「……先生、それは?」
「乳頭保護器という器具だ。本来は、授乳により乳首に傷や炎症ができた場合に、この器具で傷ついた乳首ををカバーしながら授乳するためのものなのだが、赤ちゃんの口と乳首のサイズが合わない時などに、これをつけることで赤ちゃんが乳首に吸い付くことができるようになるケースも多いんだ」
 そう説明しながら、藤堂は俺の乳首にその器具の装着を試みる。
「三崎さん、ちょっと触るよ。
 ……うん。普通の男性のように胸板がガチガチに硬いとこうはいかないのだが、そこはやはり母乳のスタンバイをしているだけあるな。乳首の周囲の皮膚がとても柔軟になっている。
 じゃ、ちょっと強く乳輪解すねー。
 ……よし、装着完了だ」
 そうして、装着したゴムの分だけサイズアップした乳首に、激しくぐずる晴の口をつけてみる。
 唇に触れたその突起に気づくと、晴は夢中でそれを咥え込んだ。

「……んむ……
 ……んく……んくっ……」

 ぐっと、強い吸引力を感じる。
 ——やがて、晴の喉が、微かに液体を飲み込む音を立て始めた。

「……あ……
 ——飲んでる……」

「うん……うまくいったみたいだ。
 一生懸命飲んでるな」
 藤堂が、大きく満足気な笑みを零した。

 まだちゃんと見えてはいないのだろうが、晴は懸命に乳を吸いながら、黒く潤った瞳で一心に俺の顔を見上げる。
 その視覚だけでなく、嗅覚や触覚や……小さな身体のあらゆる感覚を働かせて、俺という存在を脳にインプットしようとしていることが、はっきりと伝わってくる。
 ——この温かい乳を与えてくれるものが、どんな時も自分を守ってくれる存在なのだと。

「——……」

 じわりと、新たな涙で目が熱くなる。

 その期待に、応えたい。
 どんなことをしてでも。

 強烈なほどの思いが、抑え難く胸にこみ上げる。

「……本当だね……一生懸命飲んでる……」
 神岡も、感動したようにその様子をじっと覗き込む。
 そして、ふと不安気な顔になると、おもむろに藤堂に問いかけた。

「——先生。
 僕たち、二人とも男ですが……パパ役とママ役は、子どもから向けられる愛情の量は違っちゃうんですかねえ……」

「はははっ、そんなことはない。
 あなたたち二人なら、どちらも素敵なパパにもなれるし、ママにもなれる。私は、そう確信するよ。
 ——ただ、三崎さんのように細やかで愛情深い人がママ役、ということになると、パパ役は厳しい戦いを強いられるかもしれませんねえ」

「…………でしょうねえ」
 藤堂のそんな返事に、神岡は微かに苦笑いの混じった微笑みを浮かべる。

「——なんてね。今のは冗談です。
 あなたはあなたなりのやり方で、子供達に思い切り愛情を注げばいい。
 三崎さんの愛情の注ぎ方をあなたが真似できないのと同じように、あなたにしか注げない愛情というものがあるのですから。

 どちらがどれだけ愛されるか、なんて余計なことを考える必要はない。
 深く愛するから、深く愛される——ただ、それだけです。
 そして、本気の愛情は、どんな形であれ、必ず相手の心に届くものですよ」

「——そうですね。
 ありがとうございます、先生」

 穏やかながらも揺るぎない藤堂の真摯な言葉に、神岡は微かに瞳を滲ませるように深く頷いた。









「じゃ、次は弟くんだ。授乳の際は、双子の場合は二人同時に授乳するスタイルが一般的だ。どちらかを待たせてはかわいそうだし、せっかく二つある乳房を余らせておく必要もないしね。
 じゃ佐藤さん、弟くんの方を頼む。まずは乳頭保護器なしでやってみよう」
「わかりました。
 お待たせ、弟くん。お腹すいたね〜」
 佐藤と呼ばれた助産師が、待ちかねてぐずっている湊を抱き、空いている左の胸に近づける。
 晴同様、乳首に唇をつけた途端、湊は無我夢中で勢いよく突起を咥え込んだ。

「んむ……っ」

「……っ……
 ……うぐっ……!!!
 ——いっっ、いだだいぃっっ!! 湊待ってそれ痛すぎるからっっっ!!!」

 ぎゅうっと乳首が強く引っ張られ、俺は連動して起こる後陣痛に思わず悲鳴を上げた。
「こらこら湊っ、ダメだろ!!」
 神岡も思わずあわあわと慌てたような声を出す。
「おおー、弟くんはワンパク坊主か? 元気がいいなあー、このまま吸えるかな!?」
 楽しげに様子を見守る藤堂を俺は思わず涙目でぐっと睨む。
「先生っっ!! 俺が痛いんですってば!!!!」
「ああーすまん! ついうっかり」
「湊くんごめんね、もうちょっと待ってね〜」
 助産師が湊の口元に指を当て、一旦乳首から引き離す。
「……んにゃ……っっ!!」
「わかった湊、ちょっとだけ我慢な!」
 イヤだ!と言わんばかりに泣いて抗議する湊に、俺と神岡は改めてオロオロとするばかりだ。
 そんな騒ぎを、藤堂は「初々しくていいなあ〜」とでもいうようにニマニマ微笑みつつ眺めている。他人事だと思って!!

「いやあ、本当に元気で賢い子たちだ。
 しかし、この様子だと、いずれ保護器なしで直接授乳ができるようになるかもしれないな」
 口元の笑みを収めきれないまま左の胸にも保護器を装着しつつ、藤堂はそう呟く。

「おっぱいを吸う時、赤ちゃんが咥えるのは乳首だけではない。乳輪の部分までを含めて舌に巻きつけるように吸うんだ。
 三崎さんの場合、乳首そのものは当然女性のサイズより小さいのだが、その周囲の乳輪などの皮膚はとても柔らかくてしなやかだ。その柔らかさがあれば、慣れて来さえすれば赤ちゃんが咥え込んで舌を巻きつけることは充分に可能だろう。
 それまでは、器具をつけてできるだけ積極的に飲ませるといい。しっかり吸わせるほど、母乳は活発に作られるようになるからね」

「……直接、吸えるようになる……
 ほんとですか?」
「うん、恐らくな」

 器具を介さない授乳。
 直接、乳首を吸う感触。吸われる感触。
 それはきっと、子供達と体の奥深くで結び合える、大切な行為なのかもしれない。
 身体が、既にそう感じている。
 命の繋がりというのは、本当に不思議だ。

「……んく、んくっ……」
 やっと母乳にありつき、晴と同じように俺を見上げながら一心不乱に乳を飲む湊を、じっと見つめる。 

 ——こうして、初めて子供達と見つめ合う。
 今、この瞬間を、決して忘れたくない。
 どんなふうに環境が変わっていくとしても、どれだけ時間が流れても。

 この二人を、立派な男に育てる。
 この世に生まれて良かったと、心から思えるような——そんな人生を、二人がしっかりと選び取れるように。

 親として、できることを。
 全力で。

 そんな揺るがぬ決意が、うまくまとまらないままふつふつと胸の奥に漲る。

「……樹さん」

 俺ひとりじゃ、無理だ。
 この人が、一緒じゃなければ。
 俺は顔を上げ、真っ直ぐに神岡を見つめた。

「——全力でいかなきゃですね。
 俺たち、一緒に。
 この子たちを、幸せにするために」

 神岡は、温かく優しい瞳でそれを受け止める。

「……うん、そうだな。
 全力で行こう。僕と君で。
 
 けれど、この子たちのためだけじゃない。
 僕たち全員が、幸せになるためにだ。
 僕たちの目標は、家族全員の幸せだ。——そうだろ?」

「——……そうですね。
 頑張りましょう。何があっても。
 家族全員で、幸せになるために」


 その道のりは、恐らく楽ではないだろう。

 そう。
 楽な人生を歩んでいる人など、ただの一人もいない。
 それでも、生きることは素晴らしい。
 山や谷を必死に進みながらも、俺がこんなにも幸せなように。

 二人の小さな瞳を見つめながら、俺は願いにも似たそんな思いを、何度も心で繰り返していた。