大晦日の夜、9時30分。
 仕事を終えた宮田が部屋に帰宅した。美容師はこういうイベントシーズンが忙しい。
「お帰りなさい」
 先に鍵を開けて入っていた須和が、キッチンからそう声をかける。
 同時に、ふわりと温かな出汁の香りが宮田の鼻をくすぐった。

「……」
 なんと言葉を発していいかわからないまま、宮田はキッチンへ向かう。
「暇だったんで、アバウトに掃除して蕎麦つゆ作ってました」
 特に振り向くことなく、コンロの前に立つ背中が声だけを寄越した。
「蕎麦つゆ……」
「年越し蕎麦用です」
 キッチンのテーブルを見れば、生蕎麦のパックやネギなどが買ってある。
「あー……うん、とりあえずひとりで年越し蕎麦って気にもならなくてさ。そういや何も買ってなかったよな、ごめん」
「——ひとりで年越し?」
 須和は、そこでやっと振り向き宮田の顔を見据えた。
「うん」
 会いたくてたまらなかった人が、今目の前にいる。どうやら、夢ではないらしい。
 まだひと月も経たないのに、もうずっと見ていなかった気がするその顔をじっと見つめ、宮田はぼんやりと返事をする。
「正月三が日は仕事休みだし、ひとりで寝正月の予定だったけど。なんで?」
「なんでって……あの後輩は、どうしたんですか。あなたと同室で楽しくやってたじゃないですか」
 コンロの火を止めながら、須和は隣に立った宮田に険しい視線を浴びせた。
「あ。川野のこと? えっと、あいつは……」
「あー、実家へ帰省ですか。それは寂しいですね、別にどうでもいいんだけど」
「須和くん、もう何度も言ってるけど、川野はただの後輩だって。金がなんとかなるまで居候させてやっただけで、特別なことは何も」
「へえ。じゃ、俺が見せられたあれはなんだったんですか? なんでもないはずの後輩とわざわざベタベタくっついてこれ見よがしに仲良さそうにして。ただ単に俺への嫌がらせですか」
「——なあ、ちょっと待てよ。
 今日、僕と話をしたいってメッセージくれたのは、こうして顔突き合わせて喧嘩したいって意味だったのか?」

「…………なんでですか。
 俺に説明をしなきゃならないのは、あなたの方なのに……なんで、俺からあなたに話し合い持ちかけて、あなたの部屋掃除して、蕎麦の支度までしなきゃならないんですか」
 俯いた須和が、悔しげにそう呟く。

「……須和くん。とりあえず、座らないか? 
 この前たまたま入ったカフェのブレンドがすごく美味しくてさ、そこの店で豆買っといたんだ。君がここに戻ってきたら淹れようと思って。
 ——実際のところは、君はもうこの部屋には二度と来てくれないんじゃないか、と思ってたんだけどね」

「……」

 コーヒーメーカーへ歩み寄りそう話す宮田の声を黙って聴きながら、須和は座り慣れたソファにようやく体を預けた。









「君は、この部屋を出てから、どこで過ごしてるの?
 最近は、何をメッセージしても返事来ないってわかってるから、しばらくLINEも送らずにいたけどね」
 芳ばしく香るカップを一口口に運んで、宮田はさらりと須和に問いかけた。
 宮田が選んだコーヒーは、確かに美味いのだろう。けれど、今の須和の脳にはその味わいも響かない。
 ざわつく感情を鎮めるためだけにカップの液体を喉に通し、須和は必要な言葉だけを返した。
「——大学のサークルの先輩のところに、居候させてもらってます」

「サークルの先輩、って……以前君が『自分の性指向を打ち明けたい』って僕に相談してきた、信頼できる先輩……ってやつ? えっと、東條って言ったっけ」
「そうです」
 須和は一瞬躊躇ったが、頷いた。

 宮田の肩が、小さく揺れた。
 しかし、それを誤魔化すようにカップをテーブルに置き、いつもの薄っぺらい笑みを口元に浮かべた。

「へえ。ならいいじゃん。
 そこで、彼と楽しくやってるんじゃないの?」

「——……そうだったら困ってません」

「……」
 言葉を切って唇を噛むような須和の表情を、宮田は意表を突かれたように見つめる。

「困ってるって……須和くん、今そいつに困らされてるのか?
 まさか、無理やり何かされたとか、傷つけられたとか……」
「違います!!
 彼は全然悪くない。全部あなたのせいですよ! あーもう、ほんといちいち腹立つ!!」
「僕のせい?」
「——あなたが、邪魔するんですよ。
 この前、クリスマスの夜に、彼から告白っぽい感じのこと言われて。
 返事できないまま、一週間経ちました。
 居候の俺をずっと気遣ってくれて、頭脳も人柄も優れてて、何も悩むことないだろうといくら思っても、気持ちの整理がつかない。
 あなたと気の済むまで話をしてからじゃなければ、決心できないんだと、そう気づきました。なんでそうなるのか、自分自身がさっぱり理解できないんですけどね」
 須和は膝の拳をギリギリと握り、視線を伏せたまま苦しげにそう吐き出した。

「……僕と話し合ってからじゃなきゃ、決められないって……どうして」
「宮田さん、マジ鈍い。ほんとにどうしようもない」
 須和はきっと顔を上げ、強く宮田を見据える。
「あなたがなぜいきなり後輩をここに連れてきたのか、なぜ敢えて俺が嫌がるようなことを始めたのか。その理由をちゃんと聞かせてください。
 それまで、それなりに俺の気持ちを汲み取ってくれてたはずのあなたが、突然態度を変えた。それくらい、俺にもわかります。何か理由がなきゃ、そうはならないじゃないですか。  
 ——俺、何かあなたを怒らせたり、気に障るようなことしましたか?」

 真剣な面持ちでそう詰め寄る須和を、宮田は追い詰められたネズミのように青ざめて見つめ返す。
「……君は、何も悪くない。
 ほら知ってるだろ、これが元々の僕のキャラで……」
「逃げるの、やめてください。
 これ以上逃げるなら、俺もう帰ります。
 さっきあなたの言った通り、二度とここには来ません」

 呼吸すら忘れたように須和を見つめていた宮田の唇が、小さく息を吸った。
 とうとう、胸の奥から絞り出すような呟きが漏れた。

「……僕さ、わからないんだよ、ほんとに。
 自分が誰かを本気で好きになった時、どうしたらいいのか」

「——……」

「君は、ルームシェアを始めた当初思っていたような、ただ初心《うぶ》で世間知らずな男の子じゃなかった。
 頭が良くて、穏やかで、なのに頼れる男っぽさがあって。知れば知るほど、君は男として上質だった。
 君が、大学でサークルの先輩と親しくなりつつあることを知って……表向きは君を応援しながらも、僕はそこまできて初めて青ざめた。気づいた時には、もう遅かった。僕は完全に君に惹かれていた」
 言葉が途切れるのを恐れるかのように、宮田は感情を吐き出していく。
「最初から、分かりきってるのに。君と僕じゃ、笑えるほど釣り合わない。そいつと君が近づくのを、僕はただ見ていることしかできない。
 怖かったんだ。自分の心が粉微塵に砕かれる時が来るのが、たまらなく怖かった。
 これほど深くなってしまった想いで、彼を選ぶ君を笑って見送るなんて、絶対に無理だと思った。
 だから、自分から、壊したんだ。
 君が明らかに嫌がるだろう方法を選んで、君を遠ざけようとした。君が彼に奪われる瞬間を目の当たりにしなくて済むように、自分から君を追い出した。君の気持ちなどこれっぽっちも考えずに」

「……宮田さん」
 しばしの沈黙の後、須和はようやく口を開いた。

「今の話、本当ですか」

「本当だよ。
 我ながら痛すぎる、どうしようもなくクズな本心だ」

 宮田は、これまでに見せたことのない眼差しで、須和をまっすぐに見つめた。