「最初に僕が言った言葉の意味がわかったろう?
 僕は、この選択を誤りだとは思っていない。——寧ろ、身の程をわきまえた賢い選択だったと、そう思わないか?」
 俺の向かい側で、宮田は薄っぺらい声で楽しげに続ける。
 卵の殻から出たばかりの雛のような、真っ直ぐに素直な男子大学生。ただ面倒を見てやるつもりだった彼に対し、いつしか生まれた想い。宮田は、自分自身のそんな感情を自虐し、躊躇うことなく踏みにじろうとしている。
 ここまで聞かなければ彼の苦痛を推し量れなかった自分自身が、奇妙に腹立たしい。自分の膝の上の拳が、ギリギリと固くなった。

 ふと、須和くんが数日前に送ってくれたメッセージの返信が脳に蘇った。

『ちょっと大学の先輩のところに居候させてもらってます』

 須和くんが居候させてもらっている先輩というのは……もしかしたら、宮田が今話した、その先輩だろうか?
 須和くんと距離を縮めつつある、バイセクシャルだという先輩。
 だとしたら——。

 今の須和くんの居場所は、宮田には明かせない。

「……コーヒーなくなったな。新しい豆落とそうか」
 内心の揺れ動きに気づかれぬよう、俺は敢えて平静な表情を作ってソファを立ち上がりかけた。
「僕の選択を、君はどう思う?」
 まるで引き留めるかのように、宮田の眼差しが俺に向けられた。
 その視線の強さに、俺は浮かした腰を思わず元に戻す。

 どう思うか。
 当然だ。
 俺はひとつ大きく息を吸った。

「あんたは、間違ってる」

「……どこがだよ?」
 宮田の真剣な声が、鋭く突っ込んでくる。
「どうして、あんたは須和くんに自分の気持ちを伝えようとしないんだ」
「は?
 こんないい歳した薄っぺらいクズ男に告られて、一体だれが喜ぶ? どう考えても薄ら寒い迷惑でしかないだろう」
「それは、あんたが決めることじゃない。須和くんが決めることじゃないのか?
 相手が、何と答えるのか……それを確認もせずに、ただ卑怯なやり方で誤魔化して終わりにする気か? こんなふうにめちゃくちゃに引きちぎって、ゴミ箱に突っ込むつもりなのか?
 ——それをされた須和くんの気持ちは、考えないのか」

 大抵のことはヘラっと受け流していく宮田の表情が、これまでに見たこともない強さで歪む。
「明らかに負けが分かっている勝負の結果までわざわざ見て、耐え難い苦痛をとことん味わえってのか」
「負けかどうかなんてわからない。
 だって須和くんは、現にあんたにむけて抗議を発しているじゃないか」
「……抗議?」
「何の説明もなく部屋に戻らくなったっていうのは、あんたに気づいて欲しいからじゃないのか。『あなたのやり方に納得がいかない』っていう、抗議の気持ちを。
 もし、あんたの行動に一切興味関心を持たないルームメイトならば、いきなり後輩を同居させてベタベタし始めたりしたら、あっさり離れて終わりなはずだ。『そろそろ自分で部屋探します。お世話になりました』とかなんとか言ってさ」

 宮田は、手にしていたカップを握り締めたまま、難しい勉強を教えられた子供のような顔で視線を宙に彷徨わせ、ボソボソと呟く。
「……そんな都合のいい解釈ができるほど楽天的じゃない。
 愛想が尽きて、そんな挨拶すら口にしたくないんじゃないのか」
「それはどうかな。縁を切りたいと思う相手には、むしろはっきりと決別の言葉を叩きつけたいもんじゃないのか? 
 俺だったら、ムカつく相手ほどきっぱり別れの挨拶を伝えるよ。思い切り営業スマイル浮かべてな」

「……」
 宮田が、困惑したように口を噤む。

 新たな豆をコーヒーメーカーにセットするために立ち上がりながら、俺は敢えて強い口調で続けた。
「とにかく、須和くんに対しての気持ちが本気なら、くだらないやり方でその気持ちを踏みにじったりするな。
 何がなんでも、彼を探し出して、ちゃんと会って、自分の想いを真っ直ぐに伝えろ。勝てる気がしないからって、せっかく生まれた想いを真っ黒に塗りつぶして終わりにするのだけは止せ。
 ——それから。あんまりもたもたしてると、本当に他の奴に持ってかれるぞ」

 キッチンへ立った俺の背に、心細げな声が届く。

「……それを実行に移して、これまで彼と築いてきた穏やかな時間までが真っ黒に汚れたら、どうするんだ。
 ……どうしたらいいんだ」

 この男の、これほどに途方に暮れた声は、初めて聞いた。
 コーヒー豆の封をバリっと開け、俺は思ったままを答える。
「実行せずに、これから独り立ちしていく彼の背中を心穏やかに見送る覚悟ができるなら、それでもいい。
 ここからも彼と一緒に歩きたい。そういう欲求と、それを伝えずに守られる穏やかな過去。どっちが大切なのか、あんたの脳内の天秤にかけてみたらいいんじゃないか?
 ——俺的には、あんたの部屋に行ったらいつも横に須和くんがいるっていうのはなかなかしっくりくる図だと思うんだけどな。あんたといる須和くんは、他の誰といる時よりも表情が和らいで、楽しそうに見える」

「……それ、マジか?」
 信じられないような顔をしている宮田を真っ直ぐに見つめ、俺はにかっと笑った。
「須和くんに対して若干過保護な俺が言うんだから、信じろよ」









「自分はどうしたいか、もう一度よく考えるよ。……君の言う通り、一秒ももたもたしてられないよな。
 ——ありがとな、三崎くん」
 濃い靄《もや》が幾分晴れたような浅い微笑を浮かべ、宮田は玄関を出て行った。

 見送った俺は、リビングのソファに座り直し、手にしたスマホをじっと見つめた。
 ボタンに指を置き、ぐぐぐ、と俯いて指を引っ込め、それでもスマホを手離す気にはならない。

 須和くんに、このことを知らせるべきか。
「宮田が君のことを心配してうちまで相談にきた」、という情報を。

 現在先輩の家に居候をしているという須和くん。
 その相手が、彼の親しくしているバイセクシャルの先輩なのだとしたら。
 もしもその先輩が、須和くんに何か特別な感情を抱いているとしたら。

 現在は大学院に進学しているというそいつが、もしも宮田よりもはるかに紳士で、頭脳明晰で将来有望な男だとしたら。
 そして——この同居の間に、須和くんがもしもそいつからなんらかのアプローチを受けたていたりしたら。 
 どうなる?
 明るい想像はただの一つも浮かばない。

「はあーー……」
 テーブルに肘をつき、思わず頭をガシガシとかき乱す。 

 けれど——宮田が自分の想いを最悪な形でうやむやにしてしまうのだけは、納得がいかない。先輩というのが例えどんな男でも、宮田が引っ込む理由にはならない。
 そして、須和くんにも、向き合って欲しい。宮田に対して今どんな感情を抱いているのか。
 
 やはり、ここは須和くんに伝えるべきだ。宮田がうちに相談に来たこと、彼が須和くんをどうでもいい存在と思っているわけではない、ということを。
 そこから先をどうするかは、彼ら二人が考える部分だ。俺からは、最低限の連絡に留めよう。

 俺はスマホを握り直し、意を決してLINEのトーク画面を開いた。



 須和くんから返信が来たのは、その日の夜が更けてからだった。
 帰宅した神岡と二人分のコーヒーをマグカップに注ぎ、ダイニングテーブルでその日のことを話している最中に、手元のスマホがメッセージの着信を知らせた。

『すみません、返信遅くなっちゃって。
 宮田さん、三崎さんのところに相談に来たんですか?』
「メッセージ、須和くんからか?」
「ええ。返信くれてよかったです」
 神岡に答えつつ、俺は早速メッセージを打ち込んでいく。
『うん。彼らしくなく、すごく真剣な表情だったよ。君が部屋に帰ってこないって、不安そうだった』
 あれこれ洗いざらい書いてしまわないよう、言葉を選んで返事を送る。周囲が変に騒ぎ立てて、万一事を台無しにしては元も子もない。
 コメントを送信し、ソワソワと返事を待つが、なかなか着信音が鳴らない。
 まさか、このまま会話終了か??
 内心じわりと焦り、再びメッセージを送信した。
『……宮田さん、須和くんのこと、本当に大事に思ってるんだね』
『そうでしょうか』
 今度はすぐに返事がきた。
『あんな風にいきなり職場の後輩を家に連れてきて、何日も泊まらせて。なんだか随分楽しそうで。だんだん「お前はジャマだ」って言われてる気がして……今まで、そんな事一度もなかったのに』
『ほら、彼は元々そういう癖のあるタイプだから……でも、君がそれを腹立たしく感じてるなら、どうして急にそういう展開になったのか、一度君から彼にはっきり問いただしたらどうだろう?』

 再び沈黙が訪れる。
 あまり余計なお節介は焼かない。そんな気持ちで次のメッセージを打つ。
『とりあえず、宮田さんに一言、何かコメント送ってやってよ。怒りの言葉でも何でもいいから。君にLINEも電話も全部無視されて、彼も相当ダメージ受けてるみたいだからさ』

 少し間を開けて、返事が届いた。
『……わかりました。
 済みません。俺のせいで、三崎さんにもご心配かけてしまって』
『他人行儀なこと言わないでよ。困ったり悩んだりした時は、いつでも頼って欲しい。一人で抱え込んだりしちゃ絶対ダメだからね』
『三崎さん、何だかお母さんみたいですね』
 クスッと笑うようなメッセージに、俺もふっと息をつく。
『まあ、神岡と俺は君の第二の父ちゃん母ちゃんだからな』
『ありがとうございます』
 子猫がきゅるんとした目で嬉し泣きするスタンプが届き、メッセージのやりとりはそこで終わった。

 須和くんが、今同居している先輩とどういう関係でいるのか、宮田に対してどんな思いを抱いているのか……その辺は、今のやり取りからは感じ取れない。
 俺たちは、ただこの恋の成り行きを見守るのみだ。

「——宮田くんも、とうとう本気の恋に振り回される時が来たみたいだな」
 俺の向かい側でマグカップを一口啜り、神岡がニマっと口元を引き上げた。