退院の日がやってきた。
 1月10日。気持ちの良い快晴だ。

 俺の体調の回復はすこぶる順調で、子供達も問題なく健やかだ。
 授乳方法はもちろん、オムツ交換や粉ミルクの与え方、入浴のさせ方なども、助産師達の丁寧な指導により完全マスターしたつもりだ。

 分娩を終えてから今日まで、予想以上に大仕事である双子育児の苦労を、人間味豊かなスタッフ達にしっかりと支えられ、何度も励ましてもらった。個室はこの上なく快適で、料理も毎日マジで美味しく……気づけば、ここを去りがたい切なさが胸にこみ上げる。
 病院なのにあまりにも快適すぎるところは、むしろ藤堂クリニックの難点とも言えるかもしれない。


 今日は神岡が休暇を取り、退院の身支度やの荷物をまとめる作業を手伝ってくれている。晴と湊のベッドも今朝俺の部屋に運ばれ、先ほど授乳タイムを済ませて二人ともご機嫌だ。
 どんどんふっくらと赤ちゃんらしく丸みを帯びるその顔や体、手足は、もうとにかくあまりにも可愛くて見る度言葉を失う。

 満たされた気分が溢れ出るような子供達の顔を覗き込み、神岡も思わず大きな笑みを零す。

「——晴。おいで」

 堪えきれないように神岡は腕を伸ばし、晴を優しく抱き上げた。


「ほら。——明るいだろう?
 これが、お前達がこれから思い切り飛び回る世界だ」

 明るい光の差し込む窓辺へ歩み寄ると、彼は腕の中で瑞々しく潤う小さな瞳を見つめ、そう話しかける。
 晴の瞳も、零れ落ちそうなほどにその光を映し、キラキラと輝いた。
 
 俺は仕事の手を止めて、二人のそんな姿をじっと見つめる。


 ——晴の目には、今、何が見えているだろう。

 その人生をスタートしたばかりの澄み切った目で、見るもの。そこから感じるもの。
 その一つ一つが、少しずつ、彼らを作っていく。

 今、父の腕に抱かれて見ているその景色も、晴を作っていく大切な材料になるに違いない。


 静かに窓の外を見る二人の髪が、穏やかな風に吹かれて小さくそよいだ。

 そんな情景に、なぜか胸がきゅうっと詰まる。


「——湊も、一緒に見たいよな」

 俺も、湊をそっと抱き上げた。
 温かく柔らかな重みが胸にすっぽりと収まり、濁りのない瞳が俺を見上げる。
 
 神岡の隣に立ち——4人で同じ景色を眺めた。
 その明るさや風に反応してか、晴と湊の小さな手足がぱたぱたと元気に動く。


「綺麗ですね。
 この日差しも、空も、風も……全部、キラキラしてる」


「うん。
 ——こうして4人で見る風景は、どんな場所だってきっと輝いて見える。……これからも」


 彼のそんなさりげない言葉を、決して忘れないよう胸に刻みながら——

 初めて家族一緒に見るその景色を、俺たちはしばらく静かに眺め続けた。









 クリニックを発つ際、俺たちは改めて藤堂に挨拶し、深い感謝を伝えた。

「藤堂先生。今まで本当に、ありがとうございました。
 ——どれだけ言葉にしても、まだ足りません」

 藤堂は変わらぬ快活な笑顔を浮かべながらも、俺たちへ向けて穏やかに話す。

「いやいや。何度も言うが、私はほんの少しお手伝いをしただけですよ。この妊娠と出産は、まさにお二人の力で乗り越えたものです。
 ——けれど、本番はここからだ。
 育児に苦労や不安、悩みはつきものです。楽な子育てなど、決してありません。
 まして双子となれば、その忙しさや負担感は大きなものになりがちだ。
 ですが、これは私が保証します。あなたたち二人ならば、どんなことも必ず乗り越えられる。
 健やかな二つの命を授かった喜びを、忘れることなく——どうか、力を合わせて飛び切り素敵な子育てをしてください。
 私は、いつでもあなたたち家族を応援しています」


「——……ありがとうございます……」

 その一言一言が、胸の奥深くまで響き——思わず目の奥がジワリと熱くなる。

「はは、そんなに改まらないでください。
 実のところ、私ももうすっかり晴くんと湊くんのおじいちゃんになったような、そんな気持ちでおるのですよ。じいじは3人もいらない、と言われちゃ困りますけどね。
 三崎さんの出産が済めば私もまた無職のジイさんに戻りますし、家内も暇にしておりますから、もし三崎さんが育児で忙しい時にはどうぞ私どもを使ってください。可愛い男子くんがエンジェル二人も連れて遊びに来た!と家内も大喜びです。
 そうそう、大事なこと言い忘れてました。私は小児科の免許も持ってますから、今後の母子の健診なども直接私に連絡をくれれば診察が可能です」

「…………
 僕たちは、本当に恵まれすぎていますね。
 先生、細やかなお心遣いをいただき、ありがとうございます。心より感謝いたします」

 神岡が、改めて深く頭を下げた。

「——俺、平日の昼間は子供達連れて先生のお家に通おうかなーー……」

 嬉しすぎる藤堂の申し出に、俺の口からも思わずそんな呟きが漏れる。
 昼間一人で双子の育児、というのは、今の俺にはなんとも心細いのだ。果たして本当にやれるのか?と、どうしても弱気になってしまう。

「ん? 三崎くんがその気なら、私は大歓迎だぞ。なんなら住み込みでも——」
 と言いかけた藤堂が、何か一瞬ギクリとしたように言葉を途切らせ、あわあわと前言撤回する。

「ってのはもちろん冗談ですけどね。はっはっ!!」

 ?と思って振り返ると、俺の背後に立っていた神岡が慌てたような作り笑いを浮かべて俺を見る。
 ……どうやら今、住み込みなどと言い出した藤堂に挑戦的な視線でも送ったようだ。
 自分のことをジイさんなどと言ってるが、藤堂は豊かな人生を重ねてきた男の深い魅力と色気がダダ漏れる特Sクラスのロマンスグレーだ。
 神岡の中に、微かなジェラシーのようなものがチラチラ揺れているとしても、不思議ではない……かもしれない。


「……」

「けんかはやめて〜♪」とでも口ずさむべきところだろうか?









 退院したその日の夕方。
 神岡の秘書の菱木さくらと設計部門係長である大島が、自宅を訪れた。
 昨日菱木から神岡にその旨連絡があったのだが……大島係長も一緒に来る、とは聞いていなかった。

「三崎さん、ご退院おめでとうございます!」
 菱木は輝くような笑みで祝いの言葉を向けてくれる。
 久しぶりに見る彼女の笑顔が、じわりと温かく胸に沁みた。

「……おめでとうございます、三崎くん」
 その後ろで、どこかモジモジと大島も呟く。


「——……ありがとうございます」

 菱木さんはわかるが……なぜ係長が?
 微妙にそんなことを思いつつ、俺もどこか照れ臭い思いでそう返した。

「こちらに戻られた直後にお邪魔したりして、本当に申し訳ありません。会社の秘書室の一角が、三崎さんの出産祝いの品で溢れそうになっておりまして——とりあえずその第1便をお届けに参りました。この後も、まだきっと増えるんじゃないかと思うのですが……とりあえず、お運びしてもよろしいでしょうか?」
「うん、じゃお願いしようかな。僕も手伝うよ。柊くん、運び込んで構わないよね?」
「ええ、それはもちろんですが……」

 どうやら、菱木と大島でその品物を会社から車に積んで、ここへ来たらしい。
 それにしても、俺宛の出産祝いが溢れそう……って、どういうことだ??
 俺が妊娠中に出勤していた頃は、社内のどこでも棘のあるような空気しか感じなかった……気がするのに。

 俺の不思議そうな表情を見て取ったのか、菱木がちょっと悪戯っぽく微笑む。

「ほら。私、三崎さんファンクラブ立ち上げたでしょ? そしたら、会員が予想よりはるかに増えちゃって……社内に三崎さんの出産や退院などを報告するたびに、もうお祭りのような騒ぎなんですよ」
「あ、ファンクラブ……
 確かに、副社長からその件を聞いたときは、俺も了承しましたけど……お祭りのような騒ぎって……それ、まじですか??」
「ええ。それはもう。
 ——これはきっと、大島さんのおかげじゃないかなって、私は思うんです。 
 何を隠そう、大島さんはダントツの三崎さんファンクラブ会員No.1なんですよ」


「…………!!?」

 その言葉に、俺は改めて大きな驚きと共に大島を見つめる。
 彼は、困り果てたように赤くなって俯いた。

「大島さんは、大勢の社員の前で申し出てくれました。もしファンクラブを立ち上げるならば、会員になりたい、って。
『三崎さんに対する自分の言動を深く悔いている。これからは三崎さんを応援したい』……って、全社員に向けて、言ってくれたんです。
 そうしたら、応援したいと思いながら何もできずにいた人や、自分自身を省みて会員になりたいと申し出てくれる人が大勢出てきて。
 ——本当に、嬉しかった」

 菱木は、しみじみとした表情でそう話す。


 ——知らなかった。
 そんなことがあったなんて。


「……俺も、今日、持ってきたんです。出産祝い」
 俯いていた顔をぐっと上げて意を決したようにそう呟くと、大島は自分の鞄からなんとも可愛らしくリボンをかけたブルーのラッピングを取り出した。

「……開けても、いいですか」
「……」
 黙ってこくりと頷く大島に、俺はそのリボンを解く。
 中には、丁寧な作りのスタイが何枚も、綺麗に重ねられて入っていた。

「……あの、これ……」
「作ってみたんだ。自分で。
 実家にミシンあって……ミシン使うとか中学校の家庭科以来だったけど、母親に教わったりしてやってるうちに、結構楽しくなって。
 男の子二人で一気に汚しても大丈夫なように、10枚入ってる」

 柔らかいガーゼの手触りが、とても優しい。
 水色や生成りなど、どれも爽やかな色合いだ。
 これを作っている彼の気持ちを思い——ぎゅっと胸が詰まった。

「ありがとうございます……
 あの……大事に使います」
「いや、せっかくたくさん作ったんだし、どんどん汚してもらえれば……」

 そう呟くと、彼は恥ずかしさを思い出したように再び俯いた。


 その様子を静かに見ていた神岡が、ふと明るい声で話し出す。

「そうだ。
 二人とも、荷物運ぶのは後でいいから。まずはうちの子たちに会ってやってくれないかな?」
「え! ほんとですか?」
 菱木が、心から嬉しそうにパッと笑顔を輝かせた。



 リビングの窓際に置いたベビーベッドへ、神岡は二人を案内する。
「授乳タイムも近づいてるし、そろそろ目を覚ますかもしれないな」
「わあ…… 
 小さい、可愛い……ああ、まるで天使……」 
 菱木は、感極まったようにキラキラと輝く瞳で二人の寝顔をまじまじと見つめる。

「…………可愛い……」 
 菱木の横で、大島もボソリと小さくそう呟いた。


 ふと、いつもと違う気配に気づいたのか、湊がもぞもぞと身じろぎを始めた。
「……んむ……」
「……あら……」
「あ、今目を覚ましたのは弟の湊です。結構わんぱくなとこがありそうで。で、こっちが兄の晴」
「そっかあ……二人とも想像してた通りの麗しい男の子だわ……晴ちゃん、湊ちゃん、初めまして♪ さくらおばちゃんですよ〜」
「菱木さん、全然おばちゃんとかじゃないでしょ!」
 そんなことを話しているうちに、湊がぐずぐずとぐずり出した。
「……ふ……ふえっっ……!!」
「ん……ふ……」
「あら、晴ちゃんもお目覚めかな?」
「あー、起きる……これは泣くな〜どっちも」
 神岡が苦笑いしている間もなく、二人の泣き声がシンクロしつつ次第に大きくなっていく。

「……ふあっ、ふあっ!!!」
「んぎゃっ、んぎゃっ……!!!」
 ぐえ〜〜〜! これは俺の心の声だ。


「……あの」

 子供達の元気一杯な泣き声と、わたわた慌て始める俺たちの様子を見ていた大島が、はっきりと言った。

「あの——
 俺……またここに来てもいいですか?」


「……」

「あ、えっと……
 何か、手伝えたらと……そう思って」
「あ、私も! 私もお手伝いに来ます! というか、来させてください!!」


「——……
 嬉しいです。本当に。

 皆さん——ありがとうございます」


 心の中に、何とも言えず温かく力強いものが湧き上がる。

 こんなにたくさんの人に、俺は思われ、支えられている。
 なのに、俺自身が弱気になっててどうする?

 どうせなら、思いっきりいい時間にしよう。
 ジタバタと奮闘努力しながら、この子たちを育てていく日々を。


 そんな思いを噛み締めながら神岡と二人で子供達の紙オムツを替え終えたところで、テーブルの俺のスマホの着信音が鳴った。

 確認すると、宮田からのメッセージだ。

『三崎くん、退院おめでとう!! 君もとうとう立派な二児のママだなー。今ごろ双子たちが泣き止まなくて困ってるんじゃないか?
 ところで明日は僕仕事休みだから、君のところにヘルプに行ってあげるよ♡ ありがたく思って欲しいな〜♪ で、お土産はプリンとシュークリーム迷ってんだけどどっちがいい?』


「……本当に幸せだな、僕たちは」
 泣いている湊を胸であやしながら、そのメッセージを一緒に読んだ神岡が微笑む。

「——そうですね。本当に」
 
 俺も晴を抱き上げながら、思う。


 俺たちは、幸せだ。
 心から。


 ——これから、新しい日々が始まる。
 俺たち4人でスタートする、新しい日々が。
 周囲のたくさんの暖かさに、支えられながら。


 どんな山や谷があっても——幸せになる。
 4人で。
 そして、暖かく関わってくれる全ての人たちと、一緒に。



 勇ましく泣き続ける子供達を、みんなで必死にあやしながら——
 俺たちの新たな日々は、こうしてスタートを切った。