紗雪《さゆき》は、玄関でパンプスを脱ぐと、マスクを取りながらいつものように息子に声をかけた。
「ただいま、翼《つばさ》」
「おかえり」
 マフラーを解きながらリビングのテーブルに並んだおかずの皿をチェックし、紗雪は小さな歓声を上げた。
「わ、肉じゃが! 翼の肉じゃが、美味しいよねー」
 紗雪は、ローテーブルで既に夕食を済ませて缶ビールを呷るガタイの良い男子大学生の頭をワシワシと掻き乱す。
「うわ、だからやめろって!」
「え、いーじゃん。母と息子なんだし。
 いつもありがとね、翼」
「二十歳の息子にそれいい加減やめろ!!」
 なんだかんだで翼は自分のやることを許してくれる。紗雪はむすくれ顔の息子の頭にぽんと優しく掌を乗せた。

 紗雪は個別指導の学習塾の講師をしている。月から金まできっちり仕事を入れており、帰宅は夜10時近くになる。コマとコマの間のわずかな休み時間も次の授業準備に完全に消費され、休憩もないに等しい数時間をぶっ通しで子供達と向き合う。

「やっぱ美味しいなー。これだけ手料理できちゃう男子、絶対モテるね」
「女はまずカオ見るじゃん。料理の腕前見せる前に顔でアウトだし」
「翼は父さん似の美形だからそれはノー問題。あーでも、翼も照れ屋だよね。女子の前では怖い顔してそう」
 不意に頬を赤らめた翼の仏頂面に、紗雪はクスクスと笑う。
「ほら、その顔」
「ってかさ、生徒相手に今までがっつり喋ってきたんだから、とりあえず黙って食べろって!」
「はいはい」

 塾と家では喋りの質が違うんだよな、と紗雪はこっそり反論する。
 当然だが、塾では教える以外の会話は最低限にせねばならない。そんな緊張感を一気に緩められる家での時間は、紗雪にとって何より幸せなひとときだ。息子もなんだかんだで母親の話に付き合ってくれるし、仕事の後のビールは問答無用に美味しい。
「じゃ、俺そろそろレポートやるわ」
 翼は缶ビールの残りを大きく呷ると、自分の使った皿を持って立ち上がった。何気なく母親の遅い夕食に付き合ってくれている気遣いが伝わってくる。運んだ皿は自分で洗い、キッチンもなんとなく小綺麗に片付けておいてくれる。

「翼、いい男に育ったね。駿《しゅん》さん」
 自室へ戻る翼の背を見送った紗雪は、リビングのカラーボックスの上の小さな仏壇と写真に向かって笑いかけた。

 紗雪の夫の駿は、2年前の夏、交通事故で他界した。
 駿は、紗雪が新卒で入社した営業部の直属の上司だった。
 まだ若かった妻を病で失い、小さな息子を育てながら仕事をしているというのが彼の公然の噂だった。だが、そんな苦労を感じさせないスマートな容姿と優秀さは、多くの女性社員達から密かに熱い視線を集めていた。
 紗雪は営業部でその適性をメキメキ現し、やがて駿の補助的な仕事もこなすポジションになった。そんな中、紗雪と駿は急速に距離を縮めていった。
 その頃の紗雪は、他の男性からいくつもアプローチを受け、その数人と暫く付き合ってもみた。けれど、心から慕える相手は駿以外にいないと次第にはっきり感じるようになった。なぜ敢えてシングルファザーをと周囲からは反対されたが、そういう男の醸す魅力は紗雪にとってたまらなく甘く、心地よかった。
 入社四年目に駿と結婚した。それを機に、紗雪は会社を退職した。それまで寂しい思いをしてきた駿の息子——翼に、思い切り愛情を注いでやりたかった。
 結婚当時5歳だった翼は最初こそ紗雪を警戒したが、少しずつ無邪気な笑顔を紗雪に向けるようになっていった。

「紗雪の争奪戦、勝ち抜けてほんと良かった」
 ある夜、事後のベッドで駿が溶けるような眼差しで紗雪の髪を撫で、そんなことを言った。
「え、争奪戦?」
「あれ。紗雪に振られたせいで心折れた男子社員、社内に大勢いたの、知らなかったの? よりによって子連れの男選ぶとか、魔性の女らしいよなあって」
「は? 魔性の女? 何それ?」
「そういうとこだよ、紗雪の怖いとこは。自分の魔性に一ミリも気づかないとこ。俺も、もし紗雪に振られたら今頃どうなってたか」
「笑えるジョークだね」

 子供は授からなかったが、家族三人、この上なく幸せな時間だった。
 その幸せは、突然断ち切られた。
 あの夏の朝、いつものように慌ただしく出勤していく後ろ姿が、夫の最後のシーンになった。
「愛してる。行ってきます」
 玄関を出るドアで振り向いたあの笑顔は、紗雪の心から決して消えることはない。





「本城先生、LINEで質問させてもらったりって、できませんか?」

 金曜の最終コマの授業後。
 英語を担当する高3の男子生徒に、真顔でそう質問された。

「んー、北崎君、それはダメなんだ。
 質問があるなら授業時間内か、自習室に来るとか、そういう方法でね」

「……どうしてですか?」
 若い真っ直ぐな瞳が、紗雪をじっと見つめる。

 何と説明すべきか。
 特定の生徒と個人的な関係になるのはトラブルの元だからだよ、とは何となく言いにくい。

「……」
「……先生と生徒はそれ以上の関係になれない、って意味ですよね」

 何かが溢れそうな北崎君の視線を、紗雪はさりげなく断ち切る。講師は、そうせねばならない。
「……とにかく、授業中に思い切り質問して、先生を困らせてくれれば、先生はそれが何より嬉しいんだよ。わかるよね?
 じゃ、今日はここまで。ちゃんと宿題やっといでよ。もう本番が目の前に来てるんだからね」

 複雑な空気が生まれないうちに、表情を切り替えて微笑む。悲しげな眼差しを伏せ、北崎君はテキストを閉じる。
 彼の思いを和らげたくて、紗雪は赤マーカーの蓋を抜いて目の前のノートにぐるぐると大きな花丸をつけた。

「よし、今日もがんばりました!」
「子供扱いとかいらねーし」
 俯いたまま、北崎君は小さく呟いた。



「……今時の若い子って、どこか寂しそうだね」
 その日の帰宅後、紗雪は職場での出来事を何気なく口にした。
 どんなに割り切ってるつもりでも、時には愚痴ったり、思いを誰かに零したくなることもある。こういう情報は全て口外しないという約束を固く守れる翼にだからこそできることだ。

「え?」
「いや、今教えてる高3の男の子にね、LINEで英語の質問してもいいかって、子犬みたいな目で聞かれちゃって。断るのに困った」

 母の晩酌に付き合っていた翼が、グラスに伸ばしかけた手を止めた。

「……」

「背も高いし、勉強も理解早いし、可愛くてモテそうな子なの。なのに、よりによってこんなおばさんに甘えたがるとか、なんでだろうなあって。親御さんが厳しいとかなのかな?……翼は、そういう気持ちわかる?」

「……さあ」

 微かに眉間を寄せながら、翼はビールのグラスを大きく呷った。







 紗雪は、スウェーデンと日本のクォーターだ。一見誰も気づかないのだが。
 紗雪の父方の祖父は、スウェーデン人だった。祖父の実家は貿易商を営んでおり、祖父はその事業の一環で日本へ来ていた間に祖母と知り合い、結婚した。戦時中は夫婦はスウェーデンで過ごしたそうだが、戦後日本へ戻り、事業の収入を十分に得た豊かな暮らしをしていた。
 すらりとした長身に、銀色の髪、灰青色の瞳。品良く温かい雰囲気を常に醸す、美しい祖父だった。

 少女時代の紗雪は、夏休みなどの機会にこの祖父の瀟洒な洋館風の家へ遊びに行くのが大好きだった。彼の書斎のソファで一緒に本を読んだり、祖父と他愛無いお喋りをするその時間の一瞬一瞬が、紗雪の宝物になった。

「仲良くなりたい相手の瞳は、真っ直ぐ見つめなさい。愛する人には、たくさん触れるんだよ、紗雪」
 祖父は、滑らかな日本語でいつも紗雪にそんな言葉を教えた。

 ある夏の日、祖父の家で二人きりで過ごす一日があった。他の家族はどこかへ遊びに出かけたのだったか、理由はよく覚えていない。
 祖父の書斎の分厚い物語にも興味を持ち始めた紗雪は、ソファに腰掛けた小さな膝に重い本を載せ、夢中でページをめくっていた。

「紗雪」
 テーブルにクッキーの皿と紅茶を二つ置き、紗雪の横に座りながら、祖父が呼びかけた。

「ん?」
 顔を上げた紗雪の額にかかった髪を、祖父の綺麗な指が優しく整える。
「愛してる」
 すい、と、なんでもないことのように唇が重なった。

「……」
 肩を優しく抱き寄せられた紗雪は、びっくりして目をぱちくりさせた。

「これは、紗雪とおじいちゃんだけの秘密だ」

 間近で視線を合わせ、悪戯っぽい目でクスッと微笑む祖父に、紗雪は無邪気に笑い返した。
「——うん、わかった。秘密ね、絶対」

 おじいちゃまとの、二人だけの秘密。
 それは紗雪にとってどこかくすぐったく、たまらなく甘い約束だった。
 祖父は、紗雪の瞳をじっと見つめ、言葉を続けた。
「紗雪の瞳は、ほんの少しだけ、灰色と青が混じってるね。おじいちゃんの目の色の遺伝だ。よく見つめなければ気づかないくらいの色合いだけど……魔法がかかったような、美しい瞳だ。
 紗雪。大切な人の瞳は、真っ直ぐに見つめなさい。愛したい人には、たくさん触れなさい。人を愛するとき、一番大切なことだ」
 温かく真摯な祖父の表情が、柔らかに綻ぶ。

「うん。わかった」
「いい子だ。
 紅茶、冷めないうちにお上がり」
「わ、これさゆきの大好きなクッキーだ!」

 そうして、書斎の空気はいつもと変わらぬ明るい静けさに戻っていった。


「約束、守ってるよ。おじいちゃま」
 メイクをする鏡の前で、紗雪は小さく微笑む。
 紗雪が高一の時、祖父は静かに他界した。
 けれど、紗雪は忘れたことはない。あの温かく美しい面影と、あの夏の日を。
 彼が何度も紗雪に教えた、あの言葉を。

 おじいちゃまの言う通りだった。
 紗雪が真っ直ぐに見つめた相手は、必ず紗雪を愛してくれた。
 指や身体が微かにでも触れ合うことを、どんな男たちも喜んでくれた。
 おじいちゃまの言葉は、やっぱり本当なんだね。

 思えば、駿の醸す品の良い温かさも、祖父によく似ていた。

 結局、自分が一番愛した男は、祖父だったのかもしれない。
 紗雪は、鏡の中の自分の瞳を静かに覗き込んだ。







 金曜の夜。
 仕事を終えて夜道を歩く紗雪に、背後から声がした。

「先生」

 街灯の下で振り返ると、息を切らした北崎君が立っていた。

「どうした? あれ、さっき授業終わって帰ったよね?……え、質問?」
「違います」

 北崎君は、紗雪に歩み寄ると、意を決したように口を開いた。

「好きです。
 俺、本気です」

「……」

「先生、旦那さんを事故で亡くしたって、以前言ってましたよね。
 俺、あと数ヶ月で、高校終わります。
 高校卒業したら、俺と、付き合ってもらえませんか」

「ね、ねえ待って北崎君?
 私、今幾つか知ってる? 何ならもうアラフィフだし、二十歳の息子いるし……あっ、マスクでごまかされてる? じゃ取るからよく見て」

 マスクを外して北崎君に顔を近づける紗雪を、彼はぐっと見据える。
「……ガチでそういうの全部、関係ないですから」

 その瞳の真剣さを、もはや無視することはできない。
 紗雪は、空を仰いですうっと一つ息を吸い込む。
 静かに顔を戻すと、北崎君を真っ直ぐ見つめて淡く微笑んだ。

「——なら、一つ、提案。
 4年後、君が大学を立派に卒業して、もしその時に私のことをまだ覚えていたら——その時には、友達になろう。
 そこからで、どう?」

 唇を噛み、しばらく俯いた北崎君は、再び紗雪を見つめ返した。

「わかりました。
 いつも横で見つめてくれた先生の眼差し、忘れたりできないんで。一生」

 紗雪は、ほっと息をついて微笑む。
「うん。
 じゃ、今はもう他のことは忘れて。ちゃんと勉強に向き合いなさい」

「はい」
 北崎君は静かに頷くと、くるりと背を向けて遠ざかった。



「ただいまー」
 帰宅した紗雪に、返事はない。部屋は真っ暗だ。
 テーブルには、美味しそうなおかずがラップをかけられている。
「あれー。珍しいね」
 リビングの照明をつけると、紗雪はまっすぐ冷蔵庫へビールの缶を取りに向かった。







 紗雪と別れた後、暗い曲がり角を折れた北崎の前に、男が立っていた。

「……!」
 北崎はギョッとして立ち竦む。

 待ち伏せていたかのように、男は北崎に近づくと、彼の耳元で囁いた。

「彼女にこれ以上近づくな」

 北崎は、思わず怯みそうになる顔を上げて、その大きな男を睨み返す。
「——誰だ、あんた」

 それには答えず、男は逞しい肩を一層北崎に近づけ、静かに微笑んだ。

「あの人は、俺の母親だ。
 これからも、俺はあの人の傍を離れない。
 彼女は、誰にも渡さない」

「——は?
 あんた、気違いかよ!?」

「そうかもな」

 男はふっと小さく嗤うような息を漏らすと、そのまま暗闇に遠ざかっていった。


                 〈了〉