「お邪魔しまーす」
 翌週の水曜日、午後1時。
 土産の紙袋を提げた宮田は、いつもと変わらぬ緩い空気で玄関を開けた。
 今日はゆうとお兄ちゃんが来るぞ、とあらかじめ話しておいたため、晴も湊もぱたぱたと愛らしい駆け足で彼を出迎えた。
「ゆーと! ゆーと!」
「おう、晴、湊〜! 元気だったかー? 二人ともぐんぐんでかくなっちゃってビビるな!」
「んま、ぱかぱかっ!」
「はは、湊は僕をすっかり馬だと思ってるらしいな。はい三崎くん、これ超美味しいプリン」
「……ありがとう」
 楽しげな宮田の様子を、俺は複雑な思いで見つめる。
 これから、どんな話を聞くことになるのか。不安がざわざわと音を立てる。

「……そんな切迫した空気出さずに、とりあえずお茶でも飲んでゆるっとしようよ。クリスマス直前のこの時期、僕も予約ひっきりなしでヘトヘトだからさ。三崎くんの美味いコーヒーでひと息つかせてもらえたら有り難いなー」
 俺の視線を感じたのか、宮田はニッと小さく笑いながらそんなことを言う。
 確かに、しばらくぶりに会う友人を頭から加害者と決めつけて攻撃するなど、流石に配慮に欠ける行為だ。
「——そうだな。
 このプリンで人を籠絡しようってのは甘いけどな」
「え、甘かった?」
「はは、甘いよ。コーヒー入れるから、座っといてくれ」
「パカパカ!」
「おいおい今日は勘弁してくれよー」
 そんな軽いやりとりでいつもの空気を取り戻しつつ、俺たちはリビングへと入った。









 四人でプレイマットで一頻り遊び、プリンを賑やかに食べ終えた午後3時。そろそろ子供達は昼寝の時間だ。
 勘弁してくれと嘆いていた宮田は、ソファでコーヒーを味わう間もなく結局馬になり、晴と湊を交互に乗せながらリビング内を何周したかわからない。いつになくハードな遊びに付き合ってもらった二人は、半分こにしたプリンとマグカップの麦茶を美味しそうに平らげてマットレスにコロンと横になると、間もなくすうすうと小さな寝息を立て始めた。
 ふたりに毛布をかけた宮田は、苦笑いしながらリビングのソファへ戻ってきてコーヒーのおかわりを所望する。
「ったく、こんなおっさんを馬にするとは残酷な奴らだ」
「はは、愛情表現だと思って許してやってくれ」
「都合いいこと言うよなー父親は」
 軽く笑い合い、俺もコーヒーのおかわりを自分のカップに注ぐ。

「——今回、こういう事になったのは……仕方がなかった、のかもしれない」
 コーヒーのカップをテーブルに置き、宮田は不意にそんな言葉を呟いた。

「……え?」
 何と切り出すか迷いつつコーヒーにミルクを入れてかき回していた俺は、思わず顔を上げて宮田を見た。

「——仕方がないって、一体……」
「三崎くん。
 今回の件は、僕が一方的な加害者だという先入観は一旦引っ込めて話を聞いてほしい」 
 宮田の眼差しが、いつになく真っ直ぐに俺を見つめる。
「今日は、不始末の弁解に来たわけじゃないし、自分の選んだ行動に反省もしていない。
 今の状況は、彼のために必要なことなんじゃないかと僕は思ってる。
 君は、どう思うか。それを聞ければ嬉しい」

「……」

 先週、電話で宮田が漏らした一言が、不意に耳に蘇った。
『——彼は、自力でちゃんと生きていける子だ。僕なんかがそんなに心配することはないんだよ』 
 あの時の声も、いつもとは別人のように静かな、そしてどこか寂しげな声だった。
 どうやら、今回のことは、思ったほど単純な喧嘩や行き違いなどではなさそうだ。

「……わかった」
 俺は、深く頷いた。

「須和君から、相談受けたんだ。3ヶ月くらい前だったかな。大学のサークルの先輩で、今は大学院に進学してるらしいけど、最近親しくなった人がいるって。その人に、自分の性的指向を話してもいいだろうかっ、てね。
 難しい問題だろ? 親しいと言っても、本当にそこまで信頼のできる相手なのか。いくらここまでの関係が良好でも、そういう事実を知った途端掌を返したように冷ややかになったり、内密にしておけずに周囲の人にそういう話を漏らしたり、実際トラブルに繋がるケースも少なくない。そういうリスクがあること、その結果打ち明けた側が大きな傷を負う場合があることを知っておかなければならない。
 けど、須和君的には、それを知ってもらわないと本当に大切な部分で関係が築けない気がする、って。女子の話題になっても自分は興味を示せず、実際彼女も作れない。信頼関係を築きたい相手に、そういう部分でごまかし続けることが辛かったんだろう。
 その人に事実を告げたいという思いでいる彼に、真っ向から反対をしても仕方ない。
 本当に信頼の置ける相手だと須和君が感じているならば、それを信じて打ち明けたらいいって答えたよ」
 
 手の中のコーヒーカップに視線を落とし、宮田は淡々と語る。
 宮田と須和君の複雑な心の内を思いつつ、俺は黙って彼の話に耳を傾けた。

「そんなことがあってしばらくして、ある日の夜、須和君が明るい笑顔で報告してくれたんだ。『宮田さん、助言ありがとうございました!』って。
 その先輩と二人でサークル帰りに入った居酒屋で、酒の力も借りながらそれとなく事実を打ち明けたらしい。そうしたら、『そうかもしれないって、ちょっと思ってた』って、その人は微笑んで答えてくれたって。そして、『僕も、自分はバイだと自覚している』と。
 思ってもみなかった答えに、須和君は本当に嬉しかったようだ」

 須和君が親しくなったその先輩も、バイセクシャルだという事実。須和君の心は、どれだけ明るく照らされたことだろう。
「僕も、心から嬉しかった。彼が残酷に傷つけられる心配はこれで無くなったのだと、ほっと胸を撫で下ろした。
 しかし、同時に——このままじゃいけないと、自分の中の何かがざわざわと騒ぎ出した。
 どれだけ抑え込もうとしても、そのざわつきは収まらない。
 一体何がざわついているのか。
 それを突き止めなければならないことは、わかってるのに——それを見つめるのが、怖くてたまらなかった。
 前進も後退もできず、立ち竦んでみっともなく震えている自分がいることに気づいた」
 宮田は視線を上げ、俺を見るとふっと自嘲するように笑った。
「それで、僕は——別の男を、自分の部屋に招き入れた」

「……」

「美容室の後輩で、パチンコにはまって貯金すっからかんにしちゃった奴がいてさ。アパートの家賃が払えないって言うから、僕の部屋にしばらく居候すればいいって、そんな話をそいつに持ちかけたんだ。幸い、須和君とのルームシェアで、以前に比べたら僕も経済的に結構余裕出てきてるし、次の部屋借りれる状況になるまでは僕の部屋で雑魚寝させてやるって言ったら、めっちゃ喜んでね。
 ひと月くらい前から、その後輩が僕の部屋にいる。つまり、僕のとこには男が三人で住んでるって形になってたわけ。——あ、須和君が出ていくまではね」

「——……で、そいつとあんたは、同室でよろしくやってるわけか」
 抑えたくても、視線は険しくならざるを得ない。
 俺は静かに宮田を見据え、出そうな歯軋りを必死に抑え込んだ。

「そういうとこだよ、信用してくれてないっていうのはさ」
 宮田は乾いた笑いを口元に浮かべる。

「そんなわけないだろう。
 僕が、何を恐れたのか——君には解るか」

「……」

「須和君が、別の男とそういう関わりを持つようになるまで、気づかなかった。
 僕は、須和くんに惹かれている。年齢差も人間性レベルも、全部すっ飛ばして。笑えるだろ? 
 あのまま、あの部屋で彼と一緒にいたら……僕は、彼のこの先を、真っ黒に踏み潰してしまうだろう。このままでは、彼の心と、彼の人生を独占するために、僕は何をするかわからない。
 だからと言って、どうしたらいいのか、わからなかった。彼に出て行けと言えばいいのか、この部屋を譲ると言えば良かったのか。
 どちらも、できなかった。
 だから——彼に、選択してもらったんだ。
 彼の前で、ただの後輩と敢えて親しげに触れ合って見せた。一緒に料理したり、隣室の彼に聞こえるように必要以上に会話盛り上げたりね。
 ほら、僕って元々こういう奴だったしさ」

 そんな台詞を言いながら、宮田はいつものように薄っぺらく口元を引き上げた。

 自分の感情を纏めることができないまま、俺は膝に拳を握りしめて俯いた。