高校三年の春。
私は、恋をした。
大学受験のために通い始めた予備校。
彼は、そこでチューターのバイトをする大学生だった。
歳は二十一歳。
地味だけど真面目で、髪がサラサラで、スーツがよく似合っていた。
最初は「あ、かっこいい」と思うだけだった。
でも、勉強や志望校の相談に乗ってもらっている内に、好きになっていた。
ちょっと低めの声も、長い指も、優しい眼差しも……
いつの間にか、独り占めしたくなっていて。
「……好き」
思ったら言わずにはいられない私は、
「……私、先生のことが好き。付き合いたい」
なんの飾り気もない言葉で、そう告白した。
彼は驚いたように息を止めて、言葉を探しながら目を泳がせると、
「……受験が終わったら、俺から言うから。ほら、この問題。最後まで解いてみよう」
なんて、顔を真っ赤にして言ってくれた。
天にも昇るような気持ちだった。
彼と付き合えることを楽しみに、受験勉強を頑張った。
勉強の合間に、彼といろいろな話をした。
通学中、何を聴いているか。
好きなフラペチーノの味。
一番笑った動画のこと。
それから……
今まで、どんな人と付き合ったか。
彼には、二年以上付き合って別れた元カノがいた。
大学に入ってすぐ、サークルで知り合って、彼から告白して付き合った。
お互い、地方から上京して一人暮らし。
週末にはどちらかの家に泊まって、デートして、月曜日に一緒に登校する。
そんな生活をずっと続けていたらしい。
けど……
突然、彼女から別れを告げられた。
「好きかどうかわからなくなった」
そんな曖昧な理由で、彼はフラれた。
でも、すぐに真実がわかった。
他に好きな人ができたのだ。
彼女のバイト先の、年上の男性。
二人が腕を組んで歩くのを、街中で見かけたそうだ。
それが、半年前。
彼はもう、吹っ切れていると言った。
けど、私は……
自分から聞いたくせに、もやもやと嫉妬してしまった。
彼の方から告白された元カノ。
彼の家に寝泊まりして、恋人らしいことをいっぱいした元カノ。
それなのに、他の人に気移りして彼をフッた元カノ。
私は年下で、高校生で、受験生だから。
付き合うことすらお預けなのに。
「……ずるい」
そう言って、口を尖らせる私に。
彼は困ったように笑って、髪をそっと撫でた。
いつもなら嬉しいけど、それすら子供扱いされているみたいで……
その時だけは、あまり嬉しくなかった。
──そうして時は過ぎ、二月。
私は、第一志望校に合格した。
通話で結果を伝えると、彼は自分のことのように喜んでくれた。
そして、
「……好きです。俺と付き合ってください」
そう言ってくれた。
ずっと待ち望んでいた言葉に、私は胸がいっぱいになって、いつもより畏まった声で「はい」と答えた。
「合格のお祝いさせてよ。何かほしいものはある? それか、行きたいところとか」
スマホの向こうで、彼が言う。
その問いに、私はすぐに答える。
「キスしてほしい。あと、先生の家に行きたい」
彼は「えっ」と驚いて、しばらく無言になる。
そして……たっぷり迷った後に、
「……わかった。週末、うちへおいで」
緊張したような声で、そう言った。
私は、思わず笑みを溢す。
彼の家に招かれるのは、もちろんこれが初めて。
というか、予備校以外で会うこと自体、初めてだ。
やっと……やっと、彼と恋人らしいことができる。
それから週末まで、私はそわそわしながら過ごした。
私だって、もう子供じゃない。
彼の家に行くのがどういう意味を持つのか、ちゃんとわかっている。
週末、彼と初めてキスをする。
それから……きっと、そういうことも。
そんな緊張と期待を抱えながら、私はその日を待った。
けど、約束した日の前日。
放課後、学校から帰ろうとしたタイミングで、彼からメッセージが届いた。
『ごめん、熱出て大学早退してきた。申し訳ないけど明日は会えそうにない。来週までに治して必ずお祝いするから。本当にごめんね』
それを目にした私は、心配になるのと同時に、ひどくがっかりした。
明日、いよいよ彼と……なんて期待が、最高潮に膨らんでいたから。
じわり、じわりと、胸の奥に湧き上がる感情。
それに突き動かされるように、
『大丈夫? 食べるものあるの? 私、作りに行くよ』
そんなメッセージを送りつけると。
返事も待たない内に、私は制服のまま、彼の家へと向かった。
──彼の家の住所は事前に聞いていた。
電車で目的の駅に降り立つと、駅前で食材を買い、彼の家を目指す。
十分足らずで着いたそこは、築浅なアパートだった。
彼の部屋は二階。階段を上り、部屋の前に立ち、表札を確認してからインターホンを押す。
その途端、急に不安になった。
勢いで押しかけてしまったけれど、扉を開けるのも辛い状況かもしれない。なんて迷惑なことをしているのだろう、と。
……このまま反応がなかったら、大人しく帰ろう。
そう考え、食材が入った袋をぎゅっと握りしめた……その時。
目の前の扉が、ガチャッと開いた。
隙間から覗く彼の顔。
乱れた髪に、慌てて着けたらしいマスク。
やはり寝ていたところを起こしてしまったのだろうと、強い罪悪感に襲われる。
「ご、ごめんなさい。私……」
やっぱり帰る。
そう言おうとしたが、彼はマスク越しに笑みを浮かべて、
「来てくれてありがとう。寒かったでしょ、上がって」
優しい声で、私を招き入れた。
──「おじゃまします」と言いながら、彼の部屋へ上がる。
綺麗な部屋だった。全体的に物が少なくて、シックな印象だ。
「食材買う余裕もなかったから助かったよ。お金返すね。いくらだった?」
ふらふらとした足取りで言う彼に、私は首を振る。
「いいよ今度で。ゆっくり寝ていて。キッチン借りるね」
彼は「でも」と言いかけるが、頭が痛むのかこめかみを押さえ、
「本当にごめん……ちょっと寝かせてもらうね」
そう言って、よろめきながら寝室へ消えて行った。
相当具合が悪いみたい。やっぱり来てよかった。
美味しいご飯を作って、少しでも元気になってもらおう。
私は制服の袖を捲り、食材の袋を手にキッチンへ向かう。
買ってきたのは煮込みうどんの材料だ。消化に良くて身体が温まるし、すぐに茹で上がる。お粥を作るより早く出来ると思った。
キッチンも、手狭ながらに綺麗だった。冷蔵庫も炊飯器もしっかりある。
シンクの下の戸を開けると、鍋類がたくさんあった。その中の一番深い寸胴鍋を引っ張り出し、使うことにする。
料理はあまりしたことがなかった。お母さんの手伝いをたまにする程度。
だけど、さすがに煮込みうどんの作り方くらいはわかる。野菜を煮て、そこにうどんを入れて、味付けすれば完成だろう。
彼の家で料理をするなんて彼女っぽい……いや、新婚さんみたいだ。
なんて少しニヤニヤしながら、私は包丁で野菜を切り始めた。
……が、浮かれていられたのは最初だけだった。
買ってきた野菜は、大根と人参と玉ねぎ。
これを薄く均等に切るのがけっこう大変で、時間がかかった。
食材を切るだけの作業に三十分以上費やしている。
しかも玉ねぎが目に染みて、さらに手間取っていた。
「……いたっ」
挙句、指先を切る始末。
こんなはずじゃなかった。
お母さんみたいに手際良く作れるはずだった。
痛みと焦りと情けなさが、玉ねぎによる涙に混ざり、後ろ向きな考えへと私を堕としていく。
やっぱり私、何もできない子供だ。
風邪を引いた彼のために、ご飯を作ってあげることもできない。
……これが、彼の元カノなら。
こんなにもたもたせず、パパッと作れたのかもしれない。
だって、この部屋で何度もお泊りしたのだ。
元カノの料理を食べて、「おいしい」と笑ったこともあっただろう。
それに引き換え、私は……
私は…………
「…………っ」
じわり、じわり。
真っ黒でどろどろとした感情が、私の心を飲み込んでいく。
……もしかすると、一人暮らしにしては大きすぎるこのお鍋も。
二つずつあるコップも、お箸も、小皿も。
全部、元カノと選んだものを、そのまま使っているんじゃないかな?
これを使う時、彼は何を思うのだろう?
あの頃は良かったと、本当は寄りを戻したいと……そんな風に思うことも、あったりするのかな?
「………………」
切った指を押さえ、俯く私の横で。
火にかけた鍋から、沸騰した湯が泡を立て、じゅわりと吹きこぼれた。
「──できたよ」
出来上がったうどんのお椀を持ち、彼の寝室へ入る。
「うどん、作ったから。食べられそうなら食べて」
「うん……」
私の声に、ベッドの上の彼は寝ぼけたような声を上げる。
テーブルにお椀を置き、彼の顔を覗き込む。額に汗が滲んでいた。
「……汗、拭くね」
私はハンカチを取り出し、彼の額に当てる。
汗ばんだ肌に張り付く、彼の前髪。
閉じられた瞼に、少しドキッとしてしまう。
それを誤魔化すように、私は離れる。
そして、ハンカチをしまい、
「そうだ、私が食べさせてあげよっか。あーんって」
なんて、戯けて言ってみる。
すると、彼は弱々しく首を振って、
「いいよ……自分で食べる。制服汚したら悪いし」
掠れた声で、そう言った。
……その言葉に。
私は、自分の格好を見る。
真っ白なブラウスに、赤いリボンタイ。
学校指定のプリーツスカートに、紺のソックス。
……"子供"。
その事実を、あらためて突き付けられたような気持ちになる。
こんなものを着ているから、彼に近付けない。
こんなものを着ているから……
いつまで経っても、子供扱いされたまま。
「…………」
……もう、抑えられなかった。
私は、彼の毛布を捲り上げると……
寝ている彼の身体に、跨った。
驚いて目を開ける彼。
しかし、私は退かない。
「私……あなたが思っている程、いい子じゃない」
そのまま制服のボタンを、自ら外していく。
「明日のお呼ばれだって、キス以上のことをしてもらえるんじゃないかって期待していたんだよ? 悪い子でしょ?」
苦しくて、切なくて。
恥ずかしくて、情けなくて。
泣きたくなんかないのに、涙が出てくる。
「……いやなの。私が一番じゃなきゃいや。私には先生しかいないのに、先生はっ……」
ぽたぽたと、ブラウスに落ちる涙。
じわりと広がって、色を変えてゆく。
「……なんで、すぐに付き合ってくれなかったの? 私のことが好きなら、受験なんて待たずに付き合って欲しかったっ……」
「それは……君のことが大切だから……」
「大切になんてしなくていいっ。子供扱いしないでっ……私のことも、ちゃんと…………元カノみたいに、求めてよ」
──これが、私の醜《みにく》すぎる本音。
なんの障害もなく彼と付き合って、何度も愛し合った女がいるという事実が、本当は堪らなく悔しくて、嫌だった。
だけど、一番嫌なのは……そんな風に考えてしまう自分。
わかってる。
彼は、本当に私を大切に思ってくれているから、受験が終わるまで待ってくれた。
……わかってる。
過去は変えられないし、そうした経験を経て、現在の彼がいる。
私は、現在の彼に恋をした。だから、過去のことで悩んでも仕方がない。
そう、自分に言い聞かせてきたけれど……
彼のことを好きになればなる程、悲しくて、妬ましくて。
自分のことが、どんどん嫌いになった。
……だから。
この真っ黒な気持ちを、忘れさせて欲しくて。
制服を着た子供な私を、めちゃくちゃに汚して欲しくて。
彼の視界を覆うように――キスをした。
……熱かった。
彼の熱が、制服越しに伝わってくる。
このまま、この熱に溶けてしまいたい。
溶けて、彼と一つになれば、きっと……この胸の空虚も無くなる。
……そう、思っていたのに。
彼は、私の肩を掴むと……
起き上がりながら、私を引き離した。
「……駄目だよ、こんなこと、したら」
切れ切れの声で、彼が言う。
「……風邪、移っちゃう。今日はもう帰りな。ご飯、本当にありがとう。あとで食べるよ」
……それを聞いた瞬間。
私は血の気が引き、猛烈な恥ずかしさに襲われた。
風邪で寝込んでいる彼に、こんな……何てことをしているのだろう。
いたたまれなくなった私は、彼の腕を振り解くと、
「っ……ごめんなさい」
鞄を手に、逃げるように家を飛び出した。
──帰りの電車の中。
私は、涙を堪えていた。
……最低だ。
彼を看病しに行ったはずが、身勝手な不満をぶつけ、逃げ帰るなんて。
きっと、盛りのついたメス猫のようだと思われただろう。
自分のことしか考えていない、最低な女……
いや。やっぱり、"ただの子供"だ。
嫌われた。
そう思うと、堪え切れず涙があふれた。
それを拭ったところで駅に到着し、私は電車を降りた。
改札を抜け、重い足取りで自宅へと歩き出す。
その時、鞄の中のスマホが振動した。
取り出して画面を見ると……彼からの着信だった。
きっと、別れ話だ。
私は覚悟を決め、通話ボタンを押す。
「……もしもし」
『もしもし。無事に帰れた?』
「今、駅降りて歩いてる」
『そっか。ごめんね、送れなくて』
「平気。……具合はどう?」
『うどん食べて薬飲んだら少し落ち着いたよ。すごくおいしかった。ありがとう』
「そう……よかった」
『それでさ、その……これからのことなんだけど』
「……うん」
『……来月、卒業式が終わったら……俺と、旅行に行かない?』
思いがけないセリフに、「え?」と足を止める。
彼は少し間を置いてから、続ける。
『……ごめん。俺も、君が思う程大人じゃないし、余裕もないんだ。今日だって来てもらうべきじゃなかったのに、君の顔が見たくて……拒絶することができなかった。三つも年下の君に、初恋みたいに夢中になっているんだよ。そんな余裕のない本性を知られたくなくて……大人なふりをしていた』
初めて聞く、彼の本心。
駅前の雑踏の中、スマホから聞こえるその声だけに耳を傾ける。
『……俺は、君が思っているよりも、君のことが大好きだよ。だから大切にしたい。でも、その姿勢がかえって君を不安にさせていたのなら、本当に申し訳なかったと思う。俺も男だし、好きな女に近付きたい気持ちは……もちろん、ある。だから、君が本当に良いと思うのなら……一緒に、卒業旅行へ行こう』
それを聞いた瞬間。
瞬きもしないままに、涙が溢れた。
安堵と、切なさと、それから……
『好き』という想いが、どうしようもなくあふれ出す。
私は、涙で声が震えるのを悟られないように、
「……行きたい、旅行っ……連れていってほしい」
はっきりと、伝えた。
彼は、電話の向こうで小さく笑う。
『うん、わかった。どこか行きたいところはある?』
その問いに。
「あなたと一緒ならどこでもいい」
なんて言葉が頭に浮かぶけれど。
「……海の近く。あと、温泉……かな」
という、無難な答えを返すことにする。
「温泉いいね、大賛成。あと、美味しいご飯も必要かな。いくつか候補を調べておくね」
その明るい声に、思わず笑みが溢れる。
……そうだ。
これからのことを話す彼は、いつだって楽しそうだった。
それはきっと──私との"未来"を、真っ直ぐに見据えてくれているから。
たぶん私は、この先もぐずぐずと悩むのだと思う。
勝手に劣等感を抱いて、彼の過去に嫉妬したりするのだと思う。
でも、いつか……
あなたの過去も、心から愛せるようになれたら。
その時初めて、胸を張って「大人になれた」と言えるのかもしれない。
それまではまだ、不器用な子供のまま。
時間がかかるかもしれない。
近道なんてないのかもしれない。
それでも、あなたが私といる未来を見つめてくれるのなら──
制服を脱ぐように、一つずつ、少しずつ。
"子供"から、卒業していく。
あなたと一緒に──



