3月初めの朝、6時少し過ぎ。
 漸く授乳を終えて晴と湊を寝かしつけた俺は、ベビーベッドで小さな寝息を立てる安らかな二つの寝顔をぼーっと見つめた。

 生後2ヶ月と少し。
 生まれたてのしわや赤みはもうすっかり取れ、二人は赤ちゃんらしくふっくらと柔らかな頬や手足を並べて眠っている。
 淡い朝の光に仄かに照らされるその可愛らしさは、まさに天使だ。

 それでも、俺は口元に浮かんだ微笑みを長く持続することもできず——その横にある自分のベッドへ、どさりと仰向けに横たわった。


 無事出産を終え、藤堂クリニックから自宅へ戻ってきてからの2ヶ月間。
 それはまるで、息をつく隙もないジェットコースターにいきなり乗せられたような日々だった。

 充分覚悟はしていたつもりなのだが……その覚悟も、どうやら全く甘かった。
 双子それぞれに母乳の授乳、オムツ替え。授乳時間は3時間なんてろくに開かず、眠ったと思ってもすぐにどちらかが目を覚まし、ふんふんとぐずり出す。一人が泣きでもすればもう一人が大体それにつられるように泣き出すのだ。
 母乳は排便が頻繁らしく、さっき替えたのにまたすぐに紙オムツがツンと臭ってくる。
 液体状の便は簡単に流れ出し、下手をすればベビーウェアにまでシミができる。そうなれば即座に着替え、消毒、洗濯。
 そうやってドタバタするうちに、子供達の小さなお腹はまたすぐに空っぽになる。——延々と途切れなく続く、そのチェーン。

 まさに、昼も夜もない生活だ。
 クリニックで優秀な医師と助産師たちに支えられた天国のような生活が、遥か遠くのことに思える。


「……はあ……」 
 閉じた瞼の上に怠い両腕を乗せ、気づけば深いため息が漏れる。
 頭も身体もずっしりと重く、意識を維持することさえきつい。
 

 恐ろしいことに、俺はこの絶叫系ジェットコースターから降りるタイミングすら探せずにいた。
 少しでも休息をとり、息継ぎをする隙間を得るための策をじっくりと練る時間的・心理的余裕さえ持つことができない。

 一番最初に考えるのは、もちろん家族や身内の手助けなのだが——それを思う度、俺の気持ちはいつも重く塞がる。
 神岡は、言うまでもなく大企業の副社長だ。しかも、今は3月。一年で最も忙しくなる年度の境目だ。彼の抱える仕事量を考えれば、極力育児への協力を頼んだりはしたくない。

 何かできることはないか、あればなんでも言って欲しいと、神岡は暇さえあれば心配そうな眼差しで俺を見つめ、そう言ってくれる。
 しかし、朝早く出かけ、夜遅くに疲れた表情で帰宅する彼に、「じゃああれもこれもお願い!」とは、俺的にどうしても言うことができない。
 それどころか、深夜にバタバタと双子の世話をする物音を睡眠中の彼の側で立てるのが嫌でたまらず、俺は最近は寝室ではなくリビングのソファベッドを広げ、そのすぐ横に二人のベビーベッドを置いて寝起きしている状況だ。

 神岡の両親だって、いつでも頼れるじいじばあばどころか現役バリバリの社長であり、社長夫人だ。ただでさえ忙しい彼らへ育児の負担を被せるその心苦しさを思うと、何より俺自身が辛くなる。
 そして、俺の両親は最初からちょっとあてにできない。横浜に家があっても、それぞれの仕事を抱えて二人ともその家にすらあまりいない状況だ。


 家政婦やヘルパーを頼む、という方法も考えたが……

 男である俺が育児をしているこの状況を、赤の他人にどう説明する?

 変な作り話でごまかすのか?
 ——なぜごまかす? 自分と自分の子供を誇ることさえできないのか?


 事実を説明するのも、嘘をつくのも、嫌だ。
 たまらなく苦しいのだ。


「…………だから、いくら考えても、行き着くところは同じだって……」

 一人小さく呟き、腕を一層きつく瞼に押し当てる。


 つまり——
 晴と湊の世話は、俺の仕事なのだ。

 そもそも、こういう苦労を全て覚悟の上で、渋る神岡を説得してまで妊娠出産を望んだんだろ俺は。
 今更依存心丸出しにして、泣き言など言えるか?

 そんな自分自身の声がまた脳内に響き、胸を苦しく圧迫する。


 小さな子供達には、俺の必死の言葉もその意味も届くはずもなく——愛おしいはずの二人に苛立ちが湧き上がる瞬間が、どうしようもなく痛い。
 日に日に濃くなる、疲労と孤独感。
 神岡が家にいる週末と、宮田の来る水曜日が、水中から一瞬顔を出して何とか息継ぎのできる時間に思えた。


「……そうか。
 今日は、水曜……」

 ふっと訪れた安心感に、急速に強い眠気が襲ってくる。


 宮田は、都合がつく限り、毎週水曜の午前中から夜7時までヘルプに来てくれている。

 どれだけ部屋が散らかっていようが彼は特に気にも留めず、自分と俺の分のランチを近所の弁当屋などで買って無造作に入ってくる。
 さすが腕利き美容師だけあり、彼は手先が器用だ。オムツの交換や着替え、ベビーバスでの赤ちゃんの身体の洗い方などもすぐに覚え、危なげなくこなす。必要になったものの買い出しも、頼めば軽いフットワークで引き受けてくれた。
 宮田のそんな拘りのない雑さや大らかな手助けが、今の俺には何よりも有り難かった。



 しんと静まった薄暗い空間に、部屋のドアがかちゃりと開く音が響いた。
 神岡が起きたらしい。

 俺の育児が始まってから、彼は俺のわずかな睡眠や休養時間を邪魔しないよう、朝食の支度などは全て自分でやってくれる。それだけでなく、毎朝俺の分の食事もついでに用意して出かけてくれるのだ。

 キッチンへ入ってきた彼の背に、声をかける。
「——おはようございます」

「あ、柊くん——起こしちゃった?」

「いいえ……つい今しがた、二人を寝かしつけたところだったので」


「……」

 重い腕を顔からどかして半身を起こす俺に、彼は曇った表情で近づき、静かにベッドサイドへ座った。


「柊くん——」

 そこまで言って言葉を途切らせ、俺をじっと見つめる。
 いくら手助けを申し出ても、俺が頑として受け入れないことを、もう知っているのだ。

 言葉の代わりに、その腕が伸びる。
 長くて綺麗な指が、俺の頬へ触れた。


「——冷たい」

 彼が、辛そうに小さく呟く。


「——……」

 返事を探そうにも頭がよく動かず——
 黙ったまま、俺の頬を包む彼の温かい手の甲に自分の掌を重ねた。


「……ごめん。
 今、二人とも寝てる貴重な時間だよね。君も、少しでも眠って。
 朝食、作っておくから。
 今日は水曜だね。宮田くんに、よろしく言ってくれ」

 彼は俺の頬から優しく手を離し、努めて明るく微笑む。


「——ありがとうございます」


 あっという間に去ってしまったその指が、無性に恋しくて——
 俺は、訳も分からずじわりと目に熱く滲むものを、慌ててぐっと押さえ込んだ。