ふと目覚めると、隣のベビーベッドで二人がぐずり出している。
 ぼやける目で時計を見れば、午前9時少し過ぎ。

 あの後、3時間弱眠ったのだろうか。神岡はもうすっかり出かけた後だ。

「——そうだ、そろそろ授乳時間だもんな」
 毛布からゴソゴソと出て、授乳の準備に取りかかる。


 母乳育児を諦めず続けて2ヶ月。晴も湊も、乳首に吸い付くことにすっかり慣れた。今は補助器具なしで上手に乳首をくわえ込む。
 俺の胸の方も、女性のように発達した乳房や乳首には当然なれないのだが、吸われることで乳首の周囲の皮膚がより柔軟になった分、今は子供たちの舌に十分絡め取れるようになっている。
 ——それでも、男の胸から頑張って母乳を得ている晴と湊は相当の努力家なのだと思わずにはいられないのだが。
 双子の場合、一人の母親から出る母乳の量では不足なのだそうだ。男である俺の場合はなおさらだ。なので、授乳を終えた後に粉ミルクを追加で二人に飲ませるようにしている。

 クリニックでそのやり方は教わったものの、俺の場合、いくら頑張っても二人同時の授乳がどうしてもうまくいかない。やはりそこは乳房のサイズや乳首への吸い付きやすさも大きく関係しているのだろう。
 もたもたするうちに、二人とも手のつけられないギャン泣きになっていく。そんな事態を繰り返した挙句、俺は同時授乳を諦め、一人ずつ授乳を行う方法に切り替えた。どちらか一方をしばらく我慢させることになるのだがやむを得ない。
 乳首を丹念に消毒し、今回はぐずりの大きい湊を先に抱き上げる。

「ふあっ、ふあ……!!」
 ご飯をくれる存在の匂いを覚えたのか、湊の小さな手足が「早く!!」と言わんばかりに俺の腕の中でパタパタと動く。

 真っ直ぐに俺を見上げる潤った瞳と、桃色に丸く柔らかな頰。
 お腹が空いたとムグムグする口元。
 ああ、たまらなく愛おしい——
 という深い喜びに浸るのも束の間、ベッドに残された晴のぐずりが一気に激しくなっていく。

 ふと、強く鼻をつく匂いに気づく。
 見れば、湊のベビーウェアの背のあたりに、濁った黄色の染みが広がっている。
 紙オムツの腹部の締め方が緩かったか、液体状の便がオムツの隙間から大きく染み出してしまったらしい。
「あーーーー、まずいっ」
 慌てて湊を下ろし、着替えを引き出しから引っ張り出す。シーツも汚してるし、そっちも取り替えだ。汚れのついた身体もしっかり拭いてやらなければ。おしりふきでは足りない、お湯で湿らせたタオルか?慌ただしくオムツ替え用のビニールシートを床に広げる。
 そうする間にも、二人の泣き声は「ご飯早く!!」という欲求の籠った腹立たしげな響きに変わっていく。

 お腹が空いたのはわかってる、でも待ってくれ!お尻と体の掃除が先だろどう考えても!
 そんな大人のつまらない理論など、空腹の彼らには全く無関係だ。


 ——赤ちゃんの催促の泣き声というのは、なぜこれほどに親の心を激しく急き立てるのか。
 俺の中に否応無く苛立ちが溜まっていく。


 過度の疲労というものは、全ての感情を麻痺させる。
 愛おしいという感情も、大切だという感情も——感じる力そのものを、どこか遠くへ押し流してしまう。
 そして、目の前に耐え難い闇を見せようとするのだ。

 努力の届かない焦燥が胸に突き上げる。
 自分が選んだはずのこの状況を、全部投げ出したい衝動に駆られる。

「——俺に、どうしろって言うんだ——……!!?」

 抑える間もなく、激しい怒鳴り声が自分の口を突いて出た。


 自分の放ったびりびりと毛羽立った空気に、二人は一層火のついたような泣き声を上げた。


「————……
 ごめん。

 ごめんな、晴、湊」


 そのまま、へたりと床に蹲《うずくま》った。
 ぶわっと溢れた涙が頬から顎を伝い、ぼたぼたと流れ落ちる。


 自分は——
 本当に、子供たちを、愛しているのか————


 そんな疑問が頭をもたげた瞬間、そのどろりと重い感情は逃げ場もなく俺に覆い被さる。

 否定する術がない。
 自分が、この小さな二つの命を本当に愛しているのか。
 ——それとも、ただそんな感情に憧れ、愛おしむ真似をしていただけだったのか?

 見えないじゃないか。愛なんて、どこにも。
 形がないものが確かにあると、なぜ言い切れる——?


 二人の泣き声すら、どこか遠くで響いているような奇妙な感覚の中——
 不意に、ガサリと音を立てた現実が俺の意識に飛び込んできた。


 目の前に、すらりと伸びたジーンズと見慣れたスリッパが近づく。

 呆然と見上げると、そこにはレジ袋を下げた宮田が立っていた。


 彼には、家の合鍵を渡していた。
 何かあった時に、鍵を受け渡ししなければ部屋に入れない状況は、あまりにも不便で面倒だからだ。


「呼び鈴いくら押しても出ないからさ。
 おはよう、三崎くん。——君のパニック顔、貴重だな」


 軽く砕けたように見下ろす、いつものその微笑に——
 俺は、堰を切ったように号泣した。









 激しく取り乱した俺をソファに座らせ、宮田は湊の身体の汚れを手際よく拭き取り、二人のオムツと湊のベビーウェアを新しいものに替えていく。
 俺の許可も取らず二人分の哺乳瓶を取り出すと、粉ミルクをスプーンで計りながら瓶に入れ、いつも通りの声で俺に言葉を投げた。

「生後2ヶ月の目安は160mlって、ミルクの缶に書いてある。
 二人ともその分量でいいか?」

「……」

「今日は一日、粉ミルクで済ませたらどうだ?授乳よりずっと楽だろう?
 それであれば、僕にもできるしな。
 湊、晴〜!待ってろ、今日はおにーさんがお前らの飯作ってやるからなー」

 吸わせないでいると、母乳が生成されず、やがて母乳の分泌が止まる方向へ流れていく。
 そういう感覚に、ずっと追われ続けていた。

「——……でも、1日ずっと授乳させないのは……」

「真面目な君の悪い癖が、またがっつり出ちゃってるよね。
 本末転倒って、まさにこういう時に使うんだな。
 そうやって、あっちもこっちも完璧にして、周囲にも迷惑かけずに乗り切ろうと君一人でがむしゃらになって——何か、いいことがあったか?
 結局、そのしわ寄せを一番食らってるのは、他でもないこの子たちじゃないのか?」


「————」

 どこか険しささえ漂わせる宮田の眼差しが、まっすぐに俺を見る。
 その言葉は、まるで氷水の入ったバケツのように、俺の全身に浴びせられた。

 あまりの衝撃に、言葉が出ない。


「ほら、これ、晴の分。
 僕が湊に飲ませるから。
 さあ〜二人ともお待たせ、飯だぞおー!」

 そう言いながら俺に哺乳瓶を一本渡し、宮田は勢いよく湊を抱き上げる。
 俺ももそりとソファを立ち、いい加減泣き疲れたような晴を恐る恐る抱き上げた。

 晴が、俺の匂いに気づいたかのように、ふと泣き止んで俺を見上げた。
 じっと、必死に俺を見つめる、濡れた瞳。


 ——お前は、本当に愛しているのか。この子たちを。

 先ほど湧き上がったその恐ろしい問いが不意に蘇り、指が小刻みに震える。


「飲ませ終わったら、君は自分の部屋でしっかり寝てこいよ。
 あとは僕がやれることやって、なんとかしとくからさ。……まあ、パパが帰るまでくらい、君がいなくてもなんとかなんだろ。どうしようもない時は起こしに行くから。
 晴〜、飲み終わったか?今日はママはお休みの日だからなー。ほら三崎くん、行くぞ」

 そう言うと、宮田は俺の腕からさっさと晴を取り上げ、俺を寝室へと追い立てる。

「いやそれは……」
「いちいち文句言うな。
 僕が呼ぶ以外、ここから出るなよ」

「……」

 宮田のいつになく厳しい表情と眼差しに、俺は繋ぐ言葉を思わず飲み込んだ。

「じゃ、おやすみ」
 俺を部屋に追い込んだ宮田は、バタンとドアを閉めていく。


 しんと静まった寝室のベッドにどさりと横たわると、俺は半ば強制的に与えられたその時間を目一杯休もうとやっと決心した。









 その日の正午少し前。
 副社長室の神岡に、秘書の菱木から内線が入った。

『副社長。1番にご自宅からお電話です』

「——え……
 あ……わかった。ありがとう」

 自宅から?

 神岡の表情が、俄かに固くなる。
 急いで電話を切り替える。

「もしもし——柊くん?
 何かあった?」

『——宮田です』

 その声に一瞬驚くと同時に、神岡の胸に別のざわつきが沸き起こる。

「……宮田くん……
 どうしたんだ?
 子供達に、何か——
 ——柊くんに、何かあったのか?」


『——ええ。いろいろと。
 ……神岡さん、今日はなるべく早く帰宅していただくことはできませんか?』

 淡々とそう告げる宮田の言葉に、神岡は血相を変えた。

「……何が……
 彼に何があったんだ、宮田くん!?」

『それはあなたがお帰りになってからお話しします。
 もし、仕事が忙しくてそれどころじゃない、と言うならば——僕、三崎くんと双子をそっくり攫《さら》って帰りますから』


「————」

『じゃ、お帰りをお待ちしています』


 プツリと無表情な機械音に切り替わった受話器を、神岡は青ざめた顔で見つめた。