本当は軽くご飯を食べて帰ろうかと思っていた。朔也の働く喫茶店にはオムライスやドリアもある。時刻は午後六時半すぎ。夕飯をここですませてしまえば、家に着いてからの時間も有効に使える。そう、思っていた。――お店に入るまでは。
「いらっしゃいませ」
入口で足を止めるとすぐに声をかけられた。朔也の声ではない。高くてよく響く女性の声。
「何名様ですか?」
「一人です」
制服を着た女性がメニューを手に「こちらへどうぞ」と案内してくれる。控えめに鳴るヒールの音に合わせながら足を進める。視線を巡らせば、奥のテーブルを片付けている朔也の姿が目に入った。
俺を見つけたらすぐに来るかと思ったが、片付け中だったのか。なんの迷いもなく自然と思ってしまい、自分の中にあった期待に気づく。――ただの幼馴染。慕ってくれているだけのこと。それ以上でも以下でもない。自覚した期待を幼馴染としての愛情だと言い聞かせる。
「こちらのお席へどうぞ」
案内されたのは窓際のボックス席。混みあう時間帯であれば二人以上で使うところだろうが、平日の夜である今はほどよく空いている。
「お決まりになりましたら、こちらでお知らせください」
接客の見本みたいな笑顔を向けられ、こちらも自然と笑い返す。
「ありがとうございます」
ふと、朔也もこうやって笑っているのだろうかと気になった。なんかちょっと苦手そうなんだよな。
案内してくれた店員が離れ、視界が広くなる。朔也がいた方へと顔を向ける途中、視線がぶつかった。朔也はテーブルの片付けを終え、食器類を運んでいるところだった。白いシャツに黒のベスト。お店の制服を着ているだけなのに、いつもよりも大人っぽく見える。お皿やグラスを載せたトレーを両手に持っているのも様になっていた。
頑張っているんだな。一生懸命やっているだろう、とは思っていたけれど。想像していた以上に馴染んでいて、勝手に成長を感じ――胸の奥が揺れた。寂しさや嬉しさ以上に惹きつけられて。
揺れた感情を悟られたくなくて軽く手を振る。
朔也の両手が塞がっているのはもちろんわかっている。自分の感情をごまかすための、幼馴染の顔を続けるための行動、だった。
朔也は戸惑ったような表情のあと、なぜか首を振った。軽い会釈でいいのに。これでは何かを否定しているか、おかしな挙動でしかない。ふっと力が抜ける。きっと朔也は俺と同じように手を振りたかったのだろう。けれど両手は塞がっていて、咄嗟に何なら振り返せるかと考えたに違いない。
先ほどまでの見慣れない大人っぽさから一転、いつもの幼馴染の姿に胸がくすぐったくなる。もっと見ていたいと思うと同時、これ以上揺さぶられるのは怖いとも思う。朔也を可愛いと思う気持ちはどこから来るのか。年下の幼馴染への愛情からなのか。閉じ込めてきた想いからなのか。確かめることすらしてはいけない気がして、ご飯は食べずに帰ろうと決めた。
商業施設を出ると、生温い風が肌に触れた。空は夜の色に染まり始めたばかりで、吸い込んだ空気には熱が残されている。微かな息苦しさを覚えたところで、スマートフォンが振動した。
ジーンズのポケットから取り出せば、表示されていたのは同じゼミの友人の名前だった。
『今から飲みに来ない?』
応答ボタンに触れた途端、飛び込んできた声。聞けば、ゼミのメンバーでこの近くのお店に集まっているらしい。
ちょうど帰るところだったし、ご飯にもありつけるならいいか。
朔也とご飯を食べる約束は今日ではないし。
ほんの十分ほど歩いただけではあったが、額にはじわりと汗が浮かんでいた。
扉を開ける前からにぎやかな声が聞こえる。
「お、来た来た」
入口近くの席にいた友人がすぐに手を振った。肌に纏わりついた湿気が冷房の風に攫われ、息がしやすくなる。
「修一が来るの珍しいね」
通路側の空いていたスペースに腰かければ、向かいから小さく笑われる。カラカラと心地良く弾む声。ふわりと甘い香り。懐かしさが胸に広がる。
「確かに久しぶりかも」
「こういう突発的に誘われるの苦手だもんね」
メニューあるよ、と差し出される。白く細い指にピンクベージュの爪が輝く。
「ありがと」
受け取りながら、三年前の――沙耶と付き合っていた頃を思い出す。大学に入学してすぐ、朔也を忘れようと心を固くしていたとき。
自分でも最低だと思うけど、沙耶から告白されたとき、俺にあったのはこれで朔也への想いを断ち切れるかもしれないという期待だった。忘れたかった。ただの幼馴染に戻りたかった。朔也以外に大事な存在ができれば変われるのではないかと思い、付き合うことを決めた。――半年も続かなかったけど。
「なあ」
とりあえずビールを頼み、振り返ったところで隣から小さく声をかけられる。電話をかけてきた張本人だ。お酒の混じった息が耳に触れる。
「やっぱいい感じじゃん」
「ただの友達だから」
沙耶が隣の友人と話しているのを確認しながら、小声で返す。
「絶対沙耶ちゃんはまだ好きだと思うぞ」
「ないよ。ていうか、お前まだそれ言う?」
ゼミ内で最初に付き合いだした俺たちをこの友人は「理想のカップルだ」と言い「結婚式は呼んでくれ」と気の早いことまで口にしていた。
自分たち以上に喜んで、祝福してくれるようないいヤツ。いいヤツだからこそ、本当のことは言えない。
「俺のことより、お前はどうなんだよ。この前彼女できたって……」
言いかけた言葉を飲み込む。
楽しそうに笑っていた顔がみるみるうちに萎んでいく。
面倒そうな空気を察知し、視線を前に向ければ、「よろしく」とばかりに小さく頷かれる。なるほど。この集まりはこいつを慰めるためのものだったか。
「修一、聞いてくれよ」
先週会ったときに嬉しそうに報告してきた表情は欠片もない。付き合って別れるなんて珍しいことではないけど。自分と違って誠実に相手のことを好きだったのがわかるから、適当にあしらえない。三年も前のことではあるが、自分のことのように喜んでくれたときの申し訳なさも混じる。
「……何があったわけ?」
ため息を混ぜつつも返せば、友人は堰き止めていた思いを溢れさせた。
「それがさぁ」
話を聞きながらも、頭はどこか冷静に朔也のアルバイトが終わる頃には出ようと考えていた。
「いらっしゃいませ」
入口で足を止めるとすぐに声をかけられた。朔也の声ではない。高くてよく響く女性の声。
「何名様ですか?」
「一人です」
制服を着た女性がメニューを手に「こちらへどうぞ」と案内してくれる。控えめに鳴るヒールの音に合わせながら足を進める。視線を巡らせば、奥のテーブルを片付けている朔也の姿が目に入った。
俺を見つけたらすぐに来るかと思ったが、片付け中だったのか。なんの迷いもなく自然と思ってしまい、自分の中にあった期待に気づく。――ただの幼馴染。慕ってくれているだけのこと。それ以上でも以下でもない。自覚した期待を幼馴染としての愛情だと言い聞かせる。
「こちらのお席へどうぞ」
案内されたのは窓際のボックス席。混みあう時間帯であれば二人以上で使うところだろうが、平日の夜である今はほどよく空いている。
「お決まりになりましたら、こちらでお知らせください」
接客の見本みたいな笑顔を向けられ、こちらも自然と笑い返す。
「ありがとうございます」
ふと、朔也もこうやって笑っているのだろうかと気になった。なんかちょっと苦手そうなんだよな。
案内してくれた店員が離れ、視界が広くなる。朔也がいた方へと顔を向ける途中、視線がぶつかった。朔也はテーブルの片付けを終え、食器類を運んでいるところだった。白いシャツに黒のベスト。お店の制服を着ているだけなのに、いつもよりも大人っぽく見える。お皿やグラスを載せたトレーを両手に持っているのも様になっていた。
頑張っているんだな。一生懸命やっているだろう、とは思っていたけれど。想像していた以上に馴染んでいて、勝手に成長を感じ――胸の奥が揺れた。寂しさや嬉しさ以上に惹きつけられて。
揺れた感情を悟られたくなくて軽く手を振る。
朔也の両手が塞がっているのはもちろんわかっている。自分の感情をごまかすための、幼馴染の顔を続けるための行動、だった。
朔也は戸惑ったような表情のあと、なぜか首を振った。軽い会釈でいいのに。これでは何かを否定しているか、おかしな挙動でしかない。ふっと力が抜ける。きっと朔也は俺と同じように手を振りたかったのだろう。けれど両手は塞がっていて、咄嗟に何なら振り返せるかと考えたに違いない。
先ほどまでの見慣れない大人っぽさから一転、いつもの幼馴染の姿に胸がくすぐったくなる。もっと見ていたいと思うと同時、これ以上揺さぶられるのは怖いとも思う。朔也を可愛いと思う気持ちはどこから来るのか。年下の幼馴染への愛情からなのか。閉じ込めてきた想いからなのか。確かめることすらしてはいけない気がして、ご飯は食べずに帰ろうと決めた。
商業施設を出ると、生温い風が肌に触れた。空は夜の色に染まり始めたばかりで、吸い込んだ空気には熱が残されている。微かな息苦しさを覚えたところで、スマートフォンが振動した。
ジーンズのポケットから取り出せば、表示されていたのは同じゼミの友人の名前だった。
『今から飲みに来ない?』
応答ボタンに触れた途端、飛び込んできた声。聞けば、ゼミのメンバーでこの近くのお店に集まっているらしい。
ちょうど帰るところだったし、ご飯にもありつけるならいいか。
朔也とご飯を食べる約束は今日ではないし。
ほんの十分ほど歩いただけではあったが、額にはじわりと汗が浮かんでいた。
扉を開ける前からにぎやかな声が聞こえる。
「お、来た来た」
入口近くの席にいた友人がすぐに手を振った。肌に纏わりついた湿気が冷房の風に攫われ、息がしやすくなる。
「修一が来るの珍しいね」
通路側の空いていたスペースに腰かければ、向かいから小さく笑われる。カラカラと心地良く弾む声。ふわりと甘い香り。懐かしさが胸に広がる。
「確かに久しぶりかも」
「こういう突発的に誘われるの苦手だもんね」
メニューあるよ、と差し出される。白く細い指にピンクベージュの爪が輝く。
「ありがと」
受け取りながら、三年前の――沙耶と付き合っていた頃を思い出す。大学に入学してすぐ、朔也を忘れようと心を固くしていたとき。
自分でも最低だと思うけど、沙耶から告白されたとき、俺にあったのはこれで朔也への想いを断ち切れるかもしれないという期待だった。忘れたかった。ただの幼馴染に戻りたかった。朔也以外に大事な存在ができれば変われるのではないかと思い、付き合うことを決めた。――半年も続かなかったけど。
「なあ」
とりあえずビールを頼み、振り返ったところで隣から小さく声をかけられる。電話をかけてきた張本人だ。お酒の混じった息が耳に触れる。
「やっぱいい感じじゃん」
「ただの友達だから」
沙耶が隣の友人と話しているのを確認しながら、小声で返す。
「絶対沙耶ちゃんはまだ好きだと思うぞ」
「ないよ。ていうか、お前まだそれ言う?」
ゼミ内で最初に付き合いだした俺たちをこの友人は「理想のカップルだ」と言い「結婚式は呼んでくれ」と気の早いことまで口にしていた。
自分たち以上に喜んで、祝福してくれるようないいヤツ。いいヤツだからこそ、本当のことは言えない。
「俺のことより、お前はどうなんだよ。この前彼女できたって……」
言いかけた言葉を飲み込む。
楽しそうに笑っていた顔がみるみるうちに萎んでいく。
面倒そうな空気を察知し、視線を前に向ければ、「よろしく」とばかりに小さく頷かれる。なるほど。この集まりはこいつを慰めるためのものだったか。
「修一、聞いてくれよ」
先週会ったときに嬉しそうに報告してきた表情は欠片もない。付き合って別れるなんて珍しいことではないけど。自分と違って誠実に相手のことを好きだったのがわかるから、適当にあしらえない。三年も前のことではあるが、自分のことのように喜んでくれたときの申し訳なさも混じる。
「……何があったわけ?」
ため息を混ぜつつも返せば、友人は堰き止めていた思いを溢れさせた。
「それがさぁ」
話を聞きながらも、頭はどこか冷静に朔也のアルバイトが終わる頃には出ようと考えていた。



