会いたい、と強く思った。
 数時間前も会ったのに。一緒に暮らしているのに。それでも、どうしても今すぐ会いたくて。駅からの道を走った。
 周りの景色も、音も、何も入らない。自分の足音と心臓の音だけが響き続ける。シュウちゃん。シュウちゃんの好きなひとは誰? 沙耶さんと付き合う前から想い続けている相手は誰? 知りたい。教えて欲しい。俺が知らないシュウちゃんのこと、全部。昨日の「ごめん」の意味も。
 あと少し。建物が視界に入ったところで、冷たい雫が落ちてきた。
「うわ、セーフ」
 エレベーターを待つことさえもどかしく、駆け込んだ勢いのまま階段を上る。心臓は弾んだまま止まらない。息が乱れるのも構わず足を動かし続ける。
「ただいまっ」
 鍵を回すと同時に開けたドア。声をかけるが返事はない。三和土(たたき)にはシュウちゃんのスニーカーがある。廊下の先は明るく、冷たい風が流れてくる。帰ってはいるはず。
「シュウちゃん?」
 リビングに続くドアの取っ手に手をかける。エアコンの冷気が肌を撫で、走り続けた体から熱を攫っていく。ふわりと美味しそうな匂いが鼻に触れ、思わずキッチンを振り返った――その途中、ダイニングテーブルに突っ伏すシュウちゃんが視界に入った。こんなところで寝ているなんて。珍しいな、と足を動かしたところで、干しっぱなしの洗濯物が揺れていることに気づく。
「シュウちゃん!」
 思わず叫ぶように呼んでいた。一人で取り込むという選択肢はなくて。シュウちゃんに助けを求めてしまう自分を不甲斐なく思う余裕もなくて。
「洗濯物!」
 早く取り込まなきゃ、としか思えなかった。
「え、あ」
 顔を上げたシュウちゃんを横目にベランダへと走る。荷物を下ろす余裕もなく、そのまま飛び出した。干されていた洗濯物を抱えて振り返れば、シュウちゃんもそばに来てくれていた。
 洗濯物を手渡し、部屋に戻る。窓を閉めれば、雨の音が一瞬で遠ざかる。
「ごめんな」
「ううん。降り始めたところだから」
 濡れていないか確認していたシュウちゃんが、抱えていた中からタオルを引っ張り出す。あの雨の日と同じ水色の。頭にふわりと乗せられ
「これは俺が畳んでおくから、朔也はお風呂行ってきな」
 と年上の顔を作られる。瞬間、きゅっと胸の奥が鳴った気がした。
「シュウちゃん」
 手を伸ばさずにはいられなかった。
 続けるはずの言葉を思い浮かべれば、声は自然と小さくなった。シュウちゃんが幼馴染の顔をするたび生まれる安心と切なさ。もっと近づきたいと願わずにはいられなくなる。シュウちゃんが隠している、その場所。ずっと奥。知りたくて。触れたくて。たまらなくなる。
 ――シュウちゃんの好きなひとは誰?
「シュ、ウちゃんはご飯食べた?」
 口にしかけた言葉は、ふわりと漂う匂いに押し戻された。約束を破ったのに。それでもシュウちゃんは作ってくれたんだ。カレーの匂いが胸の奥まで広がる。きゅっと心臓が縮まって、罪悪感と嬉しさが込み上げる。
「いや……、まだだけど」
 本当は昨日のように抱き締めたかった。
 言ってしまいたい。気持ちを伝えて、シュウちゃんが思っていることを聞きたい。掴んでいた手に力が入る。戻された視線が繋がる。
 でも、今はできない。雨に降られた俺を気遣ってくれる。約束がなくなってもご飯を作ってくれる。シュウちゃんの優しさを無駄にしたくない。勢いに任せてしまうのは簡単だけど。そうはしたくない。どんな答えでもちゃんと受け止めたいから。
「じゃあ、ちょっとだけ待ってて。急いで出るから」
 弾みっぱなしだった心臓を落ち着けようと、手を離す。眼鏡越しではないシュウちゃんの瞳がふっと細められる。
「急がなくていいよ」
 待っててやるから、と笑い返され、ふわりと胸が温かくなった。

 勢いというものは結構大事だったのだと、気づいたのはお風呂を上がってから。シュウちゃんに会いたい。気持ちを伝えたい。確かめたい。そう思い続けていたときは気にならなかったのに。いざ話そうと思うとタイミングがわからなくなっていた。
 目の前に置かれたお皿を見つめる。
「なんかカラフルだね」
「野菜届いたからな」
 シュウちゃんが向かいに座る。先ほど手を掴んだときの方が距離は近かったのに、今の方が安心できて。目の前にシュウちゃんが座っていることに、これから同じものを食べるのだということになぜか泣きそうなくらい嬉しくなる。
 これが当たり前になればいい。ずっと続けばいい。温かさの中に混じるツンとした痛み。目の前にある景色を手放さないためには何も言わない方がいいのかもしれない。何も伝えず、何も聞かない方が。
 でも――、それではきっといつか終わりが来てしまうから。
「シュウちゃんのところから?」
「そう。親父が野菜作りにハマってるらしい」
 俺はシュウちゃんが学生でいる間だけの同居人でいたくない。優しくしてもらうだけの幼馴染でいたくない。もっともっとそばで、もっともっと長い時間、この先もずっと一緒にいたい。
 いただきます、と揃う声をずっと聞いていたい。
「うまっ」
 一口目で飛び出した言葉。カレーなんて食べ慣れているはずなのに。鼻に抜けるスパイスの香りとか野菜の甘さとか全部が溶け合って「うまい」しか言えなくなる。
「よかった」
 ふっと表情を緩ませ笑うシュウちゃん。
「いっぱいあるから。お代わりもできるよ」
 クスクスと小さく弾む声。麦茶の入ったグラスを掴む長い指。コクン、と動く喉。薄く湿った唇。
「朔也? どうかした?」
「あ、いや、なんでもない」
 カレーのことでいっぱいだったはずなのに。一瞬で惹きつけられた。目の前のシュウちゃんから目が離せなかった。
 鎮めたはずの心臓が再び騒ぎ出す。言いたい。言ってしまいたい。でも食べている途中で言うのは違う気がする。銀色のスプーンをお皿へと向ける。ルーとご飯の境界線を掬い取る。口に含んで、意識をシュウちゃんから切り離す。でもこの美味しさもシュウちゃんが作ってくれたものなんだよな。噛めば噛むほど味が広がって、泣きたくなる。スパイスのせいではない痛みが鼻の奥まで届く。帰ってきてよかった。「明日食べればいい」ときっとシュウちゃんは言っただろう。でも、やっぱり今日一緒に食べられてよかった。
「朔也?」
 心配そうに傾けられた顔。ズッと洟をすすり笑顔を作る。
「この辛さがいいね」
 よかった、とシュウちゃんがもう一度笑う。胸が温かい。ツンと鼻の奥が痛くて、両目が熱くなる。シュウちゃんといるこの時間があまりにも優しくて、幸せで、たまらなくなる。鼻水も涙も全部カレーのせいにしてひたすらスプーンを動かし続けた。

 窓の向こうで降り続ける雨。
 ガラスには部屋の中の風景が映っていた。
 キッチンで食器を洗いながらも意識は廊下側へと向かう。食事が終わり「食器洗っておくから、シュウちゃんもお風呂入っちゃえば」と時間稼ぎに言ってみた。
 シュウちゃんは一瞬何かを考えるような表情をしたけど、すぐに「じゃあ、そうするわ。ありがと」と笑った。
 キュッと蛇口をしめれば、今度はシャワーの水音が聞こえてくる。シュウちゃんが戻ってきたら、言おう。ドクドクと心臓が大きく動く。帰ってきたときの勢いよく弾む感じではない。一音、一音、これから起こることを確かめるように強く響く。
 ――あの雨の日を思い出す。
 一年しかこの奇跡のような時間はない。そう思い、口にしようとした。結果的には一年ではなかったけど、あくまで延長にすぎない。終わりがあることに変わりはない。
 ――数分前の、目の前でご飯を食べるシュウちゃんの姿が浮かぶ。
「奇跡」ではなく「日常」になればいい。終わりなんて決まっていない、一緒にいるのが当たり前だと思える、そんな関係になりたい。
「……シュウちゃん」
 ぽつりと零れ落ちた名前。名前を口にしただけでぎゅっと痛み出す胸。変わるのは怖いけど。悪い方に変わると決まったわけじゃない。無意識のうちに指が唇をなぞる。できることならもう一度あの熱に触れたい。
 そっと息を吸い込んだところで、湿気を含んだ空気が流れてきた。
 ゆっくりと振り返れば、タオルを肩にかけたシュウちゃんがいた。眼鏡はかけていない。濡れた髪が黒色を濃くする。白い肌に残る熱が赤く浮かぶ。嗅ぎ慣れているはずの香りにすら心臓は揺れ、震えるように唇が動く。
「シュウちゃ」
「朔也」
 一瞬早く、シュウちゃんが俺の名前を呼んだ。
「髪、乾かしてもらっていい?」
 シュウちゃんが俺に何かを頼むことなんてあっただろうか。驚きと戸惑いに声が跳ねる。
「え、あ、うん」
「じゃあ、よろしく」
 手渡されたドライヤーの重みが、触れ合った手の熱とともに染み込む。
 リビングへと向かう背中を見つめながら、シュウちゃんの中で何かが変わったのではないかと、不安と期待で胸はいっぱいになった。