藤堂クリニックへ搬送された翌朝。
 静かな病室のベッドで身体を起こし、俺は大きく一つ息を吸い込んだ。

 プライバシーがしっかりと守れる、病棟内の奥まった個室。
 昨夜、俺はこの部屋に移された。さすが名のある医師の営むクリニックだ。様々な事情を持ち、固くプライバシーを守らなければならない特別な患者を扱う場合は少なくないのだろう。
 まるで自分の部屋のベッドにいるような恵まれた環境に、ほっと気持ちが安らぐ。

 当面は、トイレなど必要な場合を除いて、歩き回ることを禁止されている。
 子宮頸管が短くなっているという今の状況は、まだ未発達な胎児を胎内に維持できない危険が高まっている、という意味だ。未熟な状態で出産せざるを得なくなれば、赤ちゃんの発達に何らかの障害が出る可能性も高くなる。
 そういう事態に陥らないために、今は何が何でも安静を貫かなければならない。

 不意に、ぽこっ、と腹部の内側をノックするような感覚が起こった。
 続いて、まるで内部の壁を小さな両足でキックでもするような連打。
 二つの命が、胎動の痛みに堪えきれないくらい活発に動く。
 もう既に、自分たちのことを声高に主張しているようだ。

「あんまり暴れるなよ……どんだけ元気なんだよお前たちは?」

 お腹に向かって思わず呟き、痛みに耐えつつ変な笑みが漏れる。

 良かった。
 お前たちが、元気で。

 絶対に、守るから。
 元気一杯なお前たちに会うために。

 こうして静かな場所で自分だけの時間を得て、俺は改めて新しい二つの命と真っ直ぐに向き合っていた。

「体調はどうですか? 三崎さん」
 朝のバイタルチェックが済んだ時間に、藤堂が病室へ様子を見にきてくれた。

「はい。おかげさまで、どこも不調はありません」
「なら良かった。今朝のバイタルチェックの結果も安定しているようですね。
 収縮抑制剤の点滴は、今日の午後の様子で継続するかどうか考えましょう。
 とりあえずはしっかり安静を守り、食事や睡眠をきちんととってくださいね。心も体もあまりぎゅうぎゅう追い詰めずに……心配事をあれこれ抱えたりは厳禁ですよ」
「はい、そうします。
 それに、ここにいれば、何をしたくても手も足も出ませんし」
「ははっ。あなたのようなタイプは、こうして入院でもしなきゃゆっくりできないかもしれませんね。
 この際、赤ちゃんたちのためにも一旦全て放り出して、思い切りのんびり過ごしてしまえばいい。現在妊娠23週目だから、できればあと14週程度はお腹で赤ちゃんたちを育ててあげたい期間だしね。
 入院期間などについては、子宮頸管の長さの変化などを見ながら判断することになります。数日か、数ヶ月か……その辺は、今後の状況次第ですね。
 うちはNICU(新生児集中治療室)を備えているので、万一の早産にも万全の対応が可能です。私もスタッフも常についているから、気がかりなことなどは何でも相談してください」
 藤堂は、明確な口調でそう話す。

 こんな風に頼もしい医師が側についていてくれるのは、つくづく心強く、有り難いものだ。それだけで、いろいろなストレスが削ぎ落とされる気がする。

「——本当にありがとうございます。藤堂先生」
「いや。これが私の仕事だ。
 それに、君のような可愛い男子と神岡さんみたいなイケメンの彼から生まれる珠のような双子をうちで取り上げるなんて、まさに夢みたいじゃないか」

 そんなことを言いながら、彼は悪戯っぽい表情で俺にばちっとウインクを投げた。









  そんなこんなで、何となくほっとした安らかさを感じつつ窓の外を眺めていると、ふと病室のドアが静かに開いた。

 振り向くと、両手に大きな紙袋を二つ提げた神岡だった。

「おはよう、柊くん。体調どう?
 うあー、これはまた立派な個室だね」
「あれ、樹さん……どうしたんですか、こんな時間に?」

「ん……
 親父が、今日は早退しろって。で、明日から3日間休暇取れって……社長命令だと言われた。
 君が体調を崩したこと、僕からは何も伝えてなかったんだが……佐伯先生や藤木部長から詳しく聞いたらしい。
 ——しばらくは君の側にいてやれって。
 とりあえず、入院中の着替えとか、暇な時に読む本とかそういうもの持ってきたよ」

 テーブルへ荷物を置いてベッドサイドの椅子に座り、彼はどこか居心地の悪そうな顔をする。

「……
 僕らの子供達が元気に生まれてくることだけを願ってる、と……自分は社長である前に、この子たちのおじいちゃんだと。
 親父、そう言ってた」

「……そうですか。
 有り難いですね。
 俺のことも、こんな風に気遣ってくださって……」

「あー。ほんと僕はいつになっても未熟だ。
 けんか腰になっていいことなんて何一つないのに……親に向かって意固地になったりして、我ながらガキ臭い」

 ふうっと大きなため息をついて天井を仰ぐ彼に、俺は思わずクスッと微笑む。

「むしろ親子だから難しいんですよ、きっと。
 俺だって、父親や母親と何かスムーズに気持ちをやりとりしなきゃいけない場面なんて、ものすごく苦手です」

 そんな俺に、神岡は気持ちを切り替えたような穏やかな表情で告げる。
「……近いうちに、両親にちゃんと伝えに行くよ。
 うちの会社、両親や僕たち、子供達。全員で一緒に、この先のことを考えたい、って。
 大切なことだからこそ、一方的に押し付けたり、敵対していがみ合うんじゃなく……一緒に考えたい。
 そうできれば、全員にとって最善の方法が、必ず見つかるはずだ。
 お互いの思いに見ないふり、知らないふりをしながら日々をうまく回していくなんて、できっこないんだし……第一、そんな関係は悲しすぎる」

「ご両親の前で笑顔を作るのすらぎこちないあなたがそういう気持ちになれたって、すごい進歩ですね?」

「……全く君は、他人事だと思って」

「他人事じゃないですよ、全然。
 ……嬉しいです。

 一緒に進んでいく気持ちを俺たち全員で持てなければ、子供たちの幸せは守ってやれないかもしれないと……俺も、それが不安でしたから。
 おじいちゃんやおばあちゃんと疎遠になるなんて、子供たちはどんなに寂しいか。
 今のあなたの言葉を聞いて、子供達を笑顔で抱いてくれるお義父さんとお義母さんの姿を、やっとイメージできました。
 本当に嬉しいです、俺……」

 かつてたくさんの愛情を俺に注いでくれた祖母の優しい微笑みが、まぶたの奥で不意に重なり……こみ上げる熱いものに、ぐっと言葉が詰まった。

「あー、柊くん! ほらほらそんな風に泣いちゃ! またお腹の子たちが心配するから!!」
「そうですよね。
 なんで最近こんなグズグズなんでしょうね。ほんと困ります」
「んー、その涙脆さ……もしかしたら母性本能の芽生えってやつかな?」

「……うん……確かに、そうかもしれない」
「あれ? 『俺は男ですっ!』って反論するかと思ったのに。あんまり素直だと逆に怖いな」
「ええ。将来的には母性が育って思い切り怖いオニ母ちゃんに成長しますからそのつもりで」

「……え」

「あはは、冗談ですよ。
 ……でも……
 俺の中に母性が生まれたんだとしたら……これは間違いなく喜ぶべきことだなあって……そう思います。
 せっかく子育てをするんだから。
 自分の中に母性があった方が、絶対に幸せな気がします。子どもたちも、自分自身も」

「——やっぱり君は、僕の最愛のひとだ」

「……んっ……
 待っ……樹さん、ここでキスだめですって……!」
「ちょっとだけ——我慢できない」
「ちょっ……んん……っ苦しいっ……!」

 そんなこんなで、病室の空気は気づけば何かふんわりと優しいものに移り変わっていったのだった。









『大島係長。副社長がお呼びです』

 その日の朝。
 副社長秘書の菱木から、大島に内線が入った。

「——……」

 いつもと変わらない受話器の奥の涼やかな声に、大島の身体が一瞬ぎくりと固まる。

『——係長の作成された資料のデータで、一部確認したい点があるとのことです』

「……そうですか。
 わかりました。今行きます」

 呼び出しの内容に、大島の緊張はほっと緩む。

 ——昨日の休憩室で。
 三崎との口論の時は、完全に頭に血がのぼっていた。
 彼の苦しげな様子に、気づくこともできないほどに。

 大島は、ざわざわと騒ぐ不安を何とか落ち着けるために大きく深呼吸する。

 少しずつ、ひたすら努力を重ねて築いたポジションを、たった1日で奪った優秀な部下。
 それだけでも腹が立つのに、いつの間にか副社長のパートナーという地位まで手に入れ、挙句に男が男と行為に及んで妊娠とか……そんなおよそ理解できない理由で、部門内を好きに掻き回し放題だ。

 許せない。
 生理的にも寒気がする。

 ……誰だってそうだろう。

 心のどこかでやり過ぎたと青ざめる自分自身を、必死に否定する。

 約束した通り、三崎は副社長に昨日の口論の件を話してはいないのだろう。
 でなければ、今朝の呼び出しの内容は間違いなく、その件に関してになるはずだ。
 彼が自分から、口外はしないと約束したのだ。
 この件が、このまま誰にも漏れなければ——

 そんな薄暗い思考の渦を抱えながら、大島は神経質な足取りで副社長室へと向かった。


「——失礼いたします」

「大島係長。
 お待ちしておりました」

 ドアを入ると、菱木がパソコンから視線を上げ、いつものように美しく微笑む。

「——こちらへどうぞ」

 菱木にいざなわれて入室した副社長室には、神岡の姿はない。

「……あの、菱木さん?
 副社長は……」

「副社長は、不在です。
 三崎さんの入院される病院へ向かうため、先程お帰りになられました。

 ——あなたをお呼びしたのは、私です」

 静かに振り返ると、菱木は唖然とする大島へ鋭い眼差しを向けた。