佐伯に渡された検査キットでその事実を確認した俺は、ほぼパニック状態だった。
 まだ会社にいるのだから、なんとか表面的には普段の俺を保ちつつも、頭の中はもう完全に、自分のお腹に宿った命のことでいっぱいだ。

 神岡にも今すぐ知らせたいと思いつつ、散々迷った。
 こういう嬉しすぎる報告って、マジでどうしたらいいのかわからない。
 本当は、一刻も早く電話でもLINEでもしたいのだが……
 けれど……俺にとっては、おそらく人生一度きりの、そして人生最大の朗報だ。直接神岡の顔を見て伝えたい気もする。

「この設計図の、ここの部分なんだがね……三崎君? ごめん、私の話聞いてる?」
「ええ、聞いてます」
 すみません部長、全然聞いてません。


 散々迷った挙句、俺は神岡の帰宅まで、ムズムズと動き出したい口をぐっとへの字に結んで待つことにした。

 さあどうしよーー??
 夕食も、何かお祝いメニューにしたいけど。えーっと……
 あー……でも、多分気持ち悪くなっちゃうんだよな、ニオイとか色々で……。
 俺の症状に、「それはつわりよ♪」と、佐伯も嬉しそうに微笑んで教えてくれた。
 うーーーん……つわりだって。何だこの照れ臭すぎる気分は。
 嬉しい時って、こんなにも気持ちがとっ散らかってしまうものなんだ。買い物中に挙動不審にならないよう充分気をつけなければ。









「ただいま」
 いつも通り帰宅すると、神岡は穏やかに微笑んで俺に声をかける。

「おかえりなさい……
 あの、樹さん」

 俺は、神岡のビジネスバッグを持ちながら、なんとも気恥ずかしい思いを押し隠して彼を見上げた。

「ん、どうしたの?」

「あの…………
 とうとう、できちゃったみたいです」

 悩みに悩んで、結局こういう語彙力ゼロの言葉しか出てこない。

「何が?」

 彼は彼で、ネクタイを解きつついつもの涼しげな表情でそう聞き返す。
 あー、そうなるよね。
 こんだけ時間かかったんだし……。
 その焦ったさに、俺はますます赤面して俯く。

「その……だから……」


「…………え……
 もしかして、柊くん……」

 神岡は、はっとしたように俺の顔を見つめた。

「とうとうできちゃったの!? あのIQ180レベルの超高難度パズルゲーム!!?」
「違いますっっ!!」
 鈍っ!!
 こんなもじもじ顔でパズルの話するか!?
 そろそろ気づけ!!

「樹さん、一年後はあなたもうパパですからね!?? これからはもうちょっとパパらしい何かをその——」
 思わずヘンテコな言葉が口をついて出た。


「…………え?」

 なんとも妙な言い方になってしまったが。
 そこに来て、初めて神岡はぐっと胸に何か詰まったような顔をした。

「——柊くん。
 ……もう一回、言ってくれる?」


「……やっと来てくれたんです、赤ちゃんが。ここに。
 来年の今頃は、樹さんもパパです……きっと」

 俺は、そうなってやっと素直に、そう報告できた。


「…………本当に?」

「これが証拠です」

 俺は、昼間佐伯に渡された検査キットの結果を神岡にも示す。


「————」

 神岡は、じっとそれを見つめてから——静かに俺を引き寄せ、強く抱きしめた。


「…………こういう時、言葉って出ないんだな」

 耳元でそう小さく呟くと、一層その腕に強い力が籠る。


「——頑張ろう。
 どんなことがあっても。
 君とこの子のためなら、何でもできる。
 はっきりと、そう言える」

 少し震えるような、神岡のそんな言葉に——俺の中の喜びが、一層じわりと熱を増した気がした。

「俺も、乗り越えてみせます。どんなことも。
 あなたとこの子のために」

「うん。
 一緒に、そう思いながら進もう。
 叶うよ、必ず」

 思わず、涙が溢れた。
 彼の肩越しに零れる涙を止められないまま——俺は、神岡の背を両腕で力一杯抱き返した。









「…………なんだかすみません」

 せっかくの記念すべき日だというのに、俺は結局まともな料理を作れなかった。
 とにかくダメなのだ。食べ物や料理のちょっとした匂いや何かが、ひとつひとつ。
 この気分の悪さ、はっきり言って結構きつい。
 佐伯の話だと、この状態は1、2ヶ月ほど続くらしい。……嘘だろ。
 結局その夜のメニューは、胸持ち悪さを堪えて炊いた白飯と冷奴、酢の物、薄い野菜スープ……などという何とも微妙なものになってしまった。

「そっか……朝の気分悪そうなあれは、つわりだったんだね。
 大丈夫。料理や何かのことは、全然気にしなくていいよ。僕もできる限り協力するから、調子が悪い時はとにかく無理をしないでくれ。ここも僕が片付けるから、座ってて」
 夕食後のテーブルを手際よく片付けながら、神岡が明るく微笑む。

「ありがとうございます。……でも、病気じゃないんだし、できるだけ……」

 そんな俺に、神岡は穏やかに諭す。
「何でもギリギリまで頑張りたがるのは、君の悪い癖だ。
 それに、君の身体は、もう君だけのものじゃない。——まだ出来たての小さな命を、君はこれからしっかり守っていく立場なんだからね」

「——そうですね。
 そのこと、絶対に忘れないようにしなくちゃ」

「これからは、食事の片付けは僕がやろう。
 それから、作り置きできるようなものを週末に作ってストックしておこうか。そうすれば、平日に君が一から料理を作る必要もないし、それぞれ自分の食べる分だけ簡単に調理すれば済む。我ながらグッドアイデアだ。
 僕だって、料理は得意だ。早速そういうレシピを調べてみよう……んー、何だか楽しくなってきた!」
 そんな提案をしながら黒いエプロンをかけ、ウキウキとした顔をする神岡を、俺はじっと見つめた。

 自分の忙しさなどこれっぽっちも見せることなく、こんな風に俺の気持ちを理解し、明るい顔でさりげなく協力してくれる。
 夫としてこんなに素敵な男は、どこにもいない。

「……ほんと、俺って幸せ者すぎる」

「ん? どうしたの急に。
 それを言うのは僕だ。
 例え夢の中でだって、こんな幸せが叶うとは思っていなかった。

 ありがとう、柊くん。
 僕がこういう気持ちでいること、どうか忘れないで欲しい」

「——はい。
 忘れません。絶対に」


 そうして——
 これまでとはまたどこか違う新たな想いで、俺たちは小さく微笑み合った。


「こんな幸福感が身体に溢れては、とてもこのまま眠れない」
 キッチンを片付け終えてエプロンを取りながら、神岡が耳元に唇を寄せて甘く囁く。
「は? ダメです。パワー切れです」
 シャワーを浴びてパジャマに着替えた俺はさらっと微笑み返す。
 それはそれ、これはこれなのである。

「えーー。そんなスパッと……だって、君からもうこんな甘い匂いがしてるのに……」
 そんなことを言いながら、彼は切なげに俺の首筋にすりすりと鼻をすり寄せる。まさに毛並みのいい大型犬そのものだ。
 俺はクスクス笑いながら囁き返した。
「それに、まだ火曜ですよ。金曜まではオアズケです」
「んーー、長い。長すぎる……」

 そんなこんなで、今までの俺史上最高のグッドニュースが訪れた一日は、慌ただしくも幸せに終わったのだった。









 その週の金曜日の夕方。
 俺と神岡は、佐伯に呼ばれて医務室の椅子に座っていた。

「三崎さん、神岡副社長。
 まずは、おめでとうございます」

 佐伯は、俺たちに向き合うと、パッと輝くように微笑んだ。
 このことを、彼女も心から喜んでくれているようだ。

「——ありがとうございます」

 俺たちは照れ臭さにぐっと赤面しつつ、小さくそう答える。
 佐伯は、そんな俺たちを嬉しそうな表情で見つめる。

「うふふ。お二人ともずっと待ち望んでいたご懐妊ですものね。
 そこで早速なのですが、今日は三崎さんの妊婦検診についてお話をしたいと思ってお呼びしたんです。
 藤堂にこのことを伝えたところ、できるだけ早めに今の三崎さんの身体の状況を診察したいそうなので……今週の日曜など、ご都合はいかがですか?」

 俺たちは少し顔を見合わせ、週末の予定などを思い浮かべる。
「特に予定は……ないですよね?」
「そうだね。……でも、できるだけ早めに、というのは、何か心配なことがあったりするのでしょうか?」

 神岡の質問に、佐伯は優しく微笑んで答える。
「これは妊娠の兆候の見られた方すべてにお話することなのですが……妊娠のサインがあっても、全てが正常妊娠とは限らない。子宮外妊娠などの異常妊娠である場合もあるんです。そのため、まず早めの受診をお勧めしています。
 藤堂クリニックは日曜が休診なので、日曜を三崎さんの検診日にできれば、と藤堂は希望しています。これなら、他の患者さんの目を気にしなくて済みますもんね——現院長の私の兄も、喜んで応援すると言ってます」

 藤堂と佐伯の配慮が、とても有り難かった。

「先生。色々とご配慮いただき、本当にありがとうございます」
 俺と神岡は、一緒に佐伯へ深く頭を下げた。


「——それで……先生、あの……
 受診までは、普段通り過ごしていていいんでしょうか……?」

 いろいろな意味を込めて、俺は佐伯にそう質問した。
 佐伯は、そんな俺の様子をちらりと見ると、俺の心を察したように少し言いにくそうに回答する。

「あ……うーん、そうね……
 とりあえず、あんまりアツアツな週末を過ごすのは、控えてもらったほうがいい、かな……?」


「————」

 神岡の激しい落胆っぷりが手に取るように伝わり、俺はその横で微妙に苦笑した。