10月中旬の、土曜の午後。
 空は高く澄み、病室の窓から流れ込む風が爽やかだ。


 藤堂クリニックに入院して、約3週間が経った。
 妊娠7ヶ月。週数にして26週目だ。
 収縮抑制剤の点滴は外れたが、絶対安静の状態は依然続いている。

 先月頃からにわかに勢いを増した腹部の膨張は、我ながら驚きに値する。藤堂によれば、骨格が大きい分女性に比較するとだいぶ出っ張り具合は緩やからしいが……まるでラージサイズのボールのようにぽんぽんな自分のお腹をさするのは、なかなかに貴重な体験だ。


 多胎児妊娠の場合は、今週から産前休暇を申請することができる。
 神岡が、会社で申請書をもらってきてくれた。藤堂の診断書と一緒に会社へ提出し、受理されれば、めでたく産休のスタートだ。
 俺のいない分、設計部門のメンバーに負担がかかるだろうことはとても申し訳ないのだが……ここはやはり、新たな命を優先させてもらわねばならない。

 仕事、休みかー。本当に休んでもいいのか?というような不思議な気分だ。
 これで出産が無事済めば、二人の元気一杯な赤ちゃんを相手に、育児にてんてこ舞いする日々が始まるのだ。
 かわいいウサギ柄かなんかのエプロンをつけて、オムツを替えて。ベビー服を洗って、小さなベビーベッドのシーツを取り替えて……という感じだろうか?
 オムツを替えても泣き続けるなら、ミルクかな? んーじゃ……
 とか言いつつ、シャツを捲り上げて——。


「…………」
 そこまでイメージする度に、俺は一気に熱くなる顔を思わず両手でがっと覆わずにいられない。

 だっだってしょーないだろっっ! 藤堂が恐らく出るだろうって言うし!! 例え分量はちょっとだとしても、母乳は乳児にとって最高の栄養源なんだから。そんな貴重なものを無駄にできるわけがないだろ!
 実際、最近何となく、胸のあちこちが何かミリミリと発達するような違和感もあったりして……
 とりあえず豊かに膨らんでくるとかはないから安心しろ、と藤堂には言われたが……その程度のフォローでは、この複雑な心境は拭いきれない。

「……あー、いろいろ客観的に想像しちゃダメなやつだコレ……」
 顔から手を離せないまま、小さく呟く。 

 母乳、特に分娩後数日間分泌される初乳は、赤ちゃんに必要な栄養素を多分に含んでいるそうだ。
 無事にこの世に出てきた産まれたての子供たちに、自分の身体から出る大切な栄養を与えることができるなんて……こんな幸せは、ないじゃないか。
 男だろ!! 腹括れ、俺!!

 必死にそんなことを思いつつ、ぶんぶんと頭を左右に振って動揺を追い払う。
 こんな気恥ずかしさに悶えるのも、きっと俺史上最高の幸せなのだ。


 土日は、病室に見舞客が顔を出してくれる。
 と言っても、俺の身の上に起こっている事実を知っている、ごく限られた人たちだけなのだが。 
 絶対安静であり、これから出産という大仕事が待ち受けていることもあり、俺の気持ちはふとした瞬間にすっと薄暗い不安に包まれる。
 そんな時の親しい人達の見舞いは、とても嬉しく、心強いものだ。
 週末は神岡も側にいて、常に俺の様子を気遣ってくれる。一人では不安な客対応も、おかげでリラックスして応じられる。


「あ、そうだ。今日、もしかしたら宮田くんが来るかもしれない」
 飲み物を買って戻ってきた神岡が、そんなことを言う。

「え……宮田さんが?」
 その意外な名前に、俺は思わず聞き返した。


 あの男がそういうことをするタイプとは、到底思えないのだが……
 というか……ちょっとやばい展開じゃないか、これ?

 以前宮田には、妊活中の苦しみを相談に乗ってもらったことがあった。
 しかしそんなことはもちろん、神岡には話していない。もしも話したら、彼の機嫌が一気に悪くなるだろうことは予想がつく。「僕じゃなく、宮田を頼るのか?」と。

 まさか宮田、あの時のことやら何やら、いろいろ神岡にぶちまけちゃった……とかじゃないだろうな??


「……彼が、ここに来るって……どういう経緯で?」
 俺は恐る恐る彼に確認する。

「実はね……この前のスタイリングの際、『三崎さん、最近カットの予約入りませんね? どうしたんですか?』って彼に聞かれて。
 ちょっと体調崩したから、って軽く誤魔化したつもりが、『何か重病ですか』って食いつかれて……逆にごまかせなくなった。
 結局、今の君の状況を彼に話したんだ。他言無用、と念を押した上でね。
 彼、随分君を心配しているようだったし……子供達が生まれれば、どっちにしてもいろいろわかってしまうだろうしね。
 僕の話を聞いてすごく驚いていたけど、『おめでとうございます。ぜひお見舞いに行かせてください』って。
 ——おめでたのこと、すごく嬉しそうだった」

 神岡は、どこか複雑な面持ちでそう話す。


 さすが美容師、客のプライバシーの取り扱いを知っている接客業だ。その辺、ちゃんと気を利かせてくれたらしい。
 っていうか、俺のこと、何気に心配していてくれたのか……
 いいやつだな……
 と思いかけて、慌てて引っ込める。だって、かつてのあの蛇野郎だぞ!?


 そんな俺に、神岡はちらりと微妙な眼差しを向けた。

「……もしかして、彼……冗談めかしたあのノリで、今でも君に『付き合って』とか言っちゃったりするの?」

「へ? それはないですよー。だって彼、可愛い恋人とラブラブだって散々言ってますし」

「……うん。そうだよな。
 何にしても、人に愛されることは、素晴らしいことだ。
 癖の強い彼を、これほどに虜にするとは——さすが僕の柊くんだ」

 そんなことを呟くと、彼は柔らかく微笑んだ。







 

 その夕刻。
 神岡の話通り、宮田が病室を訪れた。

「神岡さん、これお土産のプリンです。ここの店、美味しいって今人気らしくて。
 三崎くん、どう?……おお、これは立派だねえ」

 神岡に手土産を渡しつつ俺の腹部をまじまじと見て、彼はそんな感想を漏らす。

「男の子が二人入ってるだけあるよね。実に立派だ。
 子供達、生まれてきたらきっと、僕の言うことより柊くんの言葉の方をちゃんと聞く気がしてならないよ」
「それはそうでしょうね。特に男の子ってママにべったりな生き物ですから」
 宮田のそんなさらりとした返事に、神岡は微妙に引き攣り気味な微笑を浮かべる。
「おい、待て。俺はママになる予定はないぞ」
「はー? 君の腹から生まれるんだから、子供からしたら君がママに決まってるじゃないか」
「……うん。確かに、そうだよな。
 その上、しばらくは君のおっぱいで育つんだから……息子たちの最愛の人は、やっぱり君になるんだろうなあ……」

「は?
 ……おっ……??」

 宮田が、その言葉に大きく反応する。

「……えっ、ちょっ……
 いっ樹さんそれは……っ!」
「あ……ごめん。口滑った。思いきり」
 美容師よりもプライバシー保護意識の薄い副社長ってどうなんだ。
「三崎くん、それマジっっ!!?」
 一気に好奇心満タンになった宮田の眼差しを、俺は必死にガードする。
「自然の摂理なんだからしょーないんだよっ!!
 それにな、自分の身体が作り出す大切な栄養で子供の命を育むなんて、フツーの男にはできない仕事だからな! ふん、ざまーみろだ!!」
 俺はもはや開き直り気味に宮田に噛み付く。


「…………
 そうだな。
 確かに、その通りだ」

 少し口調の変わった宮田の言葉に、俺も神岡も、改めて彼に視線を向けた。


「——大切な人との間に、新しい命が宿る。
 神岡さんも三崎くんも、男だけど……奇跡のように、それが叶った。
 君が妊娠していると神岡さんから聞いた時は、ある意味、ショックだった。
 羨ましい、と思った。
 強烈に。

 僕にも、大切な恋人がいる。
 けど……僕たちがどれだけ愛し合っても、何か形を持って実ることはない。

 大切な相手と、新しい命を育てたい。未来に繋がる何かを、全力で育みたい。
 その人との絆が深まるほど、こういう欲求が強烈に強まっていくものだということを、初めて知ったよ」

 どこか寂しげに微笑む彼の表情に——自分たちがどれだけ恵まれているのかを、改めて思う。


 同性のカップルが、子供を迎え、育てる。
 どんなに願っても、叶えるのは簡単なことではない。
 そして——社会的にも。
 同性カップルが養子として子供を得ることさえ、まだやりにくい世の中なのだ。

 俺たちのこの先にも、そういう目に見えない様々なものが待っているのだろう。
 ——絶対に、負ける気はしないが。


「——あ、そうだ!
 もし叶うなら……無事出産が済んだら、家事・育児手伝いとして、時々神岡家にお邪魔させてもらえませんか? ほら、水曜は僕仕事休みだし」

 宮田は、最高のアイデアを思いついたかのように打って変わってキラキラした笑顔になると、くるっと神岡へ向き直った。

「……へ?」
「ちょ、宮田くん待ってくれ。
 僕のいない時間に、君と柊くんを二人きりにするっていうのは……」
「二人きりじゃないですよ、4人じゃないですかフツーに。
 あ、じゃあその際は僕の恋人も同伴しますから。それならいいでしょう? 実は彼もめちゃくちゃ子供好きなんですよー! うあーーこれはもう今から楽しみだ!!」


「……
 どうしよう、柊くん……?」

 困った、という顔で、神岡が俺を見る。

「…………
 まあ、いい……んじゃないですか?
 俺も負担が楽になって助かる……かもしれないですし。
 それはそれで楽しい……かもしれないですし」

「……
 まあ、君がそう言うならば……」
「わあーーー三崎くん、天使!! 神!!!」
「っていうか、わかってるだろうね宮田くん!?
 彼に万一おかしなことしたら、その時は僕が……!!!」
「だから状況的に無理ですって。神岡さんって、三崎くんのことになるとなりふり構わず牙やら爪やら剥き出しですよねー昔から」
「……」


 そんなこんなで、宮田に半ば力尽くで家事・育児ヘルプボランティアを押し売りされた俺たちである。

 けれど……
 同時に、そのことに何か不思議な安心感を感じていることも、また事実だった。


 子供達が誕生してスタートする、新しい家族の日々。
 それはきっと、楽しいことばかりではないだろう。

 けれど——少なくとも宮田は、俺たちの味方だ。
 奇異の目で見られるよりも、遥かに優しく、暖かい。


 俺は、何となくそんなことを思っていた。