神岡工務店も仕事納めを終え、今年も残すところあとわずかだ。

 振り返ってみれば、今年の春に妊娠がわかって以降、数え切れないほどの喜びや悩み、怒り、苦しみを乗り越えた一年だった。
 おそらく……いやどう考えても、自分の人生の中で一度きりの体験が詰まった一年間。
 そんな波瀾の年を、神岡と一緒にこうして穏やかな気持ちで見送ることができる……思えば、これほど幸せなことはない。

 もちろん最大の山場は、来年のスタートと同時に控えている分娩だ。それは分かっている。
 それでも、お腹の子達も俺自身もこの上なく順調な経過だと、藤堂も太鼓判を押してくれている。あとは、二つの新しい命に会えるその時を静かに待つだけだ。
 これから何が待っていても、年越しはやはり除夜の鐘を聴きつつ穏やかな気持ちで向き合いたいものだと、日本人な俺は思うのである。


「柊くん。君の体調が問題なければ、元日の朝は例年通り、うちの実家に新年の挨拶に行こうと思うけど……大丈夫そう?」

 12月30日の朝。
 一緒に遅めの朝食を取るダイニングテーブルで、神岡が穏やかな表情を俺に向けた。
 こんな風に仕事から解放されたリラックスモードの彼は、こう考えるとなかなか見られない貴重な姿なんだよなあ、と改めて思う。

「ええ、今のところは全く問題なさそうです」
「うん、なら良かった。
 いつものようにお節料理なんかも向こうで揃えてるし、なんだかんだ言って両親とも早く晴と湊に会いたくてうずうずしてるようだし。——いろいろ細かいことは置いといて、まあ気楽にね」

「……ええ、そうですね。
 俺が入院中に、病院へお見舞いに来てくださった時のお義父さんとお義母さんの表情が、本当に優しくて……弱っていた気持ちが温められるようで、思わず涙が込み上げました。
 お二人に、こんなにも愛情深く見守ってもらってるんだと、改めて感じました」
「まあ親父も、いざ面と向かうと不器用というか照れ屋というか……素直に感情を出すのが苦手っぽいとこがあるよな。
 そんなこと、これまで少しも気づかなかったけど。
 ——こうして、君が僕のところへ来てくれてから、両親について初めて知ったことがたくさんあるんだ」

 少し視線を伏せるようにしながら、彼は柔らかい微笑で呟く。

 さまざまな障害や問題に正面から向き合う度に、お互いへの理解が少しずつ深まっていく——そんな空気が、最近の神岡と両親の間には感じられる。
 これまでどこか冷たく離れていた親との距離が、確実に近づきつつあるその幸せを、神岡もはっきりと感じているのだろう。

「——そうだ。
 今日はせっかく時間もあるし、ちょっとその辺をドライブでもしようか? 年越し蕎麦なんかもまだ買ってないしね。買い物は僕だけ店に降りて買ってくるよ。
 ちなみに大掃除は帰ってきてから僕がテキトーにやるからさ。君は座ってのんびりしてて」
「え?? 大掃除を、あなたが一人でテキトーに?……どんだけテキトーな仕上がりになるのか、想像するとゾッとします」
「ははっ、酷い言い草だな。でもほら、今年は君が身重っていう超特別な年なんだし、まあいいじゃないか。それに君が毎日綺麗にしてくれてるから、大掃除なんて全然必要ないくらいだ。
 よし、そうと決まれば早速出かけよう。君とドライブなんて、そういえば久しぶりだなー」

「……あ。
 樹さん、少し出かける準備に時間もらってもいいですか?」
「ん? それはもちろん。
 ……でも、何か特段時間かかるような準備があるの?」
「それはですねーー。うへへ」
「……??」


 それから約1時間後。

「あなたー♪ お・ま・た・せ♡♡
 これなら、人目を気にせず一緒にショッピングできちゃうわよっ♡」
 俺は、例の完璧な美人妊婦の姿で神岡の前でくるりんと回ってみせた。









 あまりぎゅうぎゅうと窮屈な店では人との接触も気になるため、買い物は郊外の大型ショッピングモールへ足を伸ばした。

 敷地面積の広い店舗の建物をつなぐコリドーには、冬の日差しが穏やかに落ちている。行き交う人の流れよりも緩い足取りで二人並んで何気なく散策していると、神岡がこそりと俺の耳元に囁いた。
「……ねえ、柊くん……
 やっぱり、なんか見られてる気がしないか?」
「……ですよね。
 まあ他人の視線なんて、気にしててもきりがないですし」

 その時、俺たちの横を通り過ぎた数人の女の子たちが、少し声高に言葉を交わすのが背後で聞こえた。

「……ねえ、今の人! すっごいイケメンじゃなかった!?」
「だよね! それに奥さんもすっごい美人ー」
「めっちゃキレイな妊婦さんで驚いた。私もああいう風になりたーい」
「え、あんた妊娠願望あったの? 知らなかった」
「んーなんか今突然湧いたー。だってお腹に赤ちゃんいて、素敵な旦那様と歩くなんて絶対幸せじゃんー」


「……だそうですよ、樹さん」
「……とりあえず、まあいいか」

 顔を見合わせ、苦笑い気味に微笑み合う。
 その時、急ぎ足ですれ違った男性客が不意に俺の肩にぶつかり、体が一瞬よろめいた。

「あ……」
「……っ……
 大丈夫、柊くん?」

 俺の肩を抱きかかえて顔を覗き込んだ瞬間、彼の顔が一瞬ギョッと固まった。

「……どうしたんですか?」

「いや……今、なんか思い切りドキッとした。
 柊くん、いつもそんな色っぽい上目遣いとかしないじゃないか……」

「え、そんなにいつもと違います?
 なんか化粧とかしてるうちに、私は女子よ♡的な自己暗示みたいのにかかっちゃう気は前からしてたんですけど」
「ちょっとかかり過ぎだぞソレ……
 うーん、やっぱり心配だ……これじゃ男に絶対言い寄られるって……」

 途中からブツブツと独り言のようになった彼の険しい顔に、俺は思わずぷっと吹き出す。

「笑い事じゃないよ柊くん!」
「……だって、こういうのも、もうあと一週間じゃないですか……
 樹さんて何気に相当なヤキモチ焼きですよね〜」
「これは君のせいだからね。そうやって君が魅力的だから僕が不安にさせられるんじゃないか」
 まるで子供のように本気でそう反論する彼に、俺はくすくす笑いが止まらない。

 ——こんな風に。
 この人の隣なら、俺は笑っていられる。
 どんな時も。

「樹さん。
 さっきの女の子達が言ってた通り……俺、めちゃめちゃ幸せです」

 そう素直に口にした俺の眼差しを、彼はいつものように優しく受け止める。

「それは、僕の台詞だ。
 これからも、この気持ちは決して変わらない」

 肩に回された彼の腕に、強い力が籠もった。


「……あの……
 年越し蕎麦、売り切れちゃいませんかね……」
「あーもうムードないな全く!」


 そうして笑い合いながら、俺たちは年の瀬の客で賑わう食品売り場へと向かったのだった。









 静かで穏やかな大晦日が過ぎ、元日の朝日が昇った。

 俺と神岡は、それなりに元日らしくきちんとした装いに身を包み、神岡の運転で実家へと向かった。
 と言っても、俺はもうなんというか力士が選ぶレベルの物をもそもそ着込むしかないのだが……もういっそマタニティワンピースじゃダメか!?と叫びたい気分である。
 いやいや、我慢だ。ゴールテープは目の前だ。



「あけましておめでとう。今年もよろしく」

 広い和室の障子から、元日の明るい日差しが差し込む。
 立派な神棚には榊《さかき》と注連縄《しめなわ》が飾られ、蝋燭が灯されている。毎年思うが、なんとも厳かで心洗われるような正月の佇まいだ。
 大きなテーブルに着いた俺たちを正面の席から見つめ、義父はにこやかに新年の挨拶をする。
 その穏やかな表情とよく通る艶やかな声は、まさに一流企業の先頭に立つ男の風格に満ちている。

「樹、柊ちゃん、あけましておめでとう!
 今年は、というかあと五日後には、可愛いベビーちゃんたちに会えるのね!!あーほんとにもう待ちきれないっ♡♡」
 義父の隣で義母も優しく俺たちを見つめ、心から嬉しそうに満面の笑みを零した。

「あけましておめでとうございます、お義父さん、お義母さん。
 お陰さまで、この子達も俺自身も、すこぶる順調にここまで来られました。あとひと頑張りです。ね、樹さん」
 明るく穏やかな空気に、俺たちもいつになく凪いだ気持ちで自然に微笑みが漏れる。

「うん、そうだね。こうして新年を迎えられて、本当に幸せだな。
 ……それから……
 いろいろきつい時に、父さんと母さんに見守ってもらえて……僕も柊も、本当に心強かった。
 ——ありがとう」

 俺に向けていた視線をまっすぐに両親へ移し、神岡ははっきりと穏やかな口調でそう伝えた。


「……当たり前だ。
 私たちは、お前たちの親だ。
 そして、これから生まれてくる子たちのおじいちゃんおばあちゃんなんだからな」

 わずかな沈黙の後——
 微笑んでそう答える義父の声が、一瞬ぐっと詰まったような気がした。

 微かに滲んだ涙を指で払うようにしながら、義母も明るい笑顔で立ち上がる。
「さあ、お節も頑張って準備したわよ! 二人とも、形だけでもお屠蘇を注ぐ?」
「いや、僕も柊も、今年はやめておくよ。万一のことがあるといけないし」
「よし、じゃあ早速料理を頂こう。母さん、雑煮の準備もできてるな?」
「もちろんよー♪ さあどんどん食べてねー♡」


「——それからな。
 今日は私達から、お前たちに大切な報告があるんだ」

 明るい雰囲気の中、改まった口調で義父が口を開いた。


 大切な報告……
 何だろう?

 その言葉に耳を傾けようとした瞬間——

 下腹部の奥から、下へ向かって不意に何か温かいものがどっと流れ落ちる感覚が走った。


「——……」


「……柊くん?
 どうした?」

 俺の微かな変化に気づいた神岡が、俺の顔を覗き込む。
 俺はそれに答える余裕もなく、突然自分の身体に起こった異変に必死に向き合った。


 腹部に痛みはないようだ。 
 けれど——

 体内の温かい液体が、すうっと、そして次々に降りてくる感覚——


「…………樹さん……

 ……破水です……多分」


 激しい恐怖感に、全身から一気に血の気が引いていく。
 

「……どうした、樹?」
「——柊ちゃん?」


「————……」


 両親の声が耳に入らないかのように、彼は険しく緊張した表情で立ち上がった。