落ちたため息が電車内の冷房に溶けていく。窓に映る自分を残して景色が過ぎていく。
――予定すっぽかさなくてよかったじゃん。
優しいシュウちゃんの言葉が耳の奥で蘇る。少しくらい怒ってくれてもいいのに。寂しそうにしてくれてもいいのに。そこまで考えて、シュウちゃんがどんな顔をしていたのかうまく思い出せないことに気づく。見なかったのは、見ないようにしていたのは自分だ。
「……っ」
ほんの少し気を緩めただけで蘇る。
記憶はまだ鮮明さを失ってはくれない。掴まれた腕が、一瞬で視界を埋めたシュウちゃんの顔が、押し潰されるように触れ合った熱が体の中で膨らみ続ける。抱き締めたシュウちゃんの細さにぎゅっと心臓が反応したことも。
昨夜のことを覚えているのか確かめるのが怖くて。「ごめん」と謝られるのも、「間違えた」と言われるのも、どちらも受け入れられそうになくて。何も言われないのをいいことに逃げた。
――さ……や。
シュウちゃんが見ていたのは自分ではなかった。ぎゅっと痛みが走った胸を押さえる。こんなにも苦しいのに、初めて触れた熱を反芻せずにはいられない。悲しくてたまらないのに、手放すことができない。シュウちゃんを諦めるべきだという自分と、シュウちゃんを求めてしまう自分。どちらも存在していて、どちらにも振り切れない。このままでは自分がシュウちゃんに何を言うかわからなくて、シュウちゃんを傷つけてしまいそうで……怖かった。
せめて今日一日、冷静になる時間が欲しい。
この想いを自覚してから、シュウちゃんと離れることを望むのは初めてかもしれない。
建物を出た途端に浮かぶ汗。外廊下の屋根でも塞ぎきれない日差しが肌を焼く。午後一時を回り、蒸し暑さは増す一方だ。
「予定あったんじゃなかったっけ? いいの?」
学食から講義棟へと向かう途中。サークル席での先輩とのやり取りを見守っていた友人に言われた。学科が同じで入学してすぐに仲良くなり、今のサークルに誘ってくれた。「飲み会欠席する」とシュウちゃんとの約束が決まってすぐに連絡をした相手でもある。
「うん。……大丈夫」
予定がなくなったとか、変わったとか言い方は色々あるはずなのに。どれもうまく言葉にできない。ひどく曖昧な答えしか出てこない。
どこかでまだ期待しているのだろうか。
シュウちゃんの中に自分以外の人がいるとわかった今でも。
「そういえば、今日サヤさんの誕生日お祝いするらしいよ」
「……サヤさん?」
シュウちゃんを送り届けてくれた女性の姿が一瞬で思い出される。名前を呼ぶシュウちゃんの声も。冷たい水を飲み込んだように胸に痛みが走る。
「朔也、まだ会ったことないっけ? まあ、四年生だからほとんど来てないけど」
「それって」
もしかして、と続けるはずだった言葉は耳に飛び込んできた声に遮られる。
「高梨くん」
目的の講義棟の前、こちらに手を振っているのは美里さんだった。同じ大学とはいえ、学部も学年も違うので構内で会うことはあまりない。ちょいちょい、と手招きされて近づけば
「あそこにいるの、昨日の人だよね」
と開いた自動ドアの先を視線で示される。
冷房の風が肌に触れ、蒸し暑さが攫われる。自然と零れた息を追うように顔を向ければ、教室のドアの前で数人の学生が立ち話をしていた。白衣を着ていてもわかる線の細さ。肩の上で無造作に結ばれた黒髪。眼鏡はかけていない。
――シュウちゃんだ。
「そうですけど」
戸惑いながらも答えれば、にこりと微笑まれる。
「だよね。よし、行ってくる」
「え、美里さん?」
思わず追いかけるように建物の中に踏み込む。
「大丈夫。高梨くんには迷惑かけないよ。これはあくまで私が自分で決めたことだから」
自分で決めたこと。そう言われたら何も言えない。嘘をついた罪悪感が疼きだす。美里さんの行動を俺が止めていい理由なんてどこにもない。美里さんがどうするかは美里さんが決めることで。美里さんにしか決められない。シュウちゃんも同じだ。シュウちゃんがどうするかはシュウちゃんにしか決められない。俺が口を挟めることじゃない。
――そんなの、わかっている。
シュウちゃんにとって俺はただの「幼馴染」で「同居人」でしかない。一緒に住むことは許されても部屋には入れてもらえない。家事や勉強のことで頼りにすることは許されても、それ以上の迷惑はかけられない。今の関係を変えたいなんて望むことすら許されないだろう。
コツコツと美里さんのヒールの音が響く。引き止める理由も邪魔をする権利も俺にはない。
――本当はずっとわかっていた。
これはワガママでしかない。シュウちゃんをとられたくない。独り占めしたい。どうしようもないほどの独占欲。子供がおもちゃをとられたくないと主張するのと同じ。一方的な想いにすぎない。
「……」
シュウちゃんはまだ気づいていない。小さく肩を震わせるようにして友達と笑っている。
シュウちゃんの笑った顔が好きだ。クスクスと小さく笑うところも。「朔也」と名前を呼ぶ声も。前を歩く細い背中。手を引く温かな手。ずっと変わらない。身長が追いついても、そばにいられるようになっても。俺の中のシュウちゃんは変わらず俺の手を引いて、守るように半歩前を歩いてくれる。
どうしても譲れない。譲りたくない。シュウちゃんだけは誰にも渡したくない。シュウちゃんの気持ちが俺になくても。ずっと大切にしてくれていたのは知っているから。そんなシュウちゃんだから俺は好きになったのだ。
「あの」
踏み出すと同時に伸びた手。気づけば美里さんの手首を掴んでいた。細くて折れそうで、自分とは違う。
「え」
驚き振り返った美里さんの向こう
「朔也?」
シュウちゃんが名前を呼んだ。今朝のやり取りと昨夜の出来事が一瞬で蘇る。苦さと甘さと痛みと熱と。この想いはシュウちゃんに許してもらえるものではないけど。でも、俺のものであることに変わりはないから。どうするかは俺が決めていいはずだ。
「シュウちゃ」
呼びかけた名前はチャイムの音に掻き消された。
「朔也、早く」
ドアの前で待っていてくれた友人に呼ばれる。
「高梨くん?」
美里さんは手を振り払うことなく、立ち止まったままこちらを見上げている。――また邪魔してしまった。重なる罪悪感に苦さが込み上げる。
「っ……美里さん、すみません」
「え、え」
戸惑う美里さんの手を離し、ドアの方へと走る。
シュウちゃんの顔は見ていない。何を思っただろうか。いや、何も思わないだろうか。
「知り合い?」
「……まあ」
どちらのことを言われたのかわからず曖昧に頷く。
空いている席に腰を下ろすと同時、教授が入ってきて会話は終了した。
――何をしているのだろう。
ノートを開きながらも、頭の中では先ほどの光景が再生される。美里さんはどうしただろうか。シュウちゃんはどうするだろうか。もやもやと膨らむ心地悪さを押し込むように、エアコンの風を吸い込む。痛いくらいの冷たさが体に広がっていった。
――予定すっぽかさなくてよかったじゃん。
優しいシュウちゃんの言葉が耳の奥で蘇る。少しくらい怒ってくれてもいいのに。寂しそうにしてくれてもいいのに。そこまで考えて、シュウちゃんがどんな顔をしていたのかうまく思い出せないことに気づく。見なかったのは、見ないようにしていたのは自分だ。
「……っ」
ほんの少し気を緩めただけで蘇る。
記憶はまだ鮮明さを失ってはくれない。掴まれた腕が、一瞬で視界を埋めたシュウちゃんの顔が、押し潰されるように触れ合った熱が体の中で膨らみ続ける。抱き締めたシュウちゃんの細さにぎゅっと心臓が反応したことも。
昨夜のことを覚えているのか確かめるのが怖くて。「ごめん」と謝られるのも、「間違えた」と言われるのも、どちらも受け入れられそうになくて。何も言われないのをいいことに逃げた。
――さ……や。
シュウちゃんが見ていたのは自分ではなかった。ぎゅっと痛みが走った胸を押さえる。こんなにも苦しいのに、初めて触れた熱を反芻せずにはいられない。悲しくてたまらないのに、手放すことができない。シュウちゃんを諦めるべきだという自分と、シュウちゃんを求めてしまう自分。どちらも存在していて、どちらにも振り切れない。このままでは自分がシュウちゃんに何を言うかわからなくて、シュウちゃんを傷つけてしまいそうで……怖かった。
せめて今日一日、冷静になる時間が欲しい。
この想いを自覚してから、シュウちゃんと離れることを望むのは初めてかもしれない。
建物を出た途端に浮かぶ汗。外廊下の屋根でも塞ぎきれない日差しが肌を焼く。午後一時を回り、蒸し暑さは増す一方だ。
「予定あったんじゃなかったっけ? いいの?」
学食から講義棟へと向かう途中。サークル席での先輩とのやり取りを見守っていた友人に言われた。学科が同じで入学してすぐに仲良くなり、今のサークルに誘ってくれた。「飲み会欠席する」とシュウちゃんとの約束が決まってすぐに連絡をした相手でもある。
「うん。……大丈夫」
予定がなくなったとか、変わったとか言い方は色々あるはずなのに。どれもうまく言葉にできない。ひどく曖昧な答えしか出てこない。
どこかでまだ期待しているのだろうか。
シュウちゃんの中に自分以外の人がいるとわかった今でも。
「そういえば、今日サヤさんの誕生日お祝いするらしいよ」
「……サヤさん?」
シュウちゃんを送り届けてくれた女性の姿が一瞬で思い出される。名前を呼ぶシュウちゃんの声も。冷たい水を飲み込んだように胸に痛みが走る。
「朔也、まだ会ったことないっけ? まあ、四年生だからほとんど来てないけど」
「それって」
もしかして、と続けるはずだった言葉は耳に飛び込んできた声に遮られる。
「高梨くん」
目的の講義棟の前、こちらに手を振っているのは美里さんだった。同じ大学とはいえ、学部も学年も違うので構内で会うことはあまりない。ちょいちょい、と手招きされて近づけば
「あそこにいるの、昨日の人だよね」
と開いた自動ドアの先を視線で示される。
冷房の風が肌に触れ、蒸し暑さが攫われる。自然と零れた息を追うように顔を向ければ、教室のドアの前で数人の学生が立ち話をしていた。白衣を着ていてもわかる線の細さ。肩の上で無造作に結ばれた黒髪。眼鏡はかけていない。
――シュウちゃんだ。
「そうですけど」
戸惑いながらも答えれば、にこりと微笑まれる。
「だよね。よし、行ってくる」
「え、美里さん?」
思わず追いかけるように建物の中に踏み込む。
「大丈夫。高梨くんには迷惑かけないよ。これはあくまで私が自分で決めたことだから」
自分で決めたこと。そう言われたら何も言えない。嘘をついた罪悪感が疼きだす。美里さんの行動を俺が止めていい理由なんてどこにもない。美里さんがどうするかは美里さんが決めることで。美里さんにしか決められない。シュウちゃんも同じだ。シュウちゃんがどうするかはシュウちゃんにしか決められない。俺が口を挟めることじゃない。
――そんなの、わかっている。
シュウちゃんにとって俺はただの「幼馴染」で「同居人」でしかない。一緒に住むことは許されても部屋には入れてもらえない。家事や勉強のことで頼りにすることは許されても、それ以上の迷惑はかけられない。今の関係を変えたいなんて望むことすら許されないだろう。
コツコツと美里さんのヒールの音が響く。引き止める理由も邪魔をする権利も俺にはない。
――本当はずっとわかっていた。
これはワガママでしかない。シュウちゃんをとられたくない。独り占めしたい。どうしようもないほどの独占欲。子供がおもちゃをとられたくないと主張するのと同じ。一方的な想いにすぎない。
「……」
シュウちゃんはまだ気づいていない。小さく肩を震わせるようにして友達と笑っている。
シュウちゃんの笑った顔が好きだ。クスクスと小さく笑うところも。「朔也」と名前を呼ぶ声も。前を歩く細い背中。手を引く温かな手。ずっと変わらない。身長が追いついても、そばにいられるようになっても。俺の中のシュウちゃんは変わらず俺の手を引いて、守るように半歩前を歩いてくれる。
どうしても譲れない。譲りたくない。シュウちゃんだけは誰にも渡したくない。シュウちゃんの気持ちが俺になくても。ずっと大切にしてくれていたのは知っているから。そんなシュウちゃんだから俺は好きになったのだ。
「あの」
踏み出すと同時に伸びた手。気づけば美里さんの手首を掴んでいた。細くて折れそうで、自分とは違う。
「え」
驚き振り返った美里さんの向こう
「朔也?」
シュウちゃんが名前を呼んだ。今朝のやり取りと昨夜の出来事が一瞬で蘇る。苦さと甘さと痛みと熱と。この想いはシュウちゃんに許してもらえるものではないけど。でも、俺のものであることに変わりはないから。どうするかは俺が決めていいはずだ。
「シュウちゃ」
呼びかけた名前はチャイムの音に掻き消された。
「朔也、早く」
ドアの前で待っていてくれた友人に呼ばれる。
「高梨くん?」
美里さんは手を振り払うことなく、立ち止まったままこちらを見上げている。――また邪魔してしまった。重なる罪悪感に苦さが込み上げる。
「っ……美里さん、すみません」
「え、え」
戸惑う美里さんの手を離し、ドアの方へと走る。
シュウちゃんの顔は見ていない。何を思っただろうか。いや、何も思わないだろうか。
「知り合い?」
「……まあ」
どちらのことを言われたのかわからず曖昧に頷く。
空いている席に腰を下ろすと同時、教授が入ってきて会話は終了した。
――何をしているのだろう。
ノートを開きながらも、頭の中では先ほどの光景が再生される。美里さんはどうしただろうか。シュウちゃんはどうするだろうか。もやもやと膨らむ心地悪さを押し込むように、エアコンの風を吸い込む。痛いくらいの冷たさが体に広がっていった。



