「ただいまー」
ドアを開けて反応したライトがパッと玄関を照らす。閉じ込められていた空気がむわりと肌を撫でる。
「……あれ?」
期待した声は聞こえず、リビングへと続く廊下は暗いまま。部屋にこもっているのかと思ったが物音はしない。鍵をかける音が鮮明に響くほど静かだ。声なんてかけなくても誰もいないのだとわかった。
靴を脱ぎながら数時間前の出来事を思い出す。シュウちゃんが俺のアルバイト先を出たのが午後七時半頃。このまま帰るとも、どこかに寄るとも言ってはいなかった。ポケットから取り出したスマートフォンにはなんのメッセージもない。
「珍しいな」
午後十一時。この時間にシュウちゃんが連絡もなく家にいなかったことはない。コンビニにでも行っているのだろうか。
リビングへと向かっていた足が止まる。
――ふ、ふは、さっきの何?
ようやく見られたシュウちゃんの笑顔が思い出される。
廊下に伸びる自分の影が先の暗闇に混ざる。
クスクスと弾む声がくすぐったくて、温かくて、もっと笑って欲しくて。同じ部屋に住んでいるのにどこか遠かったシュウちゃんが、今日だけは近くに感じられて嬉しかった。
幼馴染でも笑ってくれる。優しくしてくれる。でも、俺はもうそれだけでは足りない。もっとシュウちゃんのことが知りたい。シュウちゃんを誰にも渡したくない。そんなワガママが言えるくらい特別な存在になりたい。
――うーん、残念だな。好みの人だったのに。
美里さんの声が蘇り、ツン、と胸の奥が痛む。焦りと罪悪感と独占欲。シュウちゃんを好きだと自覚すればするほど自分が嫌なヤツになっていく気がする。
「……シュウちゃん」
こんな俺でもシュウちゃんは好きになってくれるだろうか。手の中のスマートフォンが明るくなる。ひまわりを背景に麦わら帽子を被った二人。この頃からきっと俺にとってシュウちゃんは「特別」だった。今も特別なことに変わりはないのに、同じ純粋さでは想えていない。少なくとも勝手に出会いを潰すような卑怯なことをこの頃の俺はしないだろう。
はあ、と吐き出したため息に苦さが混じる。自分の情けなさに気づきながらも、シュウちゃんを渡したくない気持ちが大きすぎて苦しかった。
止めていた足を進めようとしたところで、微かに声が聞こえた気がした。
閉めたばかりのドアを振り返る。シュウちゃんが帰ってきたのかと期待したが、次に聞こえたのはヒールの音だった。一瞬にして膨らんだ期待が萎んでいく。そっと息を吐き、再び体の向きを変えた、そのとき。
「修一、着いたよ」
耳に届いた名前にもう一度振り返る。黒いドアの向こうに感じる人の気配。響いていた靴音は止まり、小声で交わされる会話だけが聞こえてくる。
「え、あ、ほんとだ」
「ほんとだ、じゃなくて。鍵は?」
「鍵? いや、たぶん中にもう……」
「ちょっと、こんなところで」
「あの!」
気づいたときにはドアを開け、声をかけていた。
掴んだ取っ手の冷たい感触も、靴下越しの床の固さも認識することはできなくて。意識のすべては目の前の光景に持っていかれる。
「わ、びっくりした」
跳ねた高い声。見開かれた大きな目。シュウちゃんを支えるように立っていた女の人が俺を見上げる。ふわりと甘い香りが流れてきて、視線がシュウちゃんに触れている白く小さな手に向かう。ぎゅっと心臓を掴まれるような痛みが走る。
「朔也?」
眠そうな空気を纏って呼ばれた名前。シュウちゃんの顔は赤くて、瞼は半分しか開いていない。それなのに下がった目尻と薄く開いた口からは喜びのような感情が伝わってくる。
「……シュウちゃん」
こんなに緩んだ表情も、柔らかな笑みも初めて見た。
「ただいま」
するりと女性の手を離れたシュウちゃんがそのまま俺に抱きついてくる。何が起きたのかわからず、痛みに縮んでいた心臓が飛び跳ねる。首に腕を回され、お酒の匂いと体温が一気に流れ込んでくる。
「シュ、シュウちゃん」
ドアの取っ手を掴んだまま、動けなくなっている俺に
「ごめんね。修一がこんなに酔っぱらうこと滅多にないんだけど。わざわざ一度出たのに戻ってきて飲み直すとか、珍しいなとは思ったんだけど」
と女性は申し訳なさそうに眉を下げた。
「あ、えっと」
「修一の幼馴染だよね。ルームシェアしてるって聞いてるよ」
「あ、はい。高梨朔也です」
「如月沙耶です。修一とは一年のときからゼミが一緒で、今日もゼミのみんなで飲んでたんだ。そしたらこんな感じに……」
俺と如月さんの視線がシュウちゃんへと向かう。シュウちゃんの腕は変わらず俺に回されたままだ。
「ごめんね。あと頼むね」
カバンの中から取り出されたペットボトルが音を立てる。揺れた液体はもう半分もない。
「水分いっぱい取らせてあげてね」
差し出されたペットボトルを受け取れば、「じゃあ、よろしく」と笑ってエレベーターの方へと歩いて行った。少しだけ寂しさが見えたのは気のせいだろうか。
夢と現実を行き来しているシュウちゃんをどうにか部屋へと運ぶ。初めて入った部屋はスッキリと整理されていて、シュウちゃんの実家を思い出させた。閉じ込められていたシュウちゃんの匂いに跳ね続ける心臓を無視して、ベッドへと向かう。
「シュウちゃん。ベッド着いたよ」
靴を脱ぐときに一度離れたはずなのに、気づけばまたシュウちゃんに抱きつかれている。重み。体温。息に混ざるお酒の匂い。シュウちゃんの心臓の音。近づきたいと、触れたいと思っていたすべてが腕の中にあった。
「ん」
漏れた息が耳に触れ、シュウちゃんがさらに体を寄せてきた。ぎゅっと力を込められ、引き剥がせなくなる。
「っ……」
壊れそうな理性。奥へ奥へと集まっていく熱。これ以上一緒にいたら自分がどうなるかわからない。会えなかった三年間が、避けられているのではないかと膨らんだ不安が一瞬で解かれる。伸ばさなくても届いてしまっている。距離なんてどこにもない。
「シュウちゃん、俺」
抱き締め返してもいいだろうか。俺からも触れていいだろうか。
「ん……さく、や」
安心しきったような柔らかな声に、胸の奥が痛くなった。
「……」
シュウちゃんにとって今の俺は幼馴染でしかない。出会いを勝手に潰すような卑怯なヤツだけど。それでもシュウちゃんへの気持ちにだけは誠実でいたい。
そっと触れるだけの力で背中を支え
「とりあえず座って」
と体を屈める。ベッドにシュウちゃんを座らせ、首に巻かれていた腕を解く。
「お水、ここに置いておくね」
ヘッドボードにペットボトルを置き、ぼんやりと見上げてくるシュウちゃんに無理やり笑顔を作る。
「何かあったら呼んで」
「う……ん」
お酒のせいだってわかっていても、見慣れない蕩けた表情に心臓は揺れ続ける。本当にこれ以上はまずい、と自分でわかる。
「じゃあ」
と無理やり視線を外し、部屋を出ようと踏み出した瞬間。
ぐいっと強い力で腕を引かれた。そんな力あったんだ、と驚く間もなく振り向くと同時にシュウちゃんが立ち上がる。すべては一瞬で、それでいてスローモーションのように鮮明だった。
え、と零れた声は落ちなかった。
押し潰すように触れた熱。流れ込む吐息。理解よりも先に体が反応する。掴まれた腕を外し、自分からも求めていた。なんで、とか。どうして、とか。浮かぶ言葉のすべてがシュウちゃんとお酒の匂いに掻き消される。唇の先から高まっていく熱に抗えない。誰かと間違えてる? いや、でもさっきまで俺の名前を呼んでいたし。
――もしかして、シュウちゃんも……。
しまい続けた想いが期待に染まっていく。
はあ、と漏れる息が熱となって触れ合う。抑えてきたものが溢れる。このキスに意味なんてないのかもしれない。酔っているだけかもしれない。
それでも、シュウちゃんから始めたのだという一点が、俺を突き動かす。
「シュウちゃん」
息が混ざり合う距離のまま口を開く。
こんな状態で言うなんて卑怯かもしれないけど。俺はシュウちゃんの瞳に映っていると信じたい。
「俺……」
許されるなら。この行為に意味を与えて欲しい。
「シュウちゃんのことが」
向けられていた水面が揺れる。もっと奥まで入りたい。受け入れて欲しい。
「す」
「ごめん」
この距離でなかったら、聞き逃していただろう。さっきまで触れ合っていた唇が震えるように動く。
「ごめんな」
瞳が潤み始め、苦し気に表情を歪めたシュウちゃんの体から力が抜ける。倒れてきたシュウちゃんの体を支えつつも落とされた言葉の意味がわからず動けない。
「シュウちゃん……?」
夢の中へと堕ちていくシュウちゃんが小さく名前を呼んだ。
「さ……や」
ドアを開けて反応したライトがパッと玄関を照らす。閉じ込められていた空気がむわりと肌を撫でる。
「……あれ?」
期待した声は聞こえず、リビングへと続く廊下は暗いまま。部屋にこもっているのかと思ったが物音はしない。鍵をかける音が鮮明に響くほど静かだ。声なんてかけなくても誰もいないのだとわかった。
靴を脱ぎながら数時間前の出来事を思い出す。シュウちゃんが俺のアルバイト先を出たのが午後七時半頃。このまま帰るとも、どこかに寄るとも言ってはいなかった。ポケットから取り出したスマートフォンにはなんのメッセージもない。
「珍しいな」
午後十一時。この時間にシュウちゃんが連絡もなく家にいなかったことはない。コンビニにでも行っているのだろうか。
リビングへと向かっていた足が止まる。
――ふ、ふは、さっきの何?
ようやく見られたシュウちゃんの笑顔が思い出される。
廊下に伸びる自分の影が先の暗闇に混ざる。
クスクスと弾む声がくすぐったくて、温かくて、もっと笑って欲しくて。同じ部屋に住んでいるのにどこか遠かったシュウちゃんが、今日だけは近くに感じられて嬉しかった。
幼馴染でも笑ってくれる。優しくしてくれる。でも、俺はもうそれだけでは足りない。もっとシュウちゃんのことが知りたい。シュウちゃんを誰にも渡したくない。そんなワガママが言えるくらい特別な存在になりたい。
――うーん、残念だな。好みの人だったのに。
美里さんの声が蘇り、ツン、と胸の奥が痛む。焦りと罪悪感と独占欲。シュウちゃんを好きだと自覚すればするほど自分が嫌なヤツになっていく気がする。
「……シュウちゃん」
こんな俺でもシュウちゃんは好きになってくれるだろうか。手の中のスマートフォンが明るくなる。ひまわりを背景に麦わら帽子を被った二人。この頃からきっと俺にとってシュウちゃんは「特別」だった。今も特別なことに変わりはないのに、同じ純粋さでは想えていない。少なくとも勝手に出会いを潰すような卑怯なことをこの頃の俺はしないだろう。
はあ、と吐き出したため息に苦さが混じる。自分の情けなさに気づきながらも、シュウちゃんを渡したくない気持ちが大きすぎて苦しかった。
止めていた足を進めようとしたところで、微かに声が聞こえた気がした。
閉めたばかりのドアを振り返る。シュウちゃんが帰ってきたのかと期待したが、次に聞こえたのはヒールの音だった。一瞬にして膨らんだ期待が萎んでいく。そっと息を吐き、再び体の向きを変えた、そのとき。
「修一、着いたよ」
耳に届いた名前にもう一度振り返る。黒いドアの向こうに感じる人の気配。響いていた靴音は止まり、小声で交わされる会話だけが聞こえてくる。
「え、あ、ほんとだ」
「ほんとだ、じゃなくて。鍵は?」
「鍵? いや、たぶん中にもう……」
「ちょっと、こんなところで」
「あの!」
気づいたときにはドアを開け、声をかけていた。
掴んだ取っ手の冷たい感触も、靴下越しの床の固さも認識することはできなくて。意識のすべては目の前の光景に持っていかれる。
「わ、びっくりした」
跳ねた高い声。見開かれた大きな目。シュウちゃんを支えるように立っていた女の人が俺を見上げる。ふわりと甘い香りが流れてきて、視線がシュウちゃんに触れている白く小さな手に向かう。ぎゅっと心臓を掴まれるような痛みが走る。
「朔也?」
眠そうな空気を纏って呼ばれた名前。シュウちゃんの顔は赤くて、瞼は半分しか開いていない。それなのに下がった目尻と薄く開いた口からは喜びのような感情が伝わってくる。
「……シュウちゃん」
こんなに緩んだ表情も、柔らかな笑みも初めて見た。
「ただいま」
するりと女性の手を離れたシュウちゃんがそのまま俺に抱きついてくる。何が起きたのかわからず、痛みに縮んでいた心臓が飛び跳ねる。首に腕を回され、お酒の匂いと体温が一気に流れ込んでくる。
「シュ、シュウちゃん」
ドアの取っ手を掴んだまま、動けなくなっている俺に
「ごめんね。修一がこんなに酔っぱらうこと滅多にないんだけど。わざわざ一度出たのに戻ってきて飲み直すとか、珍しいなとは思ったんだけど」
と女性は申し訳なさそうに眉を下げた。
「あ、えっと」
「修一の幼馴染だよね。ルームシェアしてるって聞いてるよ」
「あ、はい。高梨朔也です」
「如月沙耶です。修一とは一年のときからゼミが一緒で、今日もゼミのみんなで飲んでたんだ。そしたらこんな感じに……」
俺と如月さんの視線がシュウちゃんへと向かう。シュウちゃんの腕は変わらず俺に回されたままだ。
「ごめんね。あと頼むね」
カバンの中から取り出されたペットボトルが音を立てる。揺れた液体はもう半分もない。
「水分いっぱい取らせてあげてね」
差し出されたペットボトルを受け取れば、「じゃあ、よろしく」と笑ってエレベーターの方へと歩いて行った。少しだけ寂しさが見えたのは気のせいだろうか。
夢と現実を行き来しているシュウちゃんをどうにか部屋へと運ぶ。初めて入った部屋はスッキリと整理されていて、シュウちゃんの実家を思い出させた。閉じ込められていたシュウちゃんの匂いに跳ね続ける心臓を無視して、ベッドへと向かう。
「シュウちゃん。ベッド着いたよ」
靴を脱ぐときに一度離れたはずなのに、気づけばまたシュウちゃんに抱きつかれている。重み。体温。息に混ざるお酒の匂い。シュウちゃんの心臓の音。近づきたいと、触れたいと思っていたすべてが腕の中にあった。
「ん」
漏れた息が耳に触れ、シュウちゃんがさらに体を寄せてきた。ぎゅっと力を込められ、引き剥がせなくなる。
「っ……」
壊れそうな理性。奥へ奥へと集まっていく熱。これ以上一緒にいたら自分がどうなるかわからない。会えなかった三年間が、避けられているのではないかと膨らんだ不安が一瞬で解かれる。伸ばさなくても届いてしまっている。距離なんてどこにもない。
「シュウちゃん、俺」
抱き締め返してもいいだろうか。俺からも触れていいだろうか。
「ん……さく、や」
安心しきったような柔らかな声に、胸の奥が痛くなった。
「……」
シュウちゃんにとって今の俺は幼馴染でしかない。出会いを勝手に潰すような卑怯なヤツだけど。それでもシュウちゃんへの気持ちにだけは誠実でいたい。
そっと触れるだけの力で背中を支え
「とりあえず座って」
と体を屈める。ベッドにシュウちゃんを座らせ、首に巻かれていた腕を解く。
「お水、ここに置いておくね」
ヘッドボードにペットボトルを置き、ぼんやりと見上げてくるシュウちゃんに無理やり笑顔を作る。
「何かあったら呼んで」
「う……ん」
お酒のせいだってわかっていても、見慣れない蕩けた表情に心臓は揺れ続ける。本当にこれ以上はまずい、と自分でわかる。
「じゃあ」
と無理やり視線を外し、部屋を出ようと踏み出した瞬間。
ぐいっと強い力で腕を引かれた。そんな力あったんだ、と驚く間もなく振り向くと同時にシュウちゃんが立ち上がる。すべては一瞬で、それでいてスローモーションのように鮮明だった。
え、と零れた声は落ちなかった。
押し潰すように触れた熱。流れ込む吐息。理解よりも先に体が反応する。掴まれた腕を外し、自分からも求めていた。なんで、とか。どうして、とか。浮かぶ言葉のすべてがシュウちゃんとお酒の匂いに掻き消される。唇の先から高まっていく熱に抗えない。誰かと間違えてる? いや、でもさっきまで俺の名前を呼んでいたし。
――もしかして、シュウちゃんも……。
しまい続けた想いが期待に染まっていく。
はあ、と漏れる息が熱となって触れ合う。抑えてきたものが溢れる。このキスに意味なんてないのかもしれない。酔っているだけかもしれない。
それでも、シュウちゃんから始めたのだという一点が、俺を突き動かす。
「シュウちゃん」
息が混ざり合う距離のまま口を開く。
こんな状態で言うなんて卑怯かもしれないけど。俺はシュウちゃんの瞳に映っていると信じたい。
「俺……」
許されるなら。この行為に意味を与えて欲しい。
「シュウちゃんのことが」
向けられていた水面が揺れる。もっと奥まで入りたい。受け入れて欲しい。
「す」
「ごめん」
この距離でなかったら、聞き逃していただろう。さっきまで触れ合っていた唇が震えるように動く。
「ごめんな」
瞳が潤み始め、苦し気に表情を歪めたシュウちゃんの体から力が抜ける。倒れてきたシュウちゃんの体を支えつつも落とされた言葉の意味がわからず動けない。
「シュウちゃん……?」
夢の中へと堕ちていくシュウちゃんが小さく名前を呼んだ。
「さ……や」



