9月初旬の、土曜の夜。
 皿洗いを終えた俺は、キッチンの椅子に座ると、自分の腹部をさすりつつ改めてじっと見つめた。

 ここ数日、腹囲がどんどん大きくなっていることを感じる。
 ここにきて、赤ちゃんたちはまさにすごい勢いで育っているようだ。


 藤堂の言葉通り、男の骨格は女性より大きく、身長もあるため、膨張は女性に比較して多少は穏やかなのかもしれない。
 けれど、これまでは何とかかんとかごまかしてきたお腹の膨らみも、最早簡単には隠せない状況になってきた。

「ふうーー……」
 そのまま、なんとなく頬杖をつく。

 色々な問題が新たにどさっと自分の目の前に積まれた重たさが、リアルにやってくる。

 例えば、職場。
 これから一層膨らんでいくお腹の理由、言わないわけにいかないだろ絶対。
 だからと言って、女の子みたいに「うふっ、妊娠しました♪」で済む話じゃない。

 病気休暇などを申請して休職するにしたって、診断書が必要だ。藤堂クリニックで証明してもらったとしても、「多胎児妊娠による母体の保護のため」とか書かれた日には……結局、同じ結果が待っている。


 頬杖のつもりだった掌が、気付けば憂鬱に額を覆っている。

「……やばい。考えれば考えるほどドツボにはまる……」


 わかっている。
 元々自分が望んだ妊娠なのだ。今更こんなところでぐずぐずと悩むのはおかしい。

 だが……
 何だろう、この煩わしさは。


 男だって、妊娠できると言われたら、妊娠を選択してもいいはずだ。
 新たな命を、自分の中に宿したい。そう願ってもいいはずだ。
 少しも後ろめたいことなどない。

 そう胸を張りたい気持ちをぺちゃんこに押し潰そうとする、目に見えない何か。

 ——それは、大勢の人の目。
 さまざまな偏見。


 人間は、無言のまま向けられるそういうものに、とんでもない恐怖を感じる生き物だ。
 間違いでないはずの物事も、人々の共感を得られず、眉を顰められれば、それは結局「あってはいけないもの」のように扱われる。
 そして、一度そういう意識が出来上がってしまうと、人間の心は容易にその見方を変えることができない。


「——負けるか。そんなものに」

 絶対に、負けない。
 自分の選んだものは間違いないという自信。それだけは、決して手放さない。
 何があっても。

 俺は、自分自身にはっきりとそう呟いた。









 俺が、密かにそんなことを心に誓った翌日、日曜の夕方。
 スマホの通話を切ってリビングのソファにどさりと座り、髪を乱暴にかき上げると、神岡は大きなため息をついた。

「はあぁーーー……この上なく憂鬱だ。
 今、実家に連絡したんだ。今度の土曜に二人で行くって。
 そしたら、久しぶりにみんなでバーベキューでもしないかって親父が。
 ……みんなでワイワイ肉を焼く気分じゃないんだけどなあー全然……」

 二人分のミルクティをテーブルへ運び、俺もため息交じりにその向かい側へ座る。
 最近は、アルコール禁止の俺に合わせ、彼も薄めに入れたホットの紅茶や緑茶に付き合ってくれるようになった。

「まあ、そうですよね……でも、あえてここで食事の内容に異議を申し立てるのもどうかと思うし……」
「全く、なぜこういうタイミングでバーベキューかなーよりによって……はぁ」


 俺たちが、神岡の実家でのバーベキューをこれほどまでに楽しむ気になれない理由。
 それはもちろん、今回の訪問が、神岡の両親への例の件の報告という甚だストレスフルな大仕事を含んだものだからだ。

 ——俺が現在妊娠中であることと、お腹の子が男の子の双子であること。
 どう考えても、みんなでワイワイ笑っていられる内容ではない。

「うぐぐ……今から胃がキリキリしてきそうだ……
 こうなると、大らかで寛容な君のご両親とバーベキューしたほうが遥かに楽しいだろうね、間違いなく」
「まあ、うちの両親も相当な変わり者ですから……って、お義父さんもお義母さんも、そんなに頑固で厳しいキャラですか? あんまりそんな感じしませんけど」

 ミルクティのマグカップを手にして、彼は憂鬱そうに呟く。
「んー、実は相当にね。
 普段はさほどでもないが、特に会社の経営に関することとなると二人とも相当にタイトだし、何かにつけて厳しい反応になる。……まあ、ウチもこれだけ大企業に育ってしまったし、そうならざるを得ないのもわかる。
 けど、今回については、僕たちだって簡単に二人の言いなりになるわけにはいかない」 

 俺たちに息子が生まれるならば、神岡家の跡継ぎに社長の席を引き継がせるという神岡工務店の方針を、両親は当然俺たちに提示してくるだろう。
 彼が俺をパートナーに選んだ段階で、二人とも止むを得ず諦めていたことだろうから……思いもよらぬ後継者の誕生に、両親のその希望は一層強まるに違いない。
 子供達には、自由に人生を選ばせたい。何にも縛られることなく。
 両親と対立することが、俺たちにとってどれほど重圧になるか。それを承知の上で、親として子供達を守りたい気持ちは、やはり少しも変わらない。

「そうですね……子供達の人生を大きく左右する話ですから……
 でも、そういう重苦しい話だからこそ、明るい笑顔で切り出さなきゃならないのかもしれませんね。戦闘モード全開にして話がうまく運ぶわけありませんし」

 自分たちが選び取ろうとしている道は、間違っていない。 
 昨夜自分自身に言い聞かせたあの言葉で、なんだかいろいろ腹が座ったらしい。
 自然に浮かんだ穏やかな思いを、俺は神岡に伝えた。

「……うん、確かにそうだよな。
 最初から敵意剥き出しの空気出してちゃ、相手も身構えるのは当然だもんな。
 こんな風に、僕は君に言われてはっと気づくことだらけだ」
 表情をふっと和らげ、彼はやっとカップに静かに口をつける。

「それにしても、君はいつもブレないね。
 僕はつい感情が先に立ってしまって失敗する。その度に後悔するのに、悪い癖ってのはなかなか直らない。
 その冷静さ、見習わなきゃな」
「冷静じゃないですよ全然。昨日も俺がキッチンで頭抱えてたの、樹さん気づかなかったでしょ?
 ……ただ、あなたの困り顔を見ると、俺も一緒に困ってちゃダメじゃん!って変なパワーが出るんですよね」
「……え?
 それはつまり、僕の困り顔が君のパワーの源ってこと?」
 彼は複雑な顔をしてそんなことを言う。
「まあそうですね」
 俺はクスクスと返す。

「……なんて、冗談です。
 でも——あなたを元気づけて、俺自身も前を向きたい。
 誰かを励ますって、自分自身にも明るい力が湧くものなんだって……あなたとこうして一緒に過ごして、初めて知りました」

 そんな俺を、優しい眼差しで見つめ——彼は柔らかく微笑んだ。
「……なるほどな。
 大人になったつもりでも、僕たちはまだまだ初めて知ることばかりなのかもしれないね」

「ええ、多分。俺もあなたも、まだまだ成長途中で。
 そして、これから生まれてくる子たちにも、きっとたくさんのことを教えられて……
 ……うぐ……」

「……柊くん?
 どうしたの? どこか苦しい!?」

 突然俺の発した変な唸りに、彼は顔色を変えてわたわたと慌てる。


「いえ、大丈夫です。
 最近、お腹の子たちが動き始めたみたいで。ちょっと内臓に違和感を感じるというか……グリグリするんですよね」

「……そうなのか……?」

 そうなのだ。
 小さい命の、小さな胎動が始まった。
 手なのか、足なのか、よくわからないが……ポコっとパンチされるような、ぐっとキックされるような……
 初めて経験する、たまらなく愛おしい感覚。

「多分、そのうち外側から触れても動きがわかると思います」

「そうか……そうなんだな。
 本当に、君の中で二つの命がどんどん成長してるんだね。
 それに、だいぶ張り出してきたね、お腹周り」

「ええ。
 ——これ以上は、もう隠すこともできないし。
 お義父さんお義母さんだけでなく、これからもっとたくさんの人たちに、このことを報告しなきゃいけませんね」


 俺のそんな言葉に、神岡は一瞬緊張した表情になり、ぐっと息を詰めた。

「…………大丈夫だ。
 君は、僕が守る。どんなことがあっても」

「俺もです。
 絶対に負けません。何があっても。
 あなたと子供達を守るためなら、なんでもできます」

「——うん。
 僕たちさえ壊れなければ、何も怖くない。
 お互いの隣さえ温かければ、外は嵐だろうが吹雪だろうが乗り越えられる」


 ここから待ち受けるものの大きさを思うと、思わず息を飲む。
 けれど、そういう困難に真正面から向き合った末に得られる、かけがえのないものがある。
 間違いなく。

「本当は景気良くワインでも開けたいとこですが……すみません」
「いいよ、そんなの。ミルクティだってその気になれば酔える」
「うーんそれはないでしょ、さすがに」

 小さく笑い合い、俺たちは冷めかけたミルクティを啜った。