと、心からそう思っていたはずのパートナーと子供達の現状を、自分は今まで何一つ知らずにいたのだ。
 それも、かつて自分たちを激しく攻撃し、いつしか恋敵のような存在にもなっていたその男が突破口を作り、自分の愛する人を救い出すような形になるなんて——。

 訳の分からない苛立ちと情けなさに、体が震える。

 柊の危うい心の状態を聞いた充も、眉間に深い皺を寄せ、腕を組んでソファに沈んでいる。


「社長。
 ——父さん。
 柊を支える時間をください。
 僕たち家族の人生の中で恐らく一番大変なこの時間を、彼のそばにいさせてください。
 ——お願いします」

 樹は、食い入るように充を見つめた。


「——……
 柊くんの状態に、これまでお前は気づかずにいたのか?」

 父の問いかけに、樹の肩が小さく揺れる。


「——……そうです。

 彼はいつも、明るい顔で『大丈夫ですから』と……育児への手助けを僕には一切求めませんでした。
『あなたこそ忙しいんだから、俺の心配はしないでください』と、頑として手出しをさせなかった。

 僕は、彼の言動をそのまま鵜呑みにしていた。
 週に一度ヘルプに来てくれる僕たちの知人が、もしも昨日家に来なければ——彼も子供達も、どうなっていたかわからない」


 青ざめながら肩を震わせる樹の様子を、充はじっと見つめた。

 誰よりも細やかに愛情深い心を持ち、要領よく妥協することを嫌がるその性格は、息子の大きな長所であると同時に、苦労を抱える原因にもなるかもしれない。


「——……我が社の役員規定には、副社長についても休暇や福利厚生は従業員規定に準ずる、と定められている。
 …………だが……」

 額に手を当て、呻くようにそう呟く充に、樹の眼差しは一層強い険しさを帯びる。

「難しいことは、わかっています。
 けれど——今のままでは、僕は彼の最も大変な時期に、一切彼に手を差し伸べなかったことになる。

 愛する家族を支え、育てる。それよりも優先されることって、この世にあるんですか。
 それとも——僕のような立場の人間は、パートナーと共に子育ての苦労や喜びを噛みしめる権利を主張してはいけないんですか?
 愛する人と一緒に子供の成長を見守りたいなど、男が固執することではないと?」


「……」

 樹の言葉が、一つ一つ深々と充の胸を突き刺す。

 育児に苦しむパートナーと二人の子供を目の前にしながら何もできずにいる父親の絞り出す言葉が、剥き出しの痛みを伴って真っ直ぐに自分ヘ訴えかける。

 その言葉に、誤りなどただの一箇所もない。
 家族を愛する男の真っ直ぐな思いが、そのまま言葉になったものだ。
 その男が、ただ大企業の副社長だ、というだけのことで。

 ——副社長に、育児休業を取得させる。
 孫の誕生を心から喜びながらも、具体的には少しも想定していないことだった。

 ——仮に、樹に育児休業を適用するとすれば。
 いま彼が担っている複数の業務を、どうするか。

 そして……責任ある立場の副社長が育児のため不在になる、ということを、社員たちがどう受け止めるか。
 そのことが、社内の空気にどう影響するか……


 ——社内の空気……

 「空気」とは、何だ?

 目に見えない空気や批判、圧力を恐れる、自分自身の心理。
 日本の社会の意識というのは、なぜこうもビクビクと臆病に縮こまり、これほどに自由度や幸福度が低いのか。
 その目に見えない力に圧され、本当に大切なものを大切だと、声を上げることができない。
 何よりも大切な愛するものを、ろくに守ることもできない。
 ——これは、果たしてあるべき姿なのか。

 日本の社会が強く固執する「空気」や「建前」。
 そういうものを維持することに、一体どれだけの価値があるのか。
 結局それらを理由に、我々は社会を大きく変えていくことを億劫がっているだけではないのか?
「人間として」望ましいあり方を切り捨てなければならないほど、それらは重要なものなのか?


「——育児休業をお前に適用するとすれば——
 状況的に、お前はどれくらいの期間を希望するのか。そして、会社を運営する上で、どの程度の期間であればそれが可能か。
 お前の担っている業務を今後どうするか。社内へはどのように説明するか——
 できるだけ早く、それを具体化しなければならない」


「……」

 苦しげに眉間を歪め俯いていた樹が、その顔を上げて父親を強く見つめた。


「私は、お前が柊くんをしっかりと支え、真剣に育児と関わる時間を持つことに賛成だ。
 むしろ、そうあるべきだ。
 業務の割り振りは、お前のいない間も問題なく継続できるよう、何が何でも万全に対処する。
 できる限り長く、柊くんと二人で育児に向き合う時間を、お前に持たせたい。——日本のトップ企業の一つである『神岡工務店』としてな」


 充は真っ直ぐに息子を見て微笑んだ。









 一人きりで全てを抱え込む時間が、間もなく終わる。
 このことは、俺の心に一気に力を蘇らせた。

 昨日と今日が、こんなにも違う。

 窓から差し込む明るい日差しを、美しいと感じる。
 流れ込む風を、心地よく感じる。
 食事を美味しいと感じる。

 子供たちのぐずり声や泣き声を、愛おしく感じる。

 ——愛おしく、感じられる。


 こういうことが全て、こんなにも幸せなことだったなんて——。


 子供達がグイグイと強く胸に吸い付いてくる痛みに、思わず笑みが漏れる。
 不意に、目がじわっと熱くなった。

 訳も分からず頰を伝うものをそのままに、俺はその柔らかく温かな重みをしっかりと胸に抱きしめた。









 その夜、神岡が息を切らすようにドタバタと慌ただしく帰宅した。
 子供達を寝かしつけ、キッチンで夕食の野菜を炒めていた俺に駆け寄ると、両肩を力一杯掴む。

「——すごい!!やったぞ柊くん!!
 僕自身も全く信じられない気持ちだ……!
 育休、取れそうだよ——親父ができる限り長く取得させる方向で考えたいと言ってくれた」


「…………
 ……え……

 それ、本当ですか……?」


 多少心の余裕が持てるようになるだけでも、という程度にしか思っていなかった俺に、彼のもたらしたニュースは俄かには信じがたいものだった。

 育休? 
 それも、できるだけ長く?
 だって、あの大企業の神岡工務店の副社長がだぞ?
 そんなのって、できるのか……?

「何が何でも——と、親父はそんな風に言っていた。
 ——もしかしたら親父も、今のままの社会環境では何か歪《いびつ》だと……そんなことを考えているのかもしれない」

 嬉しそうに俺を見つめる神岡を、俺はまじまじと見つめ返した。

「…………やっぱり、神岡工務店はすごい会社ですね」

「実際びっくりしたよ……今日の今日、そういう風に話が進むとは全く思っていなかった。
 改めて、親父のすごさを思い知らされてる。
 僕も、その後継者として相応しい男にならないと」

「まだまだ修行が足りないですか?」

「…………
 ああ。まさにこれからだ」


 俺のそんな冗談を真っ直ぐに受け止めてそう呟いた顔が、急にふにゃりと泣きそうに微笑み——
 彼は、俺を力一杯胸に抱き締めた。


「——柊くん。
 これから、二人で思い切りジタバタしよう。子供達の育児に。

 大変なこの時期を、君と一緒に乗り越えられるなんて——
 子供達の成長を、君と一緒に見つめられるなんて。
 ……最高に幸せだ」

 微かに震えるようにそう呟く彼の声が、深く暖かく胸に染み込む。


「……それは、そっくり俺の台詞です。

 ——俺、マジで死ぬほど幸せです」



 そうして——キッチンに突っ立ったまま、俺たちはありったけの力で互いを強く抱き締め合った。