「じゃ、柊くん、行ってくるよ。今日は君も外出だったよね?」
「はい。大学時代の友達と久しぶりに会う約束してて。帰りはあまり遅くはならないと思いますが」
「了解。楽しんでおいで」

 四月半ばの土曜日。
 新年度がスタートし、神岡はいつにも増して忙しい。今日も朝から出勤だ。

「行ってらっしゃい」
 慌ただしく出かける彼を、玄関まで見送る。

「…………」
 いつも通り外へ出て行こうとした彼は、ふとその足を止めた。
 そしてくるりと振り返ると、すいと戻ってきて俺の首筋を優しく引き寄せる。
 爽やかに香る朝のホワイトムスクにふわりと包まれ——柔らかく唇が重なった。

「愛してる」
 さらりと唇を離し、そう美しく微笑むと、彼はスーツを翻して玄関を出て行った。

 えー……なにそのキラキラすぎる挨拶は……そういうの、朝はいつもしないじゃん……
 いつになく想いのこもった神岡の態度に、俺の良心がズキリと痛む。

 ……何か感づかれてたりは……まさか……しないよな?

 そう。
 俺は、神岡に嘘をついていた。

 大学時代の友人に会う、というのは嘘だ。
 今日俺は、会社付き医師である佐伯と落ち合い、佐伯の実家へ向かうことになっていた。

 佐伯の話では、彼女の実家はレディースクリニックを営んでおり、今は彼女の兄に代替わりしているが、半年ほど前までは彼女の父親が院長として診察を行っていたという。どうやら、その世界では名の通った腕利きの医師らしい。

「父にね、話してみたのよ。あなたのこと。そしたらすごい乗り気になっちゃって。とりあえず直接会って話がしたいってうるさくてね……今日都合がついたこと話したら、もう待ちきれないみたい」
 近くの駅まで迎えに来てくれた佐伯の車に乗り、彼女の実家へ向かう。
 その道すがら、彼女はいかにも楽しげにそんな話をする。どうやら彼女の父は、彼女同様前向きで明るいキャラの人物らしい。
「最近、ちょっと疲れたって兄に席を譲ったけど、しばらく休んだら暇になっちゃったみたい。もしかしたらやり甲斐のある仕事が舞い込むかも、なんて腕まくりしてるのよ。まだそう決まった訳でもないのにね」
 そんな風に言いながらも、佐伯の瞳も嬉しそうに輝く。
「三崎さんの希望に繋がる話ができるといいわね」

「佐伯先生……本当にありがとうございます。
 ただ……実は今日こうして先生に会ってるのも、副社長には内緒にしてるので……まだいろいろ壁はありそうなんですけどね」
 そう俺はボソボソと苦笑いする。

「でも、あなたの気持ちの強ささえ変わらなければ、説得は不可能じゃないと思うわ。だって、愛するあなたとのかわいい赤ちゃん、彼だって欲しくないわけないもの。
 だから……あなたの身に危険が及ぶ心配を少しでも減らすためにも、万全の準備が必要よね」
 明るい声でそう言うと、佐伯はいつものようにぱちっと軽いウィンクを俺にくれた。







 佐伯の実家は、車で30分ほど走った郊外にあった。

「藤堂レディースクリニック」というシンプルな表示が目に入る。静かな住宅街の一角に建つ、立派なクリニックだ。
「さ、どうぞ」
 クリニックに隣接した邸宅の大きな玄関を開け、佐伯が中へ招く。

「……お邪魔します……」

「いらっしゃいませ。お待ちしてました」
 家の奥から、佐伯によく似た品の良い物腰の女性が出てきて、柔らかく俺に微笑んだ。

「ただいま、母さん。話しておいた三崎さんよ」
「あ……初めまして、三崎 柊と申します」

「佐伯陽子の母の藤堂良枝と申します。どうぞよろしく。
 陽子から、三崎さんのお話はお伺いしております。……うふふ、それにしても可愛い方ね、陽子」
 俺を優しい眼差しで見つめると、彼女はふわりとした笑顔で佐伯にそう囁いた。
「でしょ? 絶対かわいい赤ちゃん産めそうよねー!?」
 冗談なんだかマジなんだかわからない二人のそんなやりとりに、俺は一気に赤くなる。かわいい赤ちゃんが産めそうな男ってどうなんだ。

「さあ、どうぞこちらへ。主人も楽しみにしておりますから」
 楽しげな彼女たちに誘われ、俺は屋敷の奥の応接間へと通された。







「お待ちしていました。陽子の父の藤堂 悟《さとる》です。どうぞよろしく」
「初めまして、三崎 柊と申します」

 ソファから立ち上がったガタイの良いロマンスグレーの男が、快活に俺に微笑んだ。
 腕利きの医師というどこか鋭利なイメージに緊張気味だった俺は、その活力に満ちた明るいオーラに、ほっとして笑顔を返す。

「ほう……なるほど」
「はい?」
「どんな子かと思ってたが……見るからに健やかで賢そうな青年だ。妊娠出産に前向きな素敵男子に会えるとはまさか夢にも思ってなかったから、とても嬉しいよ」
「は、はあ……ありがとうございます……」
 褒められたのかどうかよくわからないが、とりあえず礼を述べる。

「陽子から話は聞いたよ。
 前例のないレアケースで、妊娠出産が安全とは言い切れないとしても、君はその可能性に賭けてみたい……ということだね?」

「はい。自分の中に新しい命を宿せるなんて、こんなにすごいことない気がして。もし可能性があるならばトライしてみたい、という願望がどうしても抑えられなくて……
 でも、こんな挑戦、やはり危険すぎるのでしょうか?」
 ソファを勧められ、座り心地の良い座面に身体を預けつつ、俺は恐る恐る藤堂の顔を窺う。

 ふと部屋のドアをノックする音が響き、佐伯がコーヒーカップをトレーに乗せて入ってきた。
「ねえ父さん、実際のところ、三崎さんの願いは叶えてあげられそう? 産婦人科に関しては私も全く無知だし、もう父さんが頼みの綱なのよ」
 それぞれの前にカップを置き、俺の横に座ると、佐伯も興味深そうに藤堂に問いかける。

「んー。……なにぶん、今までにないケースだからね。何から何まで心配ない、と簡単に判断することはできない。
 だが……」

 カップを静かに口に運んでから、藤堂はゆっくりと自分自身の思考を確認するように呟く。

「これまで私は、別の疾患を抱えながらも出産を望む妊婦さんたちを大勢診てきた。他の病院では出産を諦めろと説明された、そんな女性たちだ。
 彼女たちが母子とも無事に出産を乗り切れるよう、私はこれまで全力を尽くしてきた。その経験から得た知識や技術は、誰にも負けないと思っている。

 そして……これは医師としての勘なんだが……どこにも異常のない健康で若い身体ならば、例え成熟した女性の身体でないとしても、妊娠や出産には充分対応できるはずだ……これまでの経験から、そう私は強く感じている」

 はっきりとした口調でそう言うと、藤堂は俺に真剣な眼差しを向けて続ける。

「こういうケースで出産に臨む安全性や危険性については、具体的なデータもなく、確実な話をすることは残念ながらできないが……無事赤ちゃんを迎えられる可能性は充分あると、私は確信している。
 こんな不確かな説明で申し訳ない。けれど、もし君が本気で妊娠や出産に臨む気ならば……私に、是非手伝わせてほしいんだ。
 こうして少し話すだけでも、君の聡明さや愛情深さが私にも伝わってくる。伊達に何十年も医師をしていないからね。
 ——君なら、授かった命をきっと幸せにしてあげられるはずだ。

 君の命の安全は、私が保証する。
 そして、こういう前例のないケースにおいても妊娠出産が可能なことを、私も是非証明してみたい。——もしもそんな素晴らしいシーンに立ち会えるならば、医師としてこんなに幸せなことはない」


 藤堂の力強く熱のこもった言葉に、俺の気持ちはほぼしっかりと固まってしまった。

「——藤堂先生。
 ありがとうございます。
 先生についていていただけるなら、俺、本気でトライしてみたいと思えます。安心して挑戦できる気がする。
 どうぞよろしくお願いいたします。
 ……それにはまず、パートナーの説得をしなければいけませんが」

 藤堂は、そんな俺の言葉に頼もしく微笑む。
「彼の気持ちも、痛いほどわかるよ。それはそうだろう。大切な人を危険な目に合わせたくないに決まってるからな。
 けれど、これだけは約束する。
 どんなことがあっても、君の命は守る。——そのことを、是非彼に伝えてほしい」

 そんな藤堂の言葉に、佐伯も笑顔をキラキラと輝かせた。
「三崎さん、頑張って! 今の父さんの話聞いて、私もやっと前向きにあなたを応援する気になれたわ!
 副社長も結構頑固なとこありそうだから、なかなか手強いだろうけど……二人の赤ちゃんなら、文句なく可愛いに決まってるしねー。あ〜〜、なんだか今から楽しみになってきちゃったっ! うふふっ♪」


 こうして、藤堂と佐伯から心強い情報と力強い応援を得て、俺は固く心に決めた。

 何が何でも、俺たち二人で新しい命を創ることに、彼を同意させてみせる……と。