「————
 それから、もう一つ……」

 神岡は、ぐっと喉に物が詰まるような苦しげな表情で、口を開いた。

「——生まれてくるこの子達に、うちの会社を引き継がせる……そういう足枷を、僕たちは親として、はめたくないと思ってる。
 自分自身の将来を自由に叶えられない人生から、二人を解放してやりたい。
 ——そう思ってるんだ」

 喜びの満ち始めたその場の空気が、再び固く、険しく移り変わっていくことを感じる。

 いきなり鋭い針でも突き刺さったかのように、義父の表情がざわざわと騒いだ。

「…………樹。
 この件は、それほど簡単に考えていい話ではない。

 お前が今口にしていることが、どれほどの重さを持つことか——お前も、よく分かっているはずだ」

「——わかっています。
 だから、こうして今日、二人にきちんとこの話をしに来たんです」

 義父を真正面から見据え、神岡ははっきりとそう返す。

「——お前が今立っている場所は……それほどに不幸か?
 お前が神岡家の跡継ぎに生まれたからこそ叶ったことが、これまでにどれほどあったか——お前は、そのことに気づいているか?」

「————
 全く同じ言葉を返してもいいでしょうか、父さん?
 この家に生まれたことで、これまでに僕が何を諦め、何を手放してきたか——あなたは、何一つ知らないでしょう?」

 義父の厳格な表情へ向けて、神岡は低く呻くように訴える。

 その言葉の裏にある、彼の経験してきた苦痛に——俺の胸も、思わずぐっと詰まる。


 両親の気づかぬところで……二人に気づかれることのないよう、彼が必死に自分だけの中に抱え、耐え続けてきたこと。
 ——この場で、どれだけそれをぶちまけてしまいたいことだろう。

 けれど。
 過去に味わった苦しみの話など、彼が両親に洗いざらい打ち明けるはずなどない。
 俺がいるこの状況で、昔愛していた恋人の話など、するはずがないのだ……この人が。

 ————それならば。

「……お義父さん、お義母さん。
 樹さんは——
  彼は——最愛の人を、過去に失っています。
 絶対に手放したくなかったはずの、同性の恋人を」

 唐突に口を開いた俺に、神岡は驚きと動揺の入り混じった顔で横の俺を見る。

「柊くん——
 そんなこと、君が話さなくても——」
「いいえ。
 あなたよりも、きっと俺の方がちゃんと話せます。
 だから……
 俺から言わせてください」

「……最愛の……同性の恋人を、失った……?
 樹が、うちの後継者……だったからか?」

 義父も義母も、新たな動揺を隠しきれない眼差しで、俺を見つめる。

「そうです。
 大学時代のことだと——彼から聞きました。
 その人は、優しく美しくて……彼がそれまでで最も深く愛した相手でした。
 けれど……
 彼が神岡工務店の後継者と知って——その人は、静かに、そして頑なに、彼から遠ざかっていきました。
 いずれ社会の表側に立つことになる彼のそばに寄り添い続けることなどできるはずがない、と。

 将来のために、大切な人と結んだ糸を断ち切らなければならない。
 しかも、自分の立場をなかなか明かすことができず、そのために恋人を一層深く傷つける結果を招き……
 ——その苦しみは、一体どれほどだったか……
 ……これ以上の苦痛が、人生にあるでしょうか」

 気づけば俺は、自分の中の痛みを吐き出すように、二人に向かってそう訴えていた。

「俺が出会ったばかりの樹さんは……自分自身の硬い壁に閉じこもって、ただ無表情で日々を彷徨っているように、俺には感じられました。
 憧れた職業も、大切な人も諦め——まるで、幸せに手を伸ばすことを諦めてしまったかのように」

 堰を切ったように流れ出した俺の言葉を、両親はじっと何かを考えるように黙って聞いていた。

 重い沈黙が、しばらく続いた。

「…………樹。
 柊ちゃんの言ったことは……全て、間違いないの?」

 何とか言葉を探すように、義母はどこか呆然とした眼差しで神岡を見つめる。

「————
 柊の言った通りだよ、母さん。

 この家で育ったことが不幸だったとか、そんなことを言っているんじゃない。
 僕は、何一つ不足のない、満ち足りた環境にいた。父さんと母さんに、どれだけたくさんの幸せをもらったか——そのことは、心から感謝してる。
 これは本当だよ。
 でも——
 これまでの自分の人生に、自由がなかった。その残酷な苦しさや辛さを味わってきたことも、本当なんだ」

 神岡は、苦しげな表情を何とか押し隠そうとしながら、そう呟いた。

「——樹。
 お前が、ある時からどんどん変わっていったことは……私にもはっきりと感じられたよ」

 義父が、自分自身の思いを確認するようにしながら、静かに口を開いた。

「生き生きとした明るい笑顔や、あからさまな焦り、苛立ち……
 仕事中にも、お前にそんな表情が垣間見えるようになって……私は不思議に思いつつも、とても嬉しかった。
 そして、お前が私に向かいはっきりと柊くんの存在を告げ、恋人として認めるよう迫った時には、まさに度肝を抜かれた。唖然とし、甚だ動揺したが……それと同時に、大きな喜びを感じた。
 私に盾を突いてでも自分の望みを勝ち取ろうとする力強いお前の意欲を目の当たりにして、思わずガッツポーズが出たよ。
 それは、それまでのお前からは一切感じることができず——そして、私たちがお前に望んでいた、最も重要なものだった。

 私たちが気づけなかった苦しみを理解し、前向きに支えてくれる存在を得たことが、お前を変えたのだと——柊くんに会ってみて、初めて気づかされた。
 自分の望みを叶えることが、これほどまでに人間を幸せにする……それを、私はお前たちから教えられたんだ。

 今、柊くんから聞かされたことに、改めて愕然とした。
 お前が独りきりで抱えてきた重圧を、私たちが理解してやれなかったことは、親として取り返しのつかない重大な失敗だ。
 どうか、許して欲しい」

 そう言うと、義父は真剣な眼差しで神岡をまっすぐに見つめた。

 神岡の心の変化を、義父はしっかりと感じ取ってくれていた。
 そして、自分の人生を自由に選ぶ大切さも、今の彼は恐らく充分理解してくれている。
 そのことに、大きく暖かい感覚が俺の胸に広がった。


「————だが」

 安堵の息が思わず漏れそうになった瞬間、義父の静かな声が続く。

「……それでも、この話は『じゃあそうしよう』と安易に決定できることではない。

 これほど大きく育った組織を手放すということの意味を……
 それによって手放すものの大きさも、考えるべきではないか?

 そのことを、将来お前の息子たちがどう思うか……
 その決定が彼らを落胆させる可能性は、考えないのか?」

 義父は、固く複雑な表情で、そう話す。
 なんとか上手く説得して俺たちの主張を都合良く丸め込もうとする言葉でないことは、明らかに伝わってくる。

「——————」

 重い緊張が、空気に漲る。

 ——不意に、ふわりと視界が揺らいだ。

「————……」

 椅子から落ちそうな恐怖に、思わずテーブルにガタリと手をついた。

「————柊……!?」

 神岡が咄嗟に腕を伸ばし、俺の肩を支える。

「…………大丈夫です。
 少し目眩がしただけなので……」

「柊くん……大丈夫か!?
 麗子、水を……!」
「ええ、今持ってくるわ!」
 義母もだっと席を立つ。

「————済みません。
 今日は、これで帰ります。
 ……この話は、また」

 義母の渡してくれた水を口にする俺を抱き寄せ、彼は青ざめた表情で呟く。

「……柊くん、立てる?」
「大丈夫です……もう落ち着きました。
 お義父さん、お義母さん、済みません……ご心配かけて」
「——じゃ、行こう。
 僕の腕をしっかり掴んで」

「…………柊ちゃん……」

「母さん、大丈夫だよ。
 心配しないで」

「…………」

 その先に続ける言葉を、お互いに見つけられないかのように——
 俺の肩を支えながら、彼は静かに玄関のドアを閉めた。