新規建築予定のマンションの一部を、周辺住民と共有できる図書スペースにする。
 柊が深夜に電話で伝えたこのアイデアを、樹は翌朝すぐに父親である神岡工務店社長へ提案した。
 土曜日にも関わらず、社長は緊急でオンラインミーティングを開き、社内上層部と各部門のトップがこの件について話し合った。翌日の日曜は第2回住民説明会が予定されており、その場でこの案を反対派住民に提案できるかどうかを判断する緊急会議である。 

 外部との共有部分を作ることで居住者のプライバシーが危険に晒される心配はないかという一役員からの意見については、図書スペースと居住スペースの間に厳重なセキュリティシステムを導入することで充分解決できる旨を設計部門が回答した。また、マンション選びの際、その点が気になって入居を躊躇するケースも出るのではないかとの意見も上がったが、もともと住民同士の交流をコンセプトにしているマンションがこのアイデアを組み入れることには大きな違和感はないはずだと営業部長がコメントした。

「マンション購入者以外の外部の人々を、まるで危険な異分子のように捉える空気を作ってしまうことに問題があると……私は、そう考えます」
 どこか苦しげに意見を述べる営業部長の言葉を受け、設計部長の藤木が控えめながら明確な口調で言葉を添えた。
「『元々は、近所の公園で年寄りも子供も一緒になって一つのことを楽しむ風景が当たり前だった。あなた方は、多世代交流とか耳触りの良い言葉を使いながらそういう交流の場を乱暴に奪っていく。その矛盾に気づかないのか』と、反対派住民の一人から声が上がったそうですね。
 マンション内の住民だけで交流を深め、その内側だけで幸せを構築しようとする。その方針は一見当然のように思えますが、見方を変えればとても排他的です」
 藤木の静かな言葉が、画面を通して参加メンバーの耳に響く。

「私も、営業部長や設計部長の意見に賛成だ」
 神岡工務店社長の揺るぎない声が、藤木に続いた。
「都会地になればなるほど、なぜか私たちは『個』を重視するようになる。自分の暮らしさえ満たされていれば、周囲の人々の生活など一切関係がないとでもいうように、私達は脇目も振らず無表情に人混みを行き交う。
 けれど、果たしてその感覚が正解なのか。マンションを購入した居住者の幸せさえ守られればそれでいい、という冷ややかな常識に疑問を投げかけるようなマンションがあってもいいんじゃないかと、私は思うがね」
 社長は、画面上に集まったメンバーへ向けてどこか悪戯っぽい笑みを浮かべた。









 翌日、日曜日の午後1時40分。
 第2回説明会への参加者が席につき始め、会場は次第に埋まりつつある。反対派の主軸である小出と下田の顔も既に揃っている。
「いや、今回こそは我々に勝算がありますよ。神岡工務店さんの出してくださった案は、誰が聞いても気持ちが明るくなるアイデアですしなあ」
 控室のミーティングテーブルで、共同プロジェクトの相手であるA不動産専務の大澤が満足げな笑みを浮かべながら腕を組んだ。
「そうですな。ここまで一歩も引かない姿勢でいた彼らも、意外性のあるアイデアを提示されたら返す言葉もないはずですわ」
 今日の主催者控室は、これまでとは打って変わった明るい空気に満ちている。
 しかし、その空気はむしろ樹の首をぎゅうぎゅうと締め上げるかのようだ。

 どれだけ勝算があるアイデアを手にしていても——今日の説明会が成功を収める可能性が果たしてあるのかどうか。
 樹は、人知れずふうっと重い息を吐く。
 小出と下田は、小田桐の企みにより漏れ出た自分についてのプライベートな情報を参加者に包み隠さず晒すはずだ。恐らく、説明会そのものをひっくり返すつもりで。 
 樹は、掌に滲む汗を感じながら、大きく一つ息を吸い込んだ。

 ——黙っているわけにはいかない。
 これだけは、前もって言っておかねばならない。

「——大澤さん、皆さん」
 樹の改まった呼びかけに、それぞれ高揚したようなメンバーの視線が一斉に樹に集まった。
 その視線を真っ直ぐに受け止め、樹は乱れる心拍を抑え込みながら口を開いた。

「——本日、反対派住民の数人から、強い非難の声が上がることが予想されます。
 それは、私個人のプライベートに関する批判や非難です。
 私の不手際で、私生活に関わる情報が反対派の一部に漏れ出してしまい……その一部住民が、今日この場でそれらの情報を全参加者へ暴露することが考えられます。
 場合によっては、その内容を聞いた参加者の私への非難が高まり、説明会そのものが頓挫してしまうかもしれません。
 そのような場面が実際に起こった場合は——私個人の事柄についての説明責任は、私一人にあります。場を治めるべく全力を尽くします。ですので……どうか、皆様にはこの不手際をお許しいただき、この場を堪えていただければと思います。
 ……心から、お詫び申し上げます」
 樹は、メンバーへ向けて深く頭を下げた。

 熱を帯びていた控室の空気は、一気に重く静まった。

「……神岡副社長。
 漏れ出たプライベート、とは……数日前にご相談したあの件は、やはり……」
 大澤が、硬い表情で樹に確認する。
 樹は大澤とメンバーへ静かに答えた。
「この件は、ある者が私への個人的な嫌がらせを目的として企てたもので、組織絡みの大きな計画などではありません。そしてその嫌がらせも、今は既に解決済みです。
 しかし、今日の事態だけは防ぐことができませんでした。
 漏れ出たプライベートとは——私のパートナーと、二人の息子に関してです。
 私には、同性のパートナーがいます。そして、彼は両性を持ち合わせた特殊な体質であり、妊娠・出産が可能なことがわかったため、私たちは新しい命を望みました。
 念願が叶い、私たちは双子の息子を授かり——現在彼は育児休業を取得し、家庭で育児と向き合ってくれています」

「……」

 室内が、複雑な沈黙に包まれる。
 樹は、そのまま続けた。
「私のプライベートに関しては、これまで隠していたことではありません。隠す必要などないという認識も、今後も一切変える気はありません。
 ですが——我々の仕事に批判的な感情を持つ人々が万一そのような事実を知った場合、どんな反応が起こるか。そこまでの対応策が講じられていなかったことは、私の不手際としか言いようがありません。
 ですので……」

「——謝ることじゃありませんよ」
 はっきりと強い男の声が、室内に響いた。
 声の主は、A不動産専務の大澤だった。

「あなたが頭を下げるようなことは、何一つないやないですか。
 あなたがここまで選んできたものは、誰に対しても恥じる必要などありません。だからこそあなたは、これまでも自らのことを敢えて隠したりはしなかった。そうでしょう? ここでその意志を曲げてしまって、どうするんです?」

「……」

 憤りが一気に噴出したかのような大澤の激しい語気に、樹は思わず圧倒される。
 大澤は更に言葉を続けた。
「状況がどうだとか、話し合いを丸く収めるためだとか、そんなことは考えないでください。理不尽なのは私たちではなく、こういう事態に乗じてなりふり構わずプライベートな領域にまで踏み込もうとする彼らです。
 こんなことが理由で話し合いが決裂するならば、それでいいじゃありませんか。どんなことがあっても、自分自身の選択したものを第三者から中傷されてヘコヘコ頭下げたりしちゃいけません。あなたの大切なパートナーと、息子さん達の為にも。
 いくら計画のためとは言え、そんな大切な部分を曲げたりはしないでください。絶対に」

 大澤の強い眼差しが、樹を見据える。
 それを聞いていた他のメンバーも、樹を見つめてそれぞれに深く頷いた。

 ——ああ。自分は、また大切なことを見失いそうになっていた。
 樹は、そのことに漸く気付いた。

「——ありがとうございます、皆さん。
 そうですね。……今、目が覚めた思いです」

 目の奥に湧き出すものをぐっと堪えながら、樹はメンバーをしっかり見つめ返した。
 
「自分自身の生き方に対する非難や批判については、どれだけ激しいものを向けられたとしても、謝罪や頭を下げたりは決してしません。
 それが理由で決裂するならばそれも厭わないと——そういう気持ちで、この場に臨みたいと思います」

「そうですよ。あなたひとりにピンチを背負わせたりは絶対にしませんから、副社長!」
「そうや。こんなおかしな話、どうにも黙っていられんわ。大阪人舐めてもらっちゃ困るで」

「——ありがとうございます、皆さん。本当に」

 メンバーからかけられる幾つもの言葉に、樹は再び深く頭を下げた。









 定刻の2時。
 準備した席のほぼ埋まった会場の前方に、主催者側のメンバーが全員着席した。
 真っ直ぐに顔を上げたプロジェクト担当者たちを、小出と下田がじろりと鋭く見つめた。