居酒屋の騒がしさもどこか遠く、頭の中は数時間前の出来事に占められていた。気になる。気になる。気になるけど、どうにもできない。
 運ばれてきたグラスをぎゅっと握る。水滴が指を濡らすのも構わず、その冷たさを染み込ませる。目の前に並んだコース料理。お腹は空いているはずなのに箸を伸ばす気にはなれない。
 ――あのあと、どうしただろうか。
 授業が終わる頃には、当然ながら二人の姿はもうなかった。出会ってすぐにどうかなるとは思えないけど。相手はあの美里さんだ。シュウちゃんが惚れてもおかしくはない。ざわざわとした心地悪さが膨らむ。もしかしたら、と想像すると胸が痛みを訴える。
「朔也? 聞いてる?」
「あ、ごめん。ボーっとしてた」
 隣に座る友人に声をかけられ、顔を上げる。
 飲み会開始から三十分が経過し、席を移動する人も増えていた。テーブルを挟み、いくつかのグループに分かれている。俺は誰とも話す気になれず動かずにいたが、移動するのが面倒という友人のおかげで一人にならずにすんでいる。そのことに感謝しつつも心はここにあらず状態だった。
 小さなため息のあと、友人がグラスを傾けながら言った。
「サヤさん、そろそろ来るかなって」
 今日の主役ともいえるサヤさんはまだ来ていない。サヤさんが昨日会った沙耶さんなのかはまだわからない。美里さんに会うまでは気になっていたはずなのに。今は美里さんとシュウちゃんの方が気になる。
「三十分くらい遅れるって先輩たち言ってたもんね」
 言葉を返しながら、視線を落とせば中途半端に残された料理が目に入る。
 本当なら今頃シュウちゃんと二人でご飯を食べているはずだった。自分から断っておきながら、そんなことを考えてしまう。時間が欲しいと思ったけど、結局はずっとシュウちゃんのことを考えていて、気にしていて……俺はなんのためにここにいるのだろう。
 会えなかった三年間。母さんたちのおかげで手に入れた今の生活。
 ――シュウちゃんに振り向いてもらうために頑張るのではなかったのか。
 もとからこの恋は簡単には叶わないってわかっていたのだから。シュウちゃんに好きなひとがいても、忘れられない人がいても、それで諦められるような気持ちなら離れている三年の間に消えていたはずだ。
「俺、やっぱり」
 帰るわ、と言いかけた言葉は膨らんだざわめきに掻き消された。
「遅れてごめんね」
 店員に案内されて入ってきたのは、沙耶さんだった。「やっと来た」「おつかれー」と声が飛び交い、視線が集中する。「え、可愛い」「美人」俺と同じ一年生たちが小さく言葉を漏らす。沙耶さんに会ったことのある人の方が少ないらしい。
「じゃあ、お祝いしますか」
 部長の声に全員が沙耶さんの方へ向き直る。
 もう抜けようと思っていたが、さすがにこのタイミングでは出づらい。大人しく周りに合わせつつも、いつ抜け出そうかとそればかり考えていた。

「ごめん。先、抜けるわ」
 落ち着いてきたところを見計らい、友人に声をかける。飲み会代は先に払っているので帰ることだけを伝えておけば問題ないだろう。
 一瞬「今?」と驚いた表情を見せた友人だったが、何かを察したのか「りょーかい。頑張れよ」と返してきた。なんと答えればいいかわからず、小さく頷いてから立ち上がる。
 呼び止められないよう、リュックを手に持ち、トイレに行くくらいの雰囲気で部屋を出る。ざわめきを背に廊下を進み、靴を取り出そうとしたところで「朔也くん、だよね?」と声をかけられた。びくりと肩を揺らせば、
「ごめんね。驚かせちゃった?」
 と柔らかな声が小さく弾む。
 振り返ると沙耶さんが立っていた。
「帰るの?」
「あー、はい……」
 失敗したかな。できれば誰にも見つかりたくなかった。「途中で帰るなんて」と引き止められてしまうだろうか。早く帰りたい気持ちと先輩である沙耶さんを無視できない気持ちがぐるぐると混ざり合い、視線が不安定に揺らぐ。
「じゃあ、外まで一緒しようかな」
 え、と戸惑う間もなく沙耶さんはスカートのポケットから靴箱の鍵を取り出す。
「ちょっとだけだから」
 お酒のせいで赤く染まった頬。軽く弾む声。笑っているのに、その表情にはどこか寂しさが隠れている気がして。断ることはできなかった。小さく頷き返し、白いパンプスの隣へとスニーカーを置いた。
 ビルの中のエレベーターは狭く、扉が閉まるとふわりと甘い香りが膨らんだ。前に立つ沙耶さんの香りだろう。視線を向けるのが躊躇われて、階数表示を見つめる。
「昨日はごめんね」
 エレベーターが動き出してしばらくすると、沙耶さんが振り返った。
「いえ、送ってくれてありがとうございました」
 頭を下げたところで到着を知らせる音が鳴る。開いた扉から外へと出れば、夜に染まった風が頬を撫でる。昼間の蒸し暑さはだいぶ和らいでいた。
 看板や建物のライトで周囲は明るく、仕事帰りの人が駅へと波を作っていた。コツ、とヒールの音が止まり、倣うように足を止める。ビルの入口。エレベーターと階段に挟まれた空間。決して広くはないが外に出るよりはゆとりがある。
「……修一、大丈夫だった?」
 見上げられ、落とされた名前。
「だ、いじょうぶです。午後にはもう大学来てましたし」
 一瞬、昨夜の熱を思い出してしまい、声がわずかに上擦る。
「そっか。じゃあ、私はすれ違っちゃったんだな」
 ふわりと柔らかく微笑まれる。美里さんは「美人」の印象が強いけど、沙耶さんは「可愛い」の方が合っている気がする。
 昨日最後に見えた表情が重なる。シュウちゃんは「彼女はいない」と言っていたけど。でも「彼女がいた」ことはあるのではないだろうか。
 ――さ……や。
 零れ落ちた名前。二人は付き合っていたのだろうか。本当はお互いまだ好きなのにすれ違っているだけなのかもしれない。
「……あの」
 自分勝手に嘘をついたこと、手首を掴んで引き留めたことが思い出される。美里さんとシュウちゃんに対する罪悪感が沙耶さんに対する言葉となって落ちていく。今度こそシュウちゃんのために俺は動くべきではないだろうか。
「沙耶さんって」
「朔也くんは修一の好きなひと知ってる?」
 重なるように問いかけられ、吐き出すはずだった言葉が引っ込む。
 シュウちゃんの好きなひと。聞いたことはない。
 でも、あのときシュウちゃんが呼んだのは……。
「朔也くんも知らないのか」
 残念、と沙耶さんが小さく笑う。
「あれは年季の入った片想いだと思うんだけどなぁ」
 繋げられた言葉に、コクリ、と唾を飲み込む。
「年季の入った……」
「うん。だって私と付き合う前からだもん」
 付き合う前。さらりと言われて一瞬飲み込めなくなる。
「あ、えっと、沙耶さんとシュウちゃんって」
「付き合ってたの。三年前」
 もしかしたらと思っていたけれど。はっきりと告げられ、思った以上に胸が痛くなる。シュウちゃんと沙耶さん。並んだところを想像してしまう。美男美女。二人とも空気が柔らかくてきっとお似合いだったに違いない。
「振られちゃったけど」
「え」
「あ、振ったのは私か。でも、修一には好きなひとがずっといたんだから『振られた』のと同じよね」
 明るく弾ませた声。顔は笑っている。でもこれはお酒のせいではなく、沙耶さん自身がそうしないといられないからではないだろうか。沙耶さんはきっとまだシュウちゃんのことが好きなのだろう。でもシュウちゃんの中にはほかの人がいる。それもずっと前、少なくとも三年以上前から。
 昨夜のことが思い出される。掴まれた腕。引き寄せる強い力。触れ合った熱。抱き締め返した腕は振り払われなかった。もしかして、と浮かんだ期待。
「引き止めてごめんね」
「いえ……」
 ――ごめん。
 もしも、あのとき呼んだのが沙耶さんではないのなら。シュウちゃんは誰に謝ったのだろう。
 ――よく覚えてないんだけど。
 本当に何も覚えていないのだろうか。そう考えて、シュウちゃんは「全く覚えていない」とは言わなかったことに気づく。「よく覚えていない」というのはどこからどこまでを覚えていて、何を覚えていないのか。
「……」
 シュウちゃんは優しい。優しくて嘘が下手で、いつだって俺のことを優先する。そんなシュウちゃんが酔っていたという理由だけで、俺にキスをしたのだとしたら謝るだろう。「あんなことしてごめん」ってきっと言う。昨夜の「ごめん」はそういう意味だろうか。でも、今朝は言われていない。
 覚えていなかったから? それとも――。
 顔が見られず、逃げるように部屋を出た今朝の自分を思い出す。三年間会えなかった間に膨らみ続けた想い。好きだと自覚する前からずっと大切で。幼馴染でよかったと思いながら、幼馴染ではもう足りなくて。意識すればするほど普通には振舞えなくて、それで……。
 確かめたい。ちゃんとぶつかって、伝えたい。シュウちゃんが誰を想っているのか知りたい。
 聞いてもいいだろうか。言ってもいいだろうか。
 ――ごめんな。
 シュウちゃんの答えがあのときと同じでも。俺の気持ちは変わらない。ここまでずっと思い続けてきたのだ。簡単に変えられないことなんて、自分が一番わかっている。変えられないなら、諦められないなら、素直にぶつかるしかないじゃないか。
「朔也くん?」
「あの、俺、帰ります」
 ドタキャンした約束。シュウちゃんはまだ帰ってないかもしれない。美里さんとうまくいってしまったかもしれない。それでも、想いを抑えることはできなかった。
 ――シュウちゃんに、会いたい。
「朔也くん」
 駆け出そうとしたところで名前を呼ばれる。
「修一に言っておいて」
 心はすでに駅の方角を向いていたので、顔だけを振り返らせる。
「友達の誕生日くらい覚えておいても損はないよって」
 そう言って笑った沙耶さんの顔には寂しさよりも明るさが浮かんでいて
「伝えておきます!」
 思わず大きな声で答えてしまった。