1月3日。分娩を終えて3日目だ。

 その朝、俺は分娩後初めてのちゃんとした食事に、改めて食べる喜びを噛み締めた。
 昨日は朝はお茶、昼から夜にかけてお粥の濃度が少し上がったが、俺も痛みや疲労であまり食欲はなく、しっかり食べられない状況だった。
 だが、時間の経過とともに痛みは遠のきつつあり、今朝はかなり身体が軽い。体調もみるみる回復してきているのがわかる。
 今朝のメニューは、つやつやの白飯、銀鱈の西京焼き、大根とネギの味噌汁、ほうれん草の白和え、胡瓜の浅漬け。新鮮な食材を、どれも舌に優しい味付けで実に上手に料理してある。
 あーーーー、染みる。体の芯まで染みる。
 この心憎い献立、藤堂に胃袋を掴まれそうな勢いだ。いや、料理してるのは彼じゃないとは思うが。


 今日の午後、俺の両親が見舞いに訪れる予定だ。
 二人とも何気に売れっ子の建築デザイナーであり、ほぼ年中暇なしに国内外問わず飛び廻る忙しさだ。休みといえば毎年正月くらいしかまともに時間を作れない。だが、二人とも俺の妊娠については常に気にかけてくれ、『体調はどうだ?』『赤ちゃんたちは順調?』と、しょっちゅうそれぞれからのメッセージを受け取っていた。
 分娩予定日は1月5日と伝えてあったため、その周辺は仕事が入らないよう調整をしていてくれたようだ。今回神岡が無事双子が生まれた旨連絡をした際も、破水と緊急帝王切開には驚いたものの、待ち構えていたように二人で大喜びしたらしい。電話の奥が祭のように大騒ぎだったと、神岡が楽しそうに教えてくれた。


「いつも思うが、君のご両親は本当に大らかで素敵な方達だね。ああいう空気の中で育ったら、どんなことも『とりあえず何とかなる、大丈夫!』って思えそうだ」

 美味なる朝食の後の熱いお茶を味わう俺に、彼は明るくそう微笑む。

「んーー、そう言われてみたらそうなのかなー。二人とも、何というか枠にはまらないタイプなんですよね。こうすべきだとかしてはいけないとかいうのがほぼなくて、良くも悪くもとにかく発想が自由というか」
「うーん、さすがそこは人気建築デザイナーだね。ゴリゴリ頭が固くちゃ新しいアイデアは引き出せない」
「確かに……今考えれば変わってましたね。時々ハンバーグとか出てくると、ロケットとか電車とかの形をしたハンバーグの周囲に、星とか線路を人参やケチャップやなんかで書いてあったりして。ブロッコリーは森よ〜!みたいな説明付きなんですよね」
「ははっ、それはいいね! そういう伸び伸びと自由な発想は、君の人間性にもしっかり引き継がれてる。育児の姿勢って本当に大事だな。
 柊くん、子供達が食べ盛りになったらそういうのぜひ作ってよ」
「え、ほんとですか? じゃ何にしよっかなー……なんか楽しくなってきますね。とりあえず母にレシピ聞いときます」
「うん、よろしく頼むよ。
 あ、そうそう。うちの両親もまたここへ孫に会いに来たいようだから、今日君のご両親が来ることを伝えたら、『ならば、私たちもその頃に合わせて行くことにしよう。大切な柊くんのご両親にまだきちんとご挨拶もできていないのだから、ちょうどいい機会だ』って、親父がノリノリでそう言ってた」

「えっ……」
 その途端、なぜか俺の胃がきゅっと縮まるような感覚が走る。

「ん、どうしたの?」
「いえ……
 そうですよね。結納とかなんとか、男同士だとどうすればいいんだ?みたいに迷っているうちに出産になっちゃいましたもんね……しかも、うちの親は大抵不在ですし……。
 うちの両親と樹さんのご両親、ここで初顔合わせ、ということになるわけですね……」

 いざ初めて対面となると、なんだかめちゃくちゃに緊張する。親同士のソリの合う合わないとかっていうのは、微妙に修正不可能でざりざりと摩擦の大きいものではないだろうか?
 それに……なんというか、俺は本来ならば三崎の名を継ぐ一人息子な訳だが、こうして神岡家のヨメに入ったような形になっているわけだし……そういう部分も、両親としては実際どう感じているのだろう。
 漠然とした不安が、もやもやと胸に湧き出す。


「んー? 何も心配ないじゃないか。うちの両親は君にベタ惚れなんだし、僕も君のご両親にはとてもよくしていただいているし……
 ……そんなに心配?」

「……」

 俺の不安げな顔に、神岡もなんとなく表情が曇る。

「……あ、すみません。
 俺、出産直後でちょっと神経質になってるのかもしれませんね。
 暗い顔してていいことないんだし、気分切り替えていきます」


「……柊くん。
 そんな無理はしなくていい。
 むしろ、そういう気持ちの揺れは隠さないで、ちゃんと僕に見せてくれ」

 ベッドサイドの椅子から俺の顔を覗き込むようにして、神岡が明るく微笑んだ。

「——僕も、今は君の心が不安定になりやすい大変な時期なんだって、しっかりインプットしなきゃな。
 そういう君の苦しさを、全部受け止めるつもりだから……辛い時は、思い切り僕に寄りかかって」

 優しさに満ちた彼の温かい眼差しが、俺を包む。


「——……
 ありがとうございます」


 どんな時も、この人がいてくれる。
 この人の温かい胸に、俺はいつでも寄りかかれる。

 ふっと緊張が緩んだ瞬間……本当に数ヶ月ぶりに、彼の胸と腕が無性に恋しくなり——
 ぶっちゃけた言い方をすれば、強烈なムラムラ系欲求がぶわっと身体の奥に突き上がった。


 そういう思いが、表情のどこかに漏れ出たのだろうか——
 彼のしなやかな腕が、静かに俺に伸びる。
 その腕と広い胸の中に、しっかりと抱きしめられた。

 ——温かく甘い、彼の匂い。
 たまらなく愛おしいその匂いを、胸一杯に吸い込んだ。


「——ホワイトムスクの香り、今日はしませんね」
「ん。だって病院なんだし、体調が不安定な時の嗅覚は敏感になっているものだろ?——君に煩わしい思いをさせたくない」

 穏やかで艶やかな彼の声が、耳を当てた胸の奥で響く。

 ああ。
 この人が、好きだ。
 思わず彼のシャツを指で掴んで、引き寄せた。
 その首筋に、額を擦り寄せる。

 そして、いつぶりなのだろう——自然に引き合うように、優しく唇が重なった。
 キスはいつになく甘く、深くなる。


 ——このまま、彼に抱かれたい。
 今すぐに。
 何だかちょっと切羽詰まりつつある自分自身が、何とも歯痒く苦しい。

 彼も、全く同じ気持ちなのかもしれない。
 熱を持ったキスは俺の首筋を辿り、優しくゆっくりと下へ降りて行く。

 やがて彼の唇は胸の突起に辿り着き、その先端に繊細なキスを施す。
 今まさに稼働中のそこは、彼の与える柔らかな刺激にビリビリと反応した。


「あ……っ……
 待っ……」

「待てない」

 彼にそう即答され——以前よりも紅く熟したそれを舌の上で転がされ、甘く吸い上げられる。

 子供達の吸い方とは違い、たまらなく身体の芯を疼かせるその感覚に、突起は一気に熱を持ち——とんでもない羞恥心とは裏腹に、皮膚の下の温かな流れが抑え難く先端へと集まっていく。
 思わず微かな声が漏れ、身体が震える。


「——甘い」

 湿った音を立てて唇を離し、ちろりと舌でその唇をなめ取るようにしながら、彼の溶けそうな瞳がこちらを見つめる。


「……相変わらず変人」
 吐息が熱を持つのを抑えきれないまま、小さく呟く。

「君だって満更じゃなさそうなのに?」
 とてつもなく艶かしい微笑を浮かべ、彼は悪戯っぽく囁いた。


 ——ああ。
 やばい。

 こともあろうか病院のベッドの上で、こんな羞恥心と快感に溶けるほどに悶えている俺は……ほんとにやばい。
 やばいと頭では思いつつ、ストップをかけられない。

 やはり俺も、なんだかんだでここまで相当な我慢を重ねてきたらしい。この辺の強烈な性欲の動きは、女性とは少し違うところなのかもしれない……。


 そんなことを思う間にも、ベッドに起こしていた上半身がずるずると押し倒される。


「——……
 樹さん……」

 堪らず、その耳元へ囁いた。


 その時——病室のドアを軽やかにノックする音が響いた。

「…………っっ!!」
 既に聞き慣れたノックなのだが、俺達はその音に文字通り青くなってぶっ飛び上がった。


 朝っぱらから盛っては、まあこうなる。
 当然わかってるのだが……理性が飛ぶというのは、こういうことなんだろう。まだ残る下腹部の痛みさえ、今は綺麗にすっ飛んでいた。

「……あっ……ちょっ……」
 あわあわとパニクる俺たちに、ドアの外からいつもと変わらぬ冷静な声がかかる。
「……ん? お取り込み中でしたかな。
 まあ我慢を重ねてきた健康な男性同士ですからねえーお気持ち分かります。
 ただ、我を忘れてうっかり傷が開いたとかいう事態はさすがにアレですからほどほどに。……また来ますねー。ふふっ」


「……」


 どうやら一瞬にして全て見透されたようだ。
 まともな返事もできないまま、藤堂の軽い足取りが遠ざかった。


「…………ごめん」
「いえ」

 まさに盛り上がりつつあった背中に氷水を浴びせられた心持ちで顔を見合わせ、俺達は引きつった苦笑を浮かべた。









 そして、その日の午後4時。
 まだまだ慣れぬ大仕事である授乳タイムを終え、お腹も満たされてご機嫌な晴と湊のベッドが、藤堂の配慮で病室に運ばれた。
 まもなく、俺の両親がここに到着する予定だ。

 やがて、複数の足音が病室に近づいてきた。
 ドアがノックされると、神岡に続いて久々に見る満面の笑顔が目に飛び込んできた。


「——柊。
 やったな。おめでとう!」

「頑張ったわね、柊。
 みんな元気で出産を終えられて——本当によかった」


「——……うん。
 ありがとう。父さん、母さん」


 祝福の言葉と共に溢れそうになる二人の涙に——俺も思わず涙腺が崩壊し、まるで子供に戻ったように一気に涙が零れた。