「うう……まじで死ぬ……」

 6月の半ば、土曜の夕方。
 俺は、つわりの真っ只中をさまよい、ベッドにぐったりと横たわっていた。


 平均的に1、2ヶ月は続くらしい、このムカムカと吐き気。これがあとひと月も続くなんて……信じられない。本当に勘弁して欲しい。
 ただ、この「妊娠」という事実を会社へ報告するのは、この初期段階では時期尚早に思える。第一、そんな大胆な行動に出る心の準備がまだ整うはずもない。ここは体調不良を何とか誤魔化して乗り切ってしまいたい。

 この前は、日々やつれていく俺の様子に、藤木設計部長が心配そうに声をかけてくれた。
「三崎くん、体調悪そうだね最近……ちょっと仕事頑張りすぎじゃないのか?」
「え……いえ、ただちょっとここのところ胃の調子悪くて……」
「うーん、それは君、明らかにストレスだよ。
 人間とにかく健康第一だからね、あんまり無理はしちゃダメだ。体調悪い時はちゃんと休みなさい」
「……ありがとうございます……」
 仕事熱心というか……ぶっちゃけ妊娠初期なんです。部長、ごめんなさい。

 藤堂の話では、双子の場合だとつわりも強く出る場合があるのだそうだ。なるほど、どおりで辛い。最近は、もはやゼリータイプの栄養補助食品を力なく啜るのが精一杯だ。
 こんなに食べられなくて、お腹の赤ちゃんは大丈夫なのか?と心配になるが、妊娠初期の胎児は、受精卵から作られる「卵黄嚢」というものから栄養を得ているから心配ないのだという。なかなか勉強になる。

 ……そういや、自分の母親は、俺を生むときどうだったんだろう? やっぱりこんな風にぐったりしつつ苦しさに耐えたのだろうか?
 世のお母さんは、やっぱりつくづく偉い。本当に。親にはやはり感謝せねばならない。


 ……っていうか。
 ずーっと、先延ばしにしてきたけど。
 その辺も、マジで考えなきゃなんないとこだろ、俺。
 その、つまり……「両親に報告」ってやつだ。


 両親とも売れっ子の建築デザイナーであり、とにかく自分たちの仕事で一年中あちこちを飛び回り、ほぼ手一杯だ。社会人として元気に働いているであろう息子の細かなことなど、気にかけたりしない親である。

 とは言え……
 順調に行けば、そう遠くない未来、自分に子供が生まれる予定なのだ。ここまできたら、うやむやにしたままにはできない。


「……はあ。どうしよ……」
 俺は、寝返りもだるい体をわずかにもぞりと動かす。

 ……だって。
 普通に考えて、ため息も出る。
 
 ある日息子が紹介したいと連れてきた恋人が、超イケメンの同性であって。
 それが、かの一流住宅メーカー・神岡工務店の副社長で。
 現在その彼との子を身ごもっている。しかも双子を。
 
 そういう事実を、息子から報告されるわけだ。
 息子からだぞ?
 どうなんだ両親??


 そこまで考えると、俺の思考には勝手に急ブレーキがかかり、頑として先に進まない。

「…………あーー。
 実際俺自身、この現実にまだ微妙に混乱してるし……」
 結局、俺はいつものようにガシガシと頭を抱える。

 まあ、神岡を恋人として紹介するところくらいまでは、割と大丈夫な気もする。「息子よ、どんだけ玉の輿なんだ!?」と盛り上がる、そういうノリで。
 しかし……さすがに、妊娠ってのは。

 いや、偶然妊娠できる身体だったんだから、ごく自然な流れだ。いいじゃないか別に妊娠してても。
 何も後ろめたいことなどない。むしろ、この上なくめでたい。

 だが……だがしかし、俺は息子なんだって!!
 理論上間違っていないとしても、現実を受け止める段階でそのことは何の役にも立たない。
 それを聞いたうちの親が、一体どんなリアクションをするのか……。マジで想像できないし、マジで怖い。


「ふー……」

 怠さと憂鬱さに、俺はまたひとつ大きなため息をつく。


「柊くん、起きてる?……気分どう?」

 その時、部屋のドアを静かに開けて、神岡がそっと顔を出した。

「あ……大丈夫です。相変わらずムカつきは全く取れませんが」
 俺はベッドに起き上がり、脳内を占める憂鬱な思いをなんとか引っ込めて答えた。

「……辛そうだね」
 ベッドサイドに来て腰を下ろし、温かさの中に心配そうな色を漂わす瞳で、神岡は俺をじっと見つめる。

 平日は彼も相当に忙しく、なかなかこうやってすぐ隣に座って話すこともできない。
 しかも、俺の具合がこんな風だから、最近は週末もまともに彼と触れ合えずにいた。


「……すみません」

 この人のことだ。きっとどんなに忙しくても、ずっと俺のことを気にかけていてくれるのだろう。
 そんないたたまれない思いに、俺はなんとなく俯き、小さく呟く。


「柊くん」

 そんな俺の頬に彼の指が触れ、優しくなぞられた。
 視線を引き戻されるように見上げた彼の瞳が、温かな熱を持って俺を捉える。


「こういう時、謝ったりしないでくれ」

「…………」

「謝りたいのは、君に何一つ手を貸してやれない僕の方だ」

「…………ごめんなさい」
「ほら、謝らない」
 そう囁き、彼がクスッと笑う。


 なんだかたまらない気持ちになり、俺は彼の首に腕を回す。
 夕方のホワイトムスクの甘い香りと、温かな彼の体温が、無性に欲しかった。

 彼はそんな俺の額から瞼に優しいキスを降らす。
 俺の苦しみを労わる彼の気持ちが、その感触からありありと伝わる。
 俺は、指に絡む彼の柔らかな髪の感触を存分に味わう。


「君の苦しさを分けてもらうことができたら——どんなにいいだろう」

 耳元で、彼の吐息が囁く。

「ダメですよ、大企業の副社長がつわりなんて」
 俺は、なんだかおかしくてくすくす笑いながら囁き返す。


「出産までの辛さを、君だけに味わわせるなんて——考えただけで、胸が苦しい」

「…………
 あなたがそう思ってくれるだけで、俺の苦しさは軽くなります。嘘みたいに」


「全く君は」

 キスを解き、彼は優しく俺を見下ろす。
「つわりが治まったら……君にいっぱい美味しいものを食べさせて、その君を、僕が食べる。もちろん、お腹の子たちを驚かせないレベルでね。
 ——いいだろ?」

「……待ってます。首を長くして」

 俺のそんな答えに、神岡の肩が微かにふるりと震えた。


「……まずい。そろそろ僕のブレーキが限界だ。
 さあ夕食の支度だ。柊くん、何か食べられそう?」
「——薄い野菜スープと、あなたが食べたい」
「うあ、頼むっ! もうストップ!
 これ以上僕を煽らないでくれ!!」
 俺の囁きに、彼はなんとも切羽詰まった苦しげな顔をする。

「冗談です。……俺も、できること手伝います」
 そんな風にくすくすと笑い合い、二人で夕暮れの寝室のドアを閉めた。







「じゃあ、いただきます!」
 神岡は、自分用にチキンソテーとサラダ、スープにバゲット、ワインというなんともあっさりした夕食を用意した。
 俺の最近の体調を考え、彼も脂っこさや強い匂いなどを避けたメニューを選んでくれているようだ。米を炊く匂いなんかも、なぜか一気に吐き気を呼び起こされて今の俺にはダメなのである。
 そして俺の前には、優しい味わいの野菜のスープ。この匂いには、いつもほっと癒される。
 俺のダンナ、ほんとまじで世界一。


 そんな夕食のテーブルで、俺はずっと言えずにいたことを神岡に切り出すべきか、大いに迷っていた。
 さっき頭の中にいっぱいになっていた、例の件だ。

「…………」
 もたもたと迷っていても、憂鬱な思いが長引くだけだ。
 俺はその話を切り出そうと、迷いを振りきって息を吸い込んだ。


「……近いうちに、君のご両親のところへご挨拶に行こう。柊くん」

 俺の一言目が口から出る寸前に、神岡がそう言った。
 俺が言おうとしていたのと、全く同じことを。


「————」

「こういう大切なことが、こんなふうに遅くなってしまって、済まなかった。
 君に、何と切り出そうかと……ずっと迷っていた」

 そうして彼は、驚きで固まった俺の目をまっすぐに見つめる。

「君が、僕の恋人になってくれたこと。
 これからも、ずっと僕の隣を歩きたいと言ってくれたこと。
 こんな幸せを手にしながら……何か、区切りみたいなものを掴むタイミングが、今までわからなかったんだ。

 けれど——今は、僕たち二人の想いが、はっきり形になろうとしている。
 今が、きっとそのタイミングだ。
 僕たちが、こうして正真正銘の幸せの中にいることを、ご両親にちゃんと報告しよう」


 もしかしたら、彼は——
 ずっと前から、そのことを真剣に考えていてくれたのかもしれない。
 そんな気がした。

「…………俺も、今ちょうど、同じ話をしようかと思ってたところでした。
 ——すごく嬉しいです。
 あなたから、そう言ってもらえて」

 俺の言葉に、彼はどこか照れ臭そうな顔をしつつ、はあっと一つ大きなため息をつく。

「いや……でも、そうなると急速に緊張してくるね……心臓がなんかもうヤバい……
『息子さんを僕にください!』なんだろうかやっぱり……っていうか、できちゃった婚だよなコレ順番的に……んーなんだかワインが足りなくなってきた……!!」

 ここに来て俄かに動揺を見せる神岡が、やたらに愛おしくて……憂鬱や不安よりも、俺はなんだか強気に彼を支えたくなる。

「大丈夫ですよ、絶対。
『何と反対されても俺はこの人についていくし、子供たちの立派な父親になってみせるっ!!』って両親にはっきり宣言しますから……ってか、俺父親でいいのかな」
「んー、どうなのかな……ママって訳にはいかないだろうな……あーそうじゃなくって! 親子ゲンカはまずいよ柊くんっ」
「あはは、ケンカじゃないですって、説得です」

「……うん、そうだよな。
 考えれば考えるほどクリアすべき問題が山積みでちょっと怖いけど、何とか乗り越えるしかないよな……
 ——それから、もうひとつ……」
「もうひとつ?」

「……ん……
 うちの実家の方にも、報告しなきゃいけないな……とね」

 今までとはまた違う緊張感を漂わせた神岡の表情が少し気になって、俺は彼の顔を見つめた。


「いや。君が僕のパートナーになってくれたことを、両親とも心底喜んでる。その上にこの報告したらどんな顔するかなって、ちょっと想像してた。
 とにかく、これからいろいろ忙しくなりそうだ」

 神岡は、何か空気を切り替えるように明るく微笑んだ。