瞼が重かった。軽く寝返りを打っただけで頭が痛む。エアコンが動いているのにも関わらず、寝汗で体全体がべたついている。「気持ち悪い」と思うのにベッドから起き上がる気力は湧かない。
 見慣れた天井のライトは消えていて、カーテンの隙間から差し込む光が揺れている。朝、なのは確かだろう。
「昨日……」
 自分の声とは思えないほど掠れた声が出る。ズキズキと痛む頭の中で、昨夜の出来事が断片的に再生された。
 友人から別れた彼女の話を延々と聞かされ、適当なところで店を出た。
 ちょうど朔也もアルバイトが終わる頃だろう。駅で会えるかな、とお酒でふわふわした心地のまま歩く。湿気を纏った空気が肌に触れる。昼間のような蒸し暑さはないが、すっきりと心地良いとは言えない。夏の夜の濃さが体を包み込む。
 ――嫌いではないけれど。
 花火、夏祭り、キャンプ……夏の夜で浮かぶのは楽しかった思い出ばかり。そのすべてに朔也がいる。
 きゅっと胸の奥が鳴ると同時、朔也の名前が聞こえた。
 瞬間的に意識が引き寄せられる。商業施設を出てすぐの場所、斜め前を歩くふたつの背中が見える。朔也と、同じアルバイト先の人だろうか。声をかけようと口を開くよりも早く、会話が耳に入る。
 ――……紹介してくれない?
「ダ、ダメです!」
 朔也の声がはっきりと辺りに響いた。
 驚きよりも先、じわりと胸の奥から熱が滲む。思わず立ち止まってしまった俺の前、駅へと向かう二人の会話は続く。ドクドクと鼓動が揺れ始める。朔也が断ってくれたことに嬉しいと感じる自分がいて、今度こそ声をかけたいと思った。けれど、聞こえた声に踏み出したはずの足は動かなくなった。
「それともほかの人にも頼まれてる?」
「そ、そうなんですよ。内緒って言われてるんで言えなかったんですけど、友達に協力頼まれてて。だから美里さんには紹介できなくて」
 嬉しさを感じていた自分が一瞬で消え去る。
 わかっていたはずなのに。朔也にとっての俺は「年上の幼馴染」でしかないのだと。わかっていたのに。何を期待したのだろう。
 体から熱が引いていく。
 冷たい痛みが広がっていく。
 ぎゅっと握り締めた指さえ冷えていて、ほろ酔いの温かさはもうどこにもない。言葉にできたなら、感情をほんの少しでも外に出せたなら。ここまで苦しくはなかっただろうか。
 遠ざかる二人に背を向ける。駅ではなく、歩いてきた道を戻る。このまま会うことはできない。うまくごまかせる自信がない。自然と速くなる足を先ほどまでいたお店へと進めた。
「……っ」
 ベッドから動くことなく漏れた声。落ちたのは痛みか、後悔か。
 すべてを忘れられたならどんなによかっただろう。こんなの記憶を失ってしまった方がラクだ。お酒のせいで頭が痛い、体がだるい、でも記憶は消えていない。自制のきかない自分なんて思い出したくもないのに。
 朔也が俺と誰かがくっつくことを望んでいるのだとわかって苦しくて。笑って話しかける自信がなくて。友人たちのところへと戻り、聞いたばかりの言葉を酩酊で塗り潰した……はずだった。
 再びふわふわとした心地に、蓄えられた熱に体は満たされていた。ドアが開き、朔也の顔を見た瞬間、塗り潰されたのはべつのものだと気づく。
 抑えがきかない。心のままに体が動く。ぼやけた意識と本能に近い欲望。何も考えずに動くのは心地良かった。朔也がいる。朔也に触れられる。堪えてきた欲望はするすると隙間から溢れ出す。
 ――協力ってなんだよ。
「シュウちゃん」といつも呼んでくれたのに。あとをついてきてくれたのに。朔也にとっての俺はただの「幼馴染」でしかなくて、誰のものになろうと関係ない存在でしかなくて。
 ベッドに座らされ、腕を解かれる。ぼやけた頭とは反対に心ははっきりと望みを伝えてきた。
 ――離れたくない。手を離さないで欲しい。
 ダメだ、と抑える自分なんてどこにもいない。求める気持ちを止めることはできなかった。
 掴んだ腕の感触も、至近距離で結ばれた視線も、触れ合わせた熱も刻まれている。混ざり合う息の中で呼ばれた名前も。
 噛み締めた唇にあてた手が震える。
 気持ちを伝えることも確かめることもせず、押し付けた最低な自分。最低なのは自分なのに、朔也が拒絶しなかったことに、突き放すことさえしなかったことに「もしかしたら」と思ってしまった。
 つっと目尻から零れた熱が落ちていく。
「ごめん」
 返された熱の感触を反芻せずにはいられなくて、膨らんだ期待以上に自己嫌悪が増していく。
「さ……く、や」
 返された熱に浮かんだ期待を必死に沈める。「もしかしたら」が合っていたのだとしても。想いが通じたところで、この関係に未来なんてない。朔也の幸せを願うなら、気づかないフリをした方がいい。痛みは一瞬で、時間が過ぎればきっと消えていく。傷を深くする必要なんてない。

 空のペットボトルを手に部屋を出る。リビングへと続くドアは開いていて、カチャカチャと音がする。小さく息を吸い込んでから足を進める。
「……おはよ」
 先ほどよりはマシになった声。キッチンにいた朔也が水を止め、振り返る。
「おはよう、シュウちゃん」
 繋がった視線はすぐに解かれた。テーブルに置いたペットボトルが頼りなく音を立てる。
「俺、もう先に食べたんだけど。シュウちゃんはどうする?」
 朔也が持っていたお皿を水切り籠に立て、冷蔵庫を振り返る。その視線を追いながら
「いや、水だけもらうわ」
 と笑顔を作る。自分で、と動きかけた体は「オッケー」と返ってきた言葉に止められる。中身をなくして不安定になったペットボトルを指先で揺らしながら椅子に座る。
「はい」
 水の入ったグラスを俺の前に置くと、朔也は座ることなくリビングへと行ってしまう。壁の時計を確認すれば、時刻は午前八時。朔也は家を出る時間だろう。コクン、と水を一口飲み込む。
「ごめん、迷惑かけたよな。よく覚えてないんだけど」
 喉を通過した液体が、冷たい痛みとなって胸に落ちる。
 ソファに置いていたリュックを手に取る朔也は振り返らない。
「まあ……うん。シュウちゃんって、あんなふうに酔っ払うんだね」
 びっくりしちゃった、と続けられた声が微かに揺れた、気がした。思わず傾けていたグラスを戻しそうになるが、寸前で思いとどまる。俺は何も覚えていないことにするのだ、と。
「部屋まで運んでくれたんだよな? ありがとな」
「……うん」
 何かに耐えるような響き。俺以上に朔也の方が抑えているのかもしれない。沈めているのかもしれない。何が正しくて、何が正しくないのか。わからないけれど、俺が間違えるわけにはいかない。ざわつく胸の苦しさを水を飲み込むことで押さえつける。
 朔也、と名前を呼ぶよりも早く
「シュウちゃん」
 と名前を呼ばれる。こちらを振り返りながらも決して目は合わない。きゅっと一瞬引き結ばれた唇がゆっくりと動く。
「あの、今日なんだけど、俺から言っておいてごめんなんだけど、予定あったの思い出して」
 力なく笑われた表情に、繋がらない視線に無理をしているのだと伝わってくる。それでも立ち上がることはできなかった。握り締めた指先の雫が手の中に消えるように。
「そっ、か」
 迫り上がる感情から目を逸らす。
「うん。ごめんね」
「いいって。予定すっぽかさなくてよかったじゃん」
「……うん」
 自分から覚えていないフリを決めたのに、朔也に何も聞かれないことが苦しくてたまらなかった。
 朔也もなかったことにしたのだとわかって。
 ――昨夜の熱は俺たちの中で幻となった。