目を覚ますと、ベッドサイドに神岡がいた。
 腕には、点滴が繋がれている。


 ……そうだ。
 ここ、藤堂クリニックだった……。

 さっき眠ってしまってから、どれくらい経ったのだろう。
 彼が、いつからここにいてくれたのか……
 まだなんとなくぼーっとした頭で考える。


 俺が目覚めたことに気づいた神岡は、強張った表情をわずかに緩めて微笑んだ。

「……藤堂先生から、説明聞いたよ。
 しばらくは絶対安静だし、油断はできないが、目下のところ君にも赤ちゃんにも重大な危険はない、と。

 出先で会社から連絡を受けた時は、心臓が止まるかと思ったけど……
 ——命に関わる状況にならなくて、よかった。本当に」

 神岡の瞳が、思わず潤んだ。

 彼が、側にいる。
 その安らかさに包まれて初めて、自分が今までどれだけの恐怖の中にいたかを、俺は改めて強烈に感じた。


「——ゆっくり休むといい」

 俺の手を取り、両手で包むように握ると、彼は優しく微笑む。
 その眼差しと、少し震えるような声に——不意に、熱いものが俺の胸にぐっとこみ上げた。

 ……ああ、だめだ。
 衝動を堪える間もないまま、胸の熱は一気に涙になって湧き上がり、溢れた。


「——すみませんでした。
 心配かけて……」


「謝って欲しいんじゃない。
 ——ただ……
 君が無事で……」


 そこで言葉が途切れ……
 神岡は、慌てたようにぐるりと背を向けた。


 止められない涙をなんとかしようと揺れる、少年のようなその肩に——
 俺の涙も、これでもかというほどに溢れては頬を伝い落ちた。









 涙が止まり、お互いの気持ちも少し落ち着いた頃、彼が小さく呟いた。

「君が休憩室で苦しげにしているのを見つけた時、設計部の大島係長が君と一緒だったと、菱木さんに聞いたんだ。
 彼、呆然としたように側に立ってて……菱木さんの声に、我に返ったような顔をしていた、って。
 普通はそんな状況にはならないはずだろうと……彼女、それが不自然に感じたらしい」

 何か危険な場所にでも足を踏み入れるかのように、彼は複雑な表情を俺に向ける。


「柊くん……
 もしかして……大島係長と、何かあった?」


「…………
 いえ」

 俺は、何となく俯いてそう返した。

 このことは、神岡には話さない……大島にも、そう伝えたのだ。


「——柊くん。
 これまでは、僕は大抵のことは君の気持ちを優先してきた。
 無理やり何かを強制するのは、良い方向へは決して進まないだろうと思ったからだ。

 けれど……
 今回は、話は別だ。

 今は——君と、お腹の子供たちの命がかかっている。
 君をこんな風に危険に陥れるその要因を、放置するわけにはいかない。絶対に」

 俺を見つめる彼の瞳に、恐ろしいほどの強い力が篭る。

 その真剣な眼差しを、もはやごまかすことも、躱すこともできなかった。


 俺は、一つ深く息を吸い込んだ。

「……ならば……
 これからする話は……あなたの胸の中だけに、収めておいてもらえますか……?
 ——お願いします」


 俺の言葉に、彼はしばらく深く考え込むようにしてから、顔を上げた。

「……わかった。約束する」


 俺は、今日休憩室であったことを、全て彼に打ち明けた。



 話を全て聴き終えると、神岡はぐっと顔を俯けた。
 激しい痛みを堪えるような空気が、その肩から滲み出す。


「…………
 柊くん、ごめん。

 君が置かれている環境の厳しさを、僕はもっとちゃんと知っておくべきだった。
 毎日の忙しさにかまけて、君のことを守らなければならないという心構えが、僕はしっかり持てていなかった。

 ——気づいてやれなくて、悪かった。
 許してくれ」

「いいえ。
 むしろ、そういうのは嫌です」
 俺は、真っ直ぐに顔を上げて彼を見つめる。

「俺も、男ですから。
 あなたの後ろに隠れてプルプル縮こまってるなんて、真っ平です。
 自分に起きた問題は、自分で向き合いたい……できる限り。

 けれど……そんな態度ばかりではいけないと、今日は文字通り痛いほど身にしみました。
 これからは、逃げるべき場面では、真っ先に逃げようと思います。子供達のために。
 ——何がどうであろうと、なりふり構わず」

 はっきりとそう伝える俺に、彼は初めてほっとしたような表情を見せた。

「一旦そう決めたら、君は簡単には揺らがない。
 それを、僕はよく知ってる。
 ……君からそういう言葉を聞けて、安心した」

「今は、自分自身の気持ちよりも優先しなければならないものがある。
 藤堂先生の仰ったその言葉の意味が、やっと脳の奥まで染み込んだ気がします。
強情っぱりでダメですね男って」
「うーん、男だからっていうよりも……君の強情さはとにかくてっぺんきりの筋金入りだよ」
「え、そんなことは……んむむ……ありますかね」


 そこでやっと、俺たちは頬の強張りをほどいて小さく笑い合った。









「副社長、おはようございます」
「おはよう、菱木さん」

 柊が病院へ搬送された翌朝。
 いつもの挨拶の後、さくらは酷く不安げな表情を隠しきれずに樹を見つめた。

「——……」

「……
 三崎くんのことだよね?」

 その様子を察した樹は、さくらに穏やかに微笑んだ。

「申し訳ありません……
 ずっと、心配でたまらなくて……」

「大丈夫だよ。
 油断はできない状況だけど、しっかり安静を保てば、現段階では赤ちゃんも三崎くんも大きな心配はないと、医師から説明された。
 ——ただ、しばらく入院することにはなりそうだけどね」

「……そうですか……
 とりあえず、良かったです……本当に良かった……」

 樹の言葉に、さくらは思わず瞳を潤ませ、心からほっとしたような笑顔を浮かべた。

「それから……
 昨日休憩室で、三崎さんと大島さんの間で何かあったんじゃないかと、それもずっと気になっていたのですが……
 三崎さんは、それについては何か……?」

 さくらが続けたそんな問いかけに、樹はどこか苦い表情で微かに視線を逸らす。


「…………
 僕が、もっと彼の周囲のことに気を配っていれば……
 世間の目というのは、思った以上に偏見に満ちているものだな……

 菱木さん、申し訳ない。あまり詳しくは話せないんだ。三崎くんから口止めされてしまっているのでね」


「……そうですか」

 さくらも、小さく俯いて無意識に拳を握る。


 心に生まれた激しい何かに突き動かされ、床を見つめる自分の瞳に思わず強い力が篭るのを、さくらは感じていた。









『副社長。社長から内線です。すぐに社長室へ来るようにとのことです』

 そんな会話の後。
 始業後10分も経たないうちに、樹はさくらからそんな連絡を受けた。


「……わかった。すぐ行くと伝えてくれ」

 樹は、どこか身構えるような思いでそう答える。
 実家には、昨日のことも柊の入院のことも、伝えていない。

 バーベキューの夜に中断した会社の後継者の件も、あれ以来互いに触れないままになっている。

 ギクシャクと硬直したようになっている両親との関係を動かすきっかけも見つからず……今回の件を、こちらから逐一報告する気にはなれなかった。


 これからどういう話をされようと、自分は、ただ柊と子供達を守るだけだ。
 そう思いながら、樹はぐっと背筋を伸ばして社長室へと向かった。


「失礼します」
「おう樹、来たか」

 父親の充は、入室した樹にいつもと変わらぬ表情でデスクから顔を上げた。

「……どのようなご用件でしょう、社長」

「樹。
 お前、今日はもう帰りなさい。
 それから、明日から3日間、休暇を取れ。
 これは社長命令だ」

「……は?」

「は?じゃない。
 柊くんのことだ。
 ……佐伯先生と設計部長から、詳しい話は聞いた。
 ——こんな重要な件を、なぜ外部の者経由で聞かなければならんのだ」

 充は、そこに来て初めてギロリと樹を見る。


「…………
 申し訳ありません」

「突っ込んだ話は、また改めてだ」

 そう言いながら、充は改めて樹に真剣な表情を向けた。


「……樹。
 私は、この会社の社長である前に——お前と柊くんの父親であり、お腹にいる子たちのおじいちゃんだ。
 麗子も、私と全く同じ気持ちでいる。
 お前たちの子が、元気に生まれてくることを……今は、それだけを祈っている。
 そのことだけは、知っておいて欲しい。

 ——とにかく、すぐに帰りなさい。
 今はできる限り柊くんの側にいてやれ」


「…………父さん……
 ……ありがとうございます」


 充の温かい声に、樹は思わず胸の詰まる思いでぐっと頭を下げた。