「……シュウ、ちゃん」
 小さく開いた口から聞こえたのは自分の名前。声変わり前の幼い声が扇風機の風に重なる。揺れる前髪の隙間で浮かぶ汗。ローテーブルに広げられたノートの上で眠る幼馴染の顔は安心感で満ちている。兄弟のように育った年上の幼馴染に宿題をみてもらっている。朔也(さくや)の中にあるのはそれだけだろう。
 カラン、と氷が音を立てる。並んだグラスには同じだけ注がれた麦茶が入っている。半袖のシャツから伸びる日に焼けた腕に、握られたままのシャープペンシルの影が落ちていた。
 白く細い自分の腕とは違う。手の大きさも今は同じくらいだろうか。
「大きくなりやがって」
 中学生になった途端、朔也の身長は急激に伸びた。まだ抜かされてはいないが時間の問題な気がする。
 顔にかかった影に気づくことなく瞼は閉じられている。扇風機の風がこちらへと戻り、汗の匂いが浮かぶ。朔也が自分の知らない生き物になっていく気がした。
 ――シュウちゃん。
 まっすぐ見上げ笑う顔。きゅっと小さな手で握り返してくる力。自分を慕う姿は単純に可愛かった。弟のようだな、と。だから、こんな気持ちになるなんて思わなかった。
 ――……シュウ、ちゃん。
 聞こえた声に自分の心臓が跳ねるなんて。揺れたまま戻らなくなるなんて。守りたいとか、迷子にならないようにとか、そういう理由もなく触れたくなるなんて……思わなかった。
 幼馴染でも兄弟でもない。自分の奥から湧き出る感情は違う熱を持っている。気づいてしまった想いに心臓が反応する。バクバクと激しく動き、全身に血液を送り込む。熱くなっていく体とは反対に、指先は冷えていく。伸ばした先の影は震えていた。
「ん……シュウちゃん……」
 再び呼ばれた名前にビクッと体が震える。引っ込めた手を握り締める。耳の上に一瞬だけ触れた指は汗で湿っていた。
「ふ、あ、……あれ?」
 寝起きのぼやけた声が鮮明さを取り戻していく。上半身を起こし、きょろきょろと視線を彷徨わせる朔也。肩を滑るタオルケットに気づくと、向かいに座る俺をまっすぐ見つめた。
「シュウちゃん、ありがとう」
 無邪気な笑顔だった。幼い頃から知っている、そのままの朔也だった。
 ――変わったのは自分だ。
「宿題中に寝るなよな」
「ごめんなさい」
 しゅんと体を縮めながらも、久しぶりに入れてもらえた部屋に嬉しさを隠しきれていない。後ろで揺れる尻尾が見えるようだ。
「続き、やるぞ」
「うんっ」
 弾んだ声にぎゅっと胸が締めつけられる。表情には出さずに手元の問題集へと視線を落とす。
 ――これは正しくない。
 幼馴染として兄として自分を慕う朔也を裏切ることになる。傷つけることになる。
 この想いは正しくない。
 俺の正しさの基準は「朔也」だから。
 自覚した想いは胸のずっとずっと奥にしまった。

 三歳の年の差は会わない理由を作りやすい。中学生になった朔也はもともと部活で忙しくしていたし、俺もアルバイトを始めることで時間を埋めた。
 それでも、ふとした瞬間に会うことはある。
「シュウちゃん」と名前を呼ぶのも、見上げてくるのも変わらないけれど、体は大きく変わっていく。変わらないものと変わるものを見せ続ける朔也の姿に、想いは揺さぶられ続けた。
 閉じ込めた場所から滲む熱。気づかないフリに限界を感じ始めた頃、ようやく俺は物理的な距離を手にする。大学進学を理由に実家を離れた。帰らなければ会うことはない。寂しさはあったけれど、こうすることが互いのためだと思って押し込めた。会わないうちにこの想いは消えるだろう。これからもただの幼馴染としていられるだろう。
 そうして――三年の月日が流れた。
「今、なんて」
 聞こえた言葉にスマートフォンを落としかける。母の声を聞き逃さないよう、寝転がっていたベッドから飛び起きる。
高梨(たかなし)さんところの朔也くん、修一(しゅういち)と同じ大学なんですって』
「そうじゃなくて」
『来週にはそっちに行けると思うからよろしくね』
「よろしくって」
 姉が出て行ったのが先週。これからしばらくは一人暮らしなのだと思っていたのに。よりによって、なんで……。
『いいじゃない。しばらく会っていなかったんだから、面倒みてあげなさいよ』
「でも」
『修一はお姉ちゃんのところだったから不安もなかっただろうけど、朔也くんは初めて実家から離れて、いろいろ大変だと思うのよ』
「っ……」
 さすが母親。俺がどう言えば弱いかを知っている。不安そうな朔也の顔を一瞬で浮かべてしまった。
「朔也は俺のところでいいって言ってるの……?」
 三年、会わなかった。しまい続けた想いは完全に消えたとは言えないが、暴走はしないだろう。熱が滲むような衝動もない。会っても懐かしさしか感じなければ、本当に終わりにできるかもしれない。朔也に彼女がいる可能性だってある。そういう決定的なものを受け入れれば、きっと……。
『さあ。お母さんは話してないからわからないけど、まあ大丈夫でしょ。あなたたち仲良かったし』
「もしかして、朔也に何も言わずに勝手に」
『あ、宅配来ちゃった。じゃあ、よろしくね』
 インターフォンの音しなかったけど? そう突っ込むよりも早く通話は切られた。手元の画面から「母」の文字が消え、待ち受けにしている写真が表示される。
 ひまわりに囲まれ、お揃いの麦わら帽子を被った姿。十年以上前のものだ。機種が変わるたびに変えようと思いつつそのままになっている。朔也が設定してからずっと。変えたらショックかなって、勝手に思って。朔也のスマートフォンの待ち受け画像なんてとっくに変わっているかもしれないのに。向けられた笑顔に小さく息が漏れる。
「……大丈夫、だよ」
 俺の基準は今でも変わらないから。
 朔也を傷つけることだけは絶対にしない。

 いつもより念入りに掃除をする。朔也の部屋には本人より早く運ばれた段ボール箱が積まれている。勉強机もベッドも見覚えのあるものだ。
「本当に来るんだな」
 今さらのように思い、微かに疼いた胸を押さえる。
 ――ピンポーン。
 響いたインターフォンの音にドアを振り返る。この向こうに、いる。
 大きく息を吸い込み、跳ね続ける心臓を落ち着かせる。
「はーい」
 大丈夫。普通に。俺はただの幼馴染でしかないのだから。ゆっくりドアへと向かう。頭の中で成長した朔也の姿を思い浮かべる。きっと大丈夫。
 押し開けたドアの隙間から緩やかな風が入り込む。春の日差しを受け止める体は想像よりも大きい。もう見下ろせないんだな、と思った。
 見開かれた目が不安げに揺れる。
「お、久しぶり」
 背ぇ伸びたじゃん、と笑ってやれば「……うん」と見た目に合わない小さな返事が返ってきた。たった一言でも声が低くなっているのがわかる。
「なんだよ、緊張してんの?」
 俺もだけど、と心の中だけで呟けば
「久しぶり、だから」
 と硬かった表情が緩む。薄く赤みの差した頬が丸くなる。――無邪気、とは思わなかった。まっすぐ見つめてくるのも、眉を下げて笑うのも変わらないけれど。何かが違う気がした。
 落ち着かせたはずの心臓が再び揺れ出す。
「三年ぶりだもんな」
 玄関に迎え入れてから自然な仕草で背を向ける。スニーカーを脱ぐ気配を感じながらリビングへと足を進める。
「シュウちゃん、全然帰ってこないから」
 落とされた声に滲むのは寂しさだろうか。
「忙しかったからな」
 恋しさのようなものを感じたのは気のせいだろうか。
 顔を見ていなかったからわからない。
「シュウちゃん」
 呼ばれた声に振り返れば、朔也はすぐそばにいた。
 手をかけていたドアレバーが震え、ドアが自然と開いていく。
「よろしくね」
 微かに弾んだ声は春の風に溶けていった。