麗らかな春の日差しに照らされて、風が髪を撫でるように弄んだ。風と共に振り返っている、少し前にいる彼は目元を柔らかくして屈託なく笑った。それにつられてつい微笑み返すと、急に見える世界がぼんやりと曖昧になっていった。それがいったい何なのか気づいた時には、沢山の花びらが私と彼の間を通って、二人を隔てるように視界一面に広がり覆いつくした。私も一種の「花びら」を散らしていることを、彼にはきっと知られていないだろう。桜吹雪が舞う大学の街並みが、美しく輝いている穏やかな世界。その桜こそが、正反対な私の情けない姿を隠してくれた。
 雫が頬を伝って落ちたその瞬間、今までの過去が一気に再生された。その記憶は、私を縛るように、はたまた解放するかのように流れ込んで離さなかった。儚くて、でも消え去ることもなくて、今となってはあまりにも奇麗すぎて手に負えない、そんな日々だった。そこに確かに残るのは、一つの幸せだった。胸を張って心の中で宣言した私は、満足気に口角を上げながら目を瞑って甦る記憶に身を委ねた。


ーーーあの幼い頃とは違うのだ。「先生」と「生徒」という、曖昧な関係だった頃とは。



【1人目】同じ高校の先輩で、私とは正反対な明るい元運動部で理系の先生

 高校二年が終わり三年生になる準備期間である春休み。冬から塾に通い始めた私は、今日も当然のように勉強をしに行くために電車に乗る。三階建ての建物の最上階にあるため、エレベーターに乗って三階へ降り立つ。少し広い場所にある二つの塾。左は高校受験向けの集団塾で、右は小学校から高校までの個別塾である。中学生の時にお世話になった先生たちの顔ぶれは変わっておらず、視線を自動ドアの奥へ向けていると書類整理していた先生と目が合って、私が軽く会釈したので先生は手を振って応えてくれた。
 もう1年以上は口をきいていないため、なんとはなしに気まずかった。そそくさと前を通り過ぎて右の方へと向かう。そのまま何も考えずにもう一つの塾の方へ入ろうとしたので、ゴツンと頭をぶつけてしまった。寝不足気味のせいで、暗証番号を入れないと開かない入口であることを忘れていた。鋭い痛みが走った額を手でさすりながら、パスワードロックの自動ドアに立ち、「8739」と画面をタップして、エンターボタンを押そうとした。その寸前、右手を空中で止めてふと思った。「花咲く」なんてそんな簡単じゃないのにな。その後ろ側にどれだけの苦労があるかなんて、当の本人にしか知り得ない。

例として挙げられるのは桜だ。1年間準備をした上で漸く蕾が熟れ始めたと思ったら、2日程で散ってしまう。それをこぞって見に行く私たち人間を、「サクラ」たちはどのように思っているのだろうか。都合のいい奴だと罵るように、花弁を散らしているように思えるのは、自分だけなのだろうか。
 昔からこういう自分の考え方が、どうしても好きになれなかった。すぐに諦めて悟って、あたかも全てを理解している大人のように高みの見物をする私が、恥ずかしくて情けない。逆に、明るくて積極的でなんでも全力で取り組む生徒が多い私の高校は、私とは全然違っている。まるで私がその高校に入学したこと自体が間違っているのかもしれないと感じられて、入力された番号をぼうっと眺めていると自然とため息がこぼれた。
 そんな時、急にドアが開いた。ショートボブでくりっとした目が特徴的な、20代くらいの女性が私を真正面から見つめている。その顔色は不安に満ちているみたいだった。彼女はその若さにして塾長であり、その理由は親しみやすさにあるのだろうなと勝手に予測している。おそらくだが。

 「大丈夫!?鈍い音が聞こえて、びっくりしたよ。結構強くぶつけたんじゃない?」
 「…大丈夫ですよ。少々ぼうっとしていたかもしれません。見なかったことにして頂けますか、恥ずかしいので」

 頭の痛みをこらえながら、無理に笑いながら言うと、彼女も笑っている。同時に、印刷機で教材の印刷をしていた先生も、にやにやと笑っているのに気がついた。声を押さえているが、肩が震えているため隠しているつもりでもバレバレである。
 すらっと長い手足は、彼の身長が高いことを分かりやすく示している。短く切りそろえた髪は流れるようで、清潔感を醸し出している。少し細めの目が私の姿をしっかりと捉えているので、私は無意識のうちに非難がましい目で見つめてしまったのだろうか、そんな私に気づいて彼は優しく目を細めた。

 「ごめんごめん。あまりにも痛そうなのに、さも平然とした真顔で大丈夫です、なんて言う子はなかなかいないから」

 彼の晴れやかな笑顔に、釘付けになったのは言うまでもないことである。よくよく見ると、鼻梁の通った立体的な顔立ちに、幼さを感じさせる笑窪、女の子かと見紛うような長い睫毛が、艶やかに目を縁取って影を落としている。哀愁すら漂う彼の様子は、遥かに大人っぽい。でもどこか悪戯心のある少年の雰囲気もあって、そのギャップにどきりと私の胸を揺さぶるのには充分だった。
 なんだか落ち着かない気分になりながら、私も何とか笑みを返して奥に進み、座席表を確認した。今は昼過ぎで、この時間から授業を入れているのは私だけである。今日は一対一で授業か、と思いながら席につくと、例の「彼」も歩み寄って来て隣の先生用の小さな丸椅子に腰掛けた。
 
 「......新しい先生とお会いできて嬉しいです。今日はよろしくお願いします」

 私はいつもの笑顔を振りまきながら先生に挨拶する。初対面の人には好印象を残しておきたいし、先程の失態をさっさと忘れてほしいからだ。

  「こんにちは!こちらこそ。......今日は夜から雨が降る予報なのに、傘を忘れちゃって。 すぐに止むかなぁ?」
 「......どうでしょう。ちなみに私も持ってきてませんよ。21時半までが授業ですか?」
 「授業はそうだけど、テストとか作ってたら22時半とかになるかなぁ」

  高校時代は運動部だったのだろうか。日に焼けた肌が快活そうで明るく、ふと眩しく感じたのは言うまでもない。
 そこで、先生は私のファイルを取り出し、プロフィールの欄や2月の模試の成績表を見つめていた。

 「…あんまり成績良くないので、見ないでいただけると嬉しいのですが」
 「だめ?でも見た感じはそんなに悪くないんじゃないかな。俺の時の方が酷かったし」
 すごい。謙遜の仕方が自然すぎて、一瞬謙遜していることに気がつかなかった。私の方をちらりと一瞥して、また紙に目を落とした。

 「僕、サッカー部だったから、受験勉強を始めるのは人より遅かったんよ」
 「…そうなんですか。でも今ここに座って先生になっているというのは、そう簡単にできることじゃないと思います」
 「そんな嬉しいこと言ってくれるんかぁ、今日は張り切っちゃおうっかなぁ」

 彼が両手でガッツポーズを決めながらにこやかに笑うので、私も同じようにした。
 授業開始のチャイムが鳴って、一旦会話が止まる。小テストが配られて、私は眼の前の問題に集中した。図形の問題で、定理を使えば辺の比は分かるものの、複雑に絡み合っているのか面積が求められない。先に英単語の小テストをやり終える。そうすると、先生も問題の図を眼の前のホワイトボードに書き終えたみたいだった。

 「ちょっと最後の問題ややこしいから、解説聞いとく?」

 その一言で私は目線を上げて先生と向き合った。

 「そうします。ありがとうございます。」

 ええよーと軽い返事が聞こえて、私はびっくりした。図形も数字も、あまりにも美しすぎて、女である私の字が恥ずかしいと思うほどである。
 解説が終わったところで、その分かりやすさに知性が感じられた。

 「先生、字が綺麗すぎます。男の人でここまで整っているのは初めて見ました」
 「そう?そんな風に言われたことないんだけど」
 「謙遜ですらお上手ですね。賢い人というのは、こんなにも違うものなのでしょうか」

 私を見つめる先生は、どこまでも穏やかだ。その瞳に魅入られて、彼は言う。

 「俺、実は君と同じ高校だったんだよ。あんま言ったらだめなんだけどね。そんな頭良いわけじゃないよ」

 驚愕のあまり絶句した私を見て、先生はカラカラと笑いながらウインクした。その一連の動作が、様になりすぎている。

 「そうだったんですか。ちょっと今声が出なかったです。理系ですよね?」
 「そうそう、物理と化学。一年生の時の担任が物理の先生で、憧れて工学部に入ったよ。物理の先生知ってる?その人もその高校出身なんだよ」
 「…えぇもちろん。私は一年生の頃、物理の授業で辱められたことがあるので…。クラスメイトの前で中学校の解き方で解くと、それじゃだめなんだよねーなんて言われてみんな笑ってて」
 「まぁ確かに。俺も一年の二者面談で、物理取りますって言ったら、君には物理のセンスが一切ないと思うけどねって言われたよ。それもいい思い出」
 「他にも、女子に年賀状を書かせていたりして、ちょっと特徴のある先生ですよね」
 「ここまで来ると、逆に面白いと思うでしょ?」
 「…確かに。悪気がないことはわかります」

 二人で母校トークを繰り広げて爆笑しながら、数学の授業を進めていく。私がわかりにくいところをすぐに察してくれたり、ホワイトボートを二つ使って説明してくれたり、とにかく最初から最後まで私を気にかけてくれて、どこまでもカッコよかった。
 ちなみに私達が話す物理の先生は、京阪神や旧帝と呼ばれる大学の出身である。結局のところ、賢いことには変わりなかった。
 授業終わりのチャイムが鳴る。彼は私をまっすぐと見据えながら、またにやっとする。そして私の耳に口を寄せて囁いた。

 「帰りはドアに頭ぶつけないようにね。高校の先生によろしく」
 
 何もかも余裕そうな先生に、私は意地を張って言い放った。

 「…先生、実は結構、意地悪だったりしますか」
 「それは秘密。秘密がある方がさ、カッコいいでしょ?」

 最後の最後のジョークまで抜かりなく、私は完敗した。出入り口まで見送られて、バイバイと手を振られる。帰り道、心臓がずっと脈打ち続けていたのは、私だけの秘密だ。



【二人目】どこか魅惑的で天邪鬼な、でも人に優しく寄り添う心を持った文系の彼


 高校三年生になって、数学ばかり勉強している自分に嫌気が差してきた。成績がなかなか伸びないので、週二回の塾の授業を、一個は英語に変えてもらうことにする。塾長は快く英語でいいよと言ってくれた。
 学校帰りに塾に向かうと、私の座席の隣に、先生はもう既に椅子に腰掛けていた。こんにちは、と声をかけて、リュックを下ろして先生をチラ見する。

 無造作に分けられた前髪が、形の良い眉にかかっている。そこから覗く大きな瞳は、長い目尻と相まって、いかにも洗練されているといった具合である。色素の薄い肌はとにかく水のように滑らかで、傷一つなかった。一言で言うならミステリアス、といった言葉が一番近いだろう。

 「今日は小テストと長文をやるんだね。この僕が、君みたいなレベルの高い生徒を教えてていいのかな」

 きっと、ここの塾には所謂偏差値が高い高三生が私しかいないので、そう言っているのだろう。誤解を解こうと思って、私は丁寧に言葉を返した。

 「…お気遣いなく。そう言って下さりすごく嬉しいです。しかし私の高校は世間から見ると賢いかもしれませんが、私は特にそうでもありませんので」
 「…まぁ今はそういうことにしておくよ。じゃ、これをやってね」

 落ち着いた優しい声色を持っており、私は寝てしまいそうになるがなんとかこらえた。隣の小学生の男子生徒には、少し厳し目に声をかけている。私と話すときに一段階低くなり、力の抜けた声の先生は上品である。テストを終えて、長文に移る。1つの長文を終えると、それを見ていたらしい先生が尋ねた。

 「だいぶ読むの早いんじゃない?もっと難しい長文をやりたいなって思わないの?なんでこんな簡単なやつをやらされてるんだって文句言ったらいいのに」

 真顔でそんな事を言うので、急に落とされた爆弾発言に些か俄然とする。何故かはわからないが、私のことを過大評価しているみたいだ。

 「あの、そんなはずはないですよ。じゃあ逆にお尋ねしますが、私の代わりに校長先生にそう言ってきてくれますか?」

 すとん、と言葉を止めた先生に、私は続けて笑みを浮かべて言う。

 「冗談ですよ。先程も言いましたが、私はそんなにすごいわけじゃありませんし」
 「…それはわかるけど。…えっと、なんかわからないところはある?」

 一瞬逡巡してから、英文解釈の問題を尋ねる。論理的な解説なので、なんの疑問もなく納得した。国語、日本語能力が非常に高い。そう思った時、ふと先生のそばに置いてある電子辞書に目を向けていると、見透かしたように先生は言った。

 「僕、電子辞書が好きでね。みんなシス単とかやってたんだけど、僕は電車の中でずっと電子辞書の単語やってたんだ。ガチってたから周りにはゲームしてるって思われてたけど」

 へぇ、と声を漏らした。淡々とした口調で、自立している彼はどこまでも素直だった。同時に自分を貫ける先生を羨望の眼差しで見つめる。

 「先生、話すの得意ですよね?喋りやすいな、と感じたんですけど」
 「いや別に?人とは一定の距離を保っておかないと。塾長とか特にね、何されるかわかんないし」

 急に子供っぽい発言になって、その違いにやられる。

 「そういうものですか?」
 「…うん。生徒には優しく、ね。…他の人には、まぁ、それなりに」

 それを耳にした途端、爆笑してしまった私を、少々非難がましく見ている彼はどこまでもエレガントなのに、抜けているところがあって子供っぽいと思った。また先生に教わりたいな、って感じつつ彼にさようなら、と挨拶して塾を後にした。


 そんな出来事があってから、ちょうど一ヶ月が経った頃。私は先生とまた対面していた。今日は勇気を出して先生に勉強法を尋ねるんだと決めている。小テスト作成のために単語帳を取り出して先生に手渡してから、ここからこの範囲までを次のテスト範囲にしてくださいと言う。

 「これは僕が何を出すか決めていいの?」
 「はい。先生がなるべく大切そうだな、と思った部分でお願いします」

 してやったりといった顔とはこのことなのだろうか。ちょっかいをかけるような目で、私は見つめられた。身構えた私に、先生の声が響いた。

 「………言ったね?じゃあ僕が知らない単語ばかり出してあげようか?」

 あまりにも楽しそうだ。だから私も軽く返した。

 「…………先生って実は結構、天邪鬼だったりしますか?」

 その問いには答えるつもりはないらしい。ニヤニヤした顔をしたまま彼はテストを作り始めたので、私も参考書と向き合った。
 作り終えたタイミングを見計らって、私は声をかける。

 「校長先生から、先生は文系だと聞きました。国語の点数があんまり安定しないんですけど、何かやっていたことはありますか」

 正直なところ、そんなに困っているわけではない。ただ歳上の大学生の、知恵を借りたいだけである。一瞬考えた素振りを見せながら、彼はすぐさま答える。

 「共テに関してはむずいよ。多分だけど」

 呆気なく会話のキャッチボールが終了したので、私はめげずに投げ返す。

 「あの、じゃあ先生はずっと同じくらいの点数だったということですか?」
 「うーん。ただこことここがこういう構造になってるなぁっていうのは、なんとなく掴みながら読んでたけどね」
 「…それがわかっていたら、受験生は誰も苦労しないと思うんですけど」
 「…問題を見てないから、なんとも言えないな。一緒にやってたら教えられるよ」

 なるほど、彼には天性の才能があるのかもしれない。話しても無駄かもしれないと予測しつつも、私は話の転換を試みる。

 「…それじゃあ、社会は何を取っていましたか?」
 「世界史だよ」
 「どういう風に勉強していたんですか?」
 「どういう風も何も、社会はただひたすらに覚えるしかないと思うんだけど。しかも僕、世界史好きだったから」
 「なるほど」
 「逆に訊くけど、早く近道して覚えられる方法なんかあると思う?」
 「…いや、ないですね。地道にやるしか」
 「…まぁ、今日はここを中心にやろうとか決めたらいいと思うよ。太郎さんと花子さんが話してるトピックとか特にそうだし、テストで出たらラッキーだよね」
 
 確かに、話題ごとに勉強するのがいいのか。共テ形式を自然に考えられるだけで知能の高さが見受けられた。

 「歴史には、縦と横の流れがあるんだよ。少し意識するだけでも、だいぶ変わるからね」
 「…じゃあ先生は二次試験が、国語だけだったんですか?そういうわけではない?」
 「英語と国語と世界史だよ。数学と選べるけど」
 「文系にしたのは、社会が好きだからですか?」
 「いや?数学があんまり得意じゃなかっただけ」
 「なら、数学ができない人の気持ちが理解できるってことですよね?」
 「……まぁね。化学ができたし、アニメも見てたから理系もいいなって思ってはいたけどね。数学が強いていうなら一番低かったってだけ」
 「いいですね、なんでもできるって」

 思わず自嘲的な響きになった私を見ると、無言で続きを促されたように感じたのでそのまま続ける。

 「私、特に志望校も決まっているわけではなくって。何がしたいかも特にないし。一年生の頃、キャンパスツアーに行って、法学部だったんですけど結構イマイチというか、良さがわからなくって。おすすめの学部とかありませんか?」
 「僕の行ってるところはおすすめだけど、言っちゃだめだからなぁ。どう言えばいいかな」

 迷った素振りを見せているかと思えば、今度は彼からの質問が来る。

 「部活は何やってるの?好きなものとかはない?」
 「三つ兼部しています。一つ目は写真部で、全国大会へ合宿に行くんですよ」
 「…やるじゃん。そういう道は?」
 「でもカメラで仕事なんて見つかりませんし、将来は不安だらけですよね」
 「そういうことじゃなくて、作品を研究したりするってこと」

 上手く答えられず、言葉に詰まる。

 「二つ目が、文芸部って言うんですけど」
 「どんなことをするの?」
 「小説を書いたりします。自由気ままに」
 「めっちゃいいじゃん。文学部とかはどうなの?」
 「文学部を四年勉強するって考えるとちょっと…。自分で本を読んで勉強できるかな、なんて思っちゃったりして」
 「でも仲間と研究したりするのって楽しかったりするよ?」
 「…三つ目の部活は、説明しづらいんですけどまぁ簡単に言えば、研究したりする部活です。研究は楽しいことばかりじゃなかったりしたのを痛感してしまいました」
 「じゃぁ孤独に研究するのもいいかもよ?」
 「一人ぼっちは寂しいです」
 「…他に好きなものは?」
 「基本何でも好きですが、音楽とかですかね。ピアノを習っていましたから」
 「へぇ、すごいじゃん。教えたりしないの?」
 「…才能があまりにもないんです」
 「それは諦めてるだけでしょ」

  割と容赦ないツッコミに面食らいながら、私はなんとか踏みとどまる。

 「…周りから無理だって言われてますし、習ってた当時もずっと練習してたかと言われるとさぼってましたし。争いたくないんです、平和主義ですから」
 「‥あのねぇ、何でも諦め続けていたらなんにも得られない人生だよ?争って初めて得るものもあるでしょ?それでいいの?」
 「…良くはないです」
 「みんなと仲良くしたいタイプなの?」
 「そんな、皮肉交じりに言わないでください。私が充分に捻くれていることくらい、自覚しているつもりですけど」
 「…まぁ僕も捻くれている方ではあるけどね。法には興味ある?憲法覚えるとか」
 「あんまりですね。なんか難しそうで」
 「だよねぇ。さっきキャンパスでイマイチって言ってたしね。政治と経済は?」
 「…数学っぽいことを学ぶのは飽きるかなぁ」
 「でしょ?なら1つしかないんじゃないの」
  知らず知らずのうちに誘導されていたみたいで、その淀みのなさと自然さに漸く気付いた私は舌を巻いた。

 「…外国語ですか?」
 「そう。日本と海外ならどっちが好き?例えば日本とアメリカなら」
 「一概には言えないです。どっちも好きですよ。…すみません、答えになってなくて」

 無言で頷く先生は律儀に私の返答を待ってくれているようなので、もう一度考えながら私は答えた。

 「もし住むってなったら、圧倒的に日本ですね。もうアメリカとかに行きたいとは思いません」
 「行ったことあるの?海外に」
 「えぇ。幼い頃に、よく両親に連れられて。高校の修学旅行も海外でしたし」
 「へぇ、何?台湾とか?」
 「当たりです。その時に訪れた姉妹校の生徒の英語のレベルが高くて、もっと英語の勉強をしなくちゃいけないなと痛感しました。私もそれなりに勉強してから行ったつもりだったんですけれど、圧倒的に足りてないなって」
 「いいなぁ。確か、君の高校は修学旅行が海外なんだってね」

 ここで私の高校が出てきて、少し嬉しい気持ちになる。

 「…既にご存知だったんですか、嬉しいですね」
 「もちろん。留学とかは興味ないの?」
 「…うーん、ないことはないです。ただ私は機会に恵まれて、普通の人よりも世界を、世界と言ったら大げさですが、海外の様子を見て感じてきました。その上でやっぱり日本がいいなぁという結論に至ったんです」
 「…それはすごいね」
 「…もしかして、海外に行ったことがないのですか?」
 「うん。でも僕、ポルトガル語を話せるんだよ」 

 第二言語を習得するのが難しいということは、家族の影響により、割と小さい頃から理解しているために、私は畏敬の念を抱かずにはいられなかった。

 「それの方がよっぽどすごいと思いますけど。英語よりも得意なんですか?」
 「‥例えばポルトガル語検定を受けるってなったら、二級くらいは受かると思う」
 「…カッコいい。すごく難しいはずなのに」
 
 本当に見た目や話し方、知性とか全て含めてかっこよくて、本心から漏れた言葉を聞いた彼は飄々としているものの、目尻が優しくなっている気がした。
 大学生になったら自由な時間が増えるし、休みの期間も長くなる。それなのに行ったことないのか、と少々拍子抜けした私はそのまま尋ねる。

 「例えばポルトガルに行きたいと思わないのですか?現地の人と話したりとか、世界史が好きなのであればなおさら私よりも行った方がいいかと」
 「…怖いもん。僕、結構インドア派だからなぁ。最近は少しずつ変わりつつあるけどね」
 「あぁ、それはわかります。家で本とか漫画を読んだりする方が好きなんですね。私もそうですけど」
 「まぁそういうこと」
 「私が先生に言うには烏滸がましく感じるかもしれませんが、勿体ないと思います」
 
 彼は少々怖がりなのかもしれない。堂々としているのに、そういう一面を持っているなんて可愛いな、なんて思っていることが彼に知られたら、私は怒られるだろうか。

 「例えば最近、僕は宗教の勉強をすることに決めたんだよ。日本の宗教って面白いでしょ?」
 「そうですね。クリスマスもお正月もバレンタインもありますしね」
 「なんでこんなにも多くの宗教が日本に混じって受け入れられているか、なんて勉強するの楽しいよ。あと君は入試のために合理的に政経にしたって言ってたけど、もし大学受験が終わったら倫理も学んでみて。合理的とかまさにそうだから。ここまで来ても勉強面白そうだなって思うことができない?他にも、今君が解いてる英文で出てきた歩き回る、といった意味の単語は、ヨーロッパには沢山あるよ。散歩が大好きだからねああいう人達。雨が降っても傘を差さないとかね。本当なに考えてるんだか」 
 「知ってます、有名ですよね。先生も海外行って一緒にやってみたいとか思いませんか?」
 「いや、狂ってるからねほんと」
 
 ペラペラと話しだした彼に圧倒される。深い思考で物事を捉えているみたいで、私にはそんな事考えたことがなかった。

 「…なんか先生がとてつもなく輝いて見えます。私と違ってキラキラしてます」
 「…じゃ、今まではキラキラしてなかったってこと?」
 「そういうわけではないですよ。ていうかそんなこと言ってないじゃないですか!」

 からかうのが得意みたいで、同時に興味深い先生である。私は笑いながらも、レベルの乖離に打ちひしがれてしまう。

 「やっぱり私は先生と違って賢くないから、どんどん道が狭まっていくんですよ。いいですね、羨ましいです」
 
 そう言った私の前で、彼は軽く手を振りながら否定を表すが、どうせ謙遜しているんだろうと思う。賢い人に謙遜されても、今の私の場合は好意的に受け取れない。

 「いや、実際そうですもん。先生はしっかり学びたいものを決めて、進学しているのに対し、私は全部人の言いなりになっています。志望校だってそうです」
 「それのどこが問題なの?上手くいってるならそれでいいじゃん」
 「いえ、そういうわけでもないんです。意味を見失って、時々なんのために勉強するんだろうと思うのです」
 「大学は楽しいよ?サークルとかあって色んな人と関われるよ?」 
 「‥.それは行ってからわかるもんですよね」
 「じゃあ、大学に行くまでのモチベーションが欲しいってこと?」
 「まぁ有り体に言えばそういうことです」

 彼は黙っている。ここでストンと止まった会話に、私は気まずくなりたくないので笑顔を作って言う。

 「いいんですよ。今の高校だってもともとは第一志望校かと言われると違うような気もします。塾の先生に勧められて行きましたし。でも楽しいことばかりじゃありませんもの。私は特別賢いわけでも、自分の気持ちにも素直になっていないのだと思います」
 
 それを聞いた先生は、なにか決心したように私に予想外のことを打ち明けた。

 「……‥…僕ね、君の高校に落ちたんだよ。周りはみんな受かったのにね」
 「...‥…………え!?」

 二の句が継げないとはまさにこのことである。思わず声を上げた私だった。にわかには信じがたいことだからだ。その反応を予想していたのか、彼は落ち着いている。

 「………行きたかったんですか?私の高校に」
 「…行きたかったよ。でも僕だけが落ちたんだよ。これを聞いても、まだ僕が賢いって言えるの?」
 「…きっと運が悪かっただけです。そういう人もいます。入試はそういうことが稀にあります」
 「…これを聞いたら、君が頑張るかなと思って言ったんだよ」

 その言葉には、一切の嘘偽りがなかった。ただどうしようもなく悩んでいる私を、励ましてあげようという気遣いで、自分の事を話してくれたみたいだった。
 思考が追いつかない私を横目に、彼は続ける。

 「だから僕は、そんな奴らを見返してやろうって、絶対に負けるもんかっていう競争心が、受験勉強の動機づけだったよ。そう簡単には行けない、難しい大学に受かって見下してやろうってね」
 「…あの、先生って友達います?」
 「…‥少ない方ではあるよ」
 「コミュ力高いと思われますが。人からは好かれそうですね」
 「でしょ?僕、優しいもん」
 「……自分で言いますか、それ」

 また聞こえていないフリをしてひとりでに満足そうに頷く彼は、内面からにじみ出る気高さが相まって、果てしないまでに美しい。

 「どこまでも高潔で、自分に誇りを持ってるんですね。後悔しないように」
 「そうだね。自分はまっすぐ生きてきたから。ちなみに僕の大学は共テの割合が6分の1で、僕は共テリサーチがE判定でも受かったよ。二次試験が得意で自信があったからね」

 共テの割合が極端に低いところは旧帝と呼ばれる、所謂京阪レベルである。彼が大学名を口にしなくても分かってしまった。高水準の大学生であることを察した私は、彼が当時いかに努力して勝ち取った合格だったかがよく分かった。
 そんな純粋で潔白な彼に応援されて、私が頑張らずに怠けるという選択肢はあるのだろうか?いやない。勉強だけじゃなくて、彼が私の高校に落ちた分まで私は、背負って学校生活を楽しまなければならない。これは一種の縛りで、でも悪いものではない。心地よいプレッシャーだ。

 「…私も先生みたいに頑張ります、自分で自分に恥をかかせないために」
 「ん。わからないところは何でも聞いたらいいからね。助けてあげるから」
 「はい。いっぱい話を聞いてくださりありがとうございます。でもこの問題集は少々レベルが高いかと存じますが」
 「そりゃね。これを教えられる大学生はいないよ、難関大編だし」

 いないよ、ということは彼自身は教えられるということだろう。それくらい自信があるくらいの方が、いっそ清々しくて気持ちがいい。

 「じゃあやらなくてもいいってことですか?」
 「君の目指す大学は難関大じゃないの?」
 「……微妙なラインです。でも本当に難しいんですもん」
 「やるんだよ。こういうのをやって自信に繋げるんだから。逃げるのはだめだよ」

 こういうときは悉く鋭いのだ。私には敢えて甘くしないところがむしろ、刺激になる。

 「…はい。じゃあまた教えてくださいね」
 「うん、頑張ってね」

 最後にふんわりと微笑んでくれた彼は思いやりがあり、私に寄り添ってくれた。
 彼の美しさは、筆舌に尽くしがたかった。家に帰ってもこの高揚感と胸のぬくもりは消えなかった。私はそんな彼に憧れを抱いて、それが少しずつ恋のように慕っていき、それが受験勉強と高校生活を両方とも最高のものにしたいという原動力となった。




 今現在、冒頭部分に戻る。私は晴れて大学生となった。二人の大学生のようになりたいという衝動と淡い恋心で、ここまで成績を上げることができたからだ。理系と文系の先生に共通しているところは、二人とも私の高校が気に入っていたということ。
 理系の彼には高校が同じで実際に先輩なので、数学と、学生生活を楽しんで過ごすためのちょっとしたテクニックをいくつか教えてもらった。
 文系の彼には受験面での不安定なメンタルがあった時に励ましてくれたり、英語や国語の解き方のコツを主に、面倒を見てもらった。
 私は高三の終わりまでずっと教えてくれて助けてくれた「彼」の大学を目指し、見事に合格した。

 合格したことを、もう「先生」ではなく「先輩」になった彼にはまだ伝えていない。だから今日、入学式が終わり新入生歓迎オリエンテーションで、あるサークルに入っている彼に出会えたら、喜ばしい結果とこのれっきとした恋心を、勇気を出して真っ直ぐに打ち明けようと決意していた。どれだけ声が震えても、必ず伝えようと。


 きれいな桜が私の合格を祝福するかのように散って、その並木道に立っている彼を見つけて、私はゆっくりと近づいた。私に背を向けていた彼は、徐にこっちを振り返った。いつも通り優しく目を細めて笑う彼は、今まで見たことのないものだった。私も、微笑み返した。


ーーーそれが私に向けてじゃないことに気付いたのは、極めて刹那の出来事だった。
 
 
 私の少し前を歩く、いかにも大和撫子を感じさせるような長い黒髪の女性は、春らしいピンク色のスカートを靡かせて、彼に歩み寄り腕を取った。鈴が鳴るような声で話しかけているのが嫌でも耳に入る。ショートボブで幼い顔立ちの私とは、真反対の容姿だ。
 彼は「彼女」にびっくりするほど蕩けるような笑顔を見せて、手を繋いで寄り添って歩いていく。

 ーーーあぁ、置いていかないでよ。

 懇願とも近い私の想いは、行き先もなく、声にすらならなかった。

 私の脆い初恋は、こうして幕を閉じた。一瞬で佳境に入って、とてつもなく儚く散った。彼らがあまりにもお似合いで、私はただの邪魔者で他人なんだと思い知った途端に、止めどなく涙が溢れてきた。声を抑えて泣き散らす私を、桜だけがただ同情するように見ていて、その沢山の花びらが情けない姿を隠してくれた。

 私も彼も、生徒でなく先生じゃない。もう甘えることなんてできない。高校生ではないのだから。恨むなんて以ての外で、そこには感謝の気持ちしかない。いや、そう思うしかないのだ。


ーーーこれが二度咲きとはなり得なかった私の、邂逅と訣別の物語だ。