淹れたてのコーヒーを、大きなマグカップになみなみと注ぎいれる。
それをPC横にごとりと設置すると、お仕事モードを「通常」から「社畜」に切り替えた。
キーボードを叩く指先にも圧がかかっている。

「おー。天野どうした? いきなりやる気出してんじゃん?」

 チームリーダーの新井室長はそう言いながら、豊満な胸にまで届く天然茶髪の長い髪をハラリとかき上げた。
グレーのネイルが今日もピカピカして眩しい。
黒縁眼鏡の奥で細めの眉にグッと力を込めると、意地悪な笑みを浮かべた。

「まーた甲斐が何かやらかした?」
「いいえ。教育係の、私の失態です」

 甲斐くんに全部任せたのが悪かったとは、もちろん思ってない。
自分のことにかまけて、彼のフォローが出来なかったのは、私のせいだ。

「もーやだー。天野先輩。なんでこのタイミングぅ? 月末の週末とか、本気でやめてほしいんだけどー」

 宮澤さんは今日もパーマのかかった肩までの髪を、ゆるふあハーフアップでばっちり決めている。
メイクも完璧。
今のファッショントレンドを知りたければ、彼女を見ればいいってのは、実に楽ちんで私的には助かっている。

「で? いま甲斐はなにしてんの?」
「藤中くんに、資料のまとめ方のレクチャー受けてます」
「うわ、かわいそ!」

 宮澤さんは、丸くて小さい顔に本気の不快を浮かべた。

「藤中先輩って、ぼーっとしてるようで言うことキツいんだもん。細かいことまで厳しいしさー」
「はは。それだけ仕事熱心ってことだから許してやって」
「甲斐くん。自業自得とは言え、カワイそー」

 宮澤さんはイチミリも本気で思っていないようなことを言いながら、髪の毛先を指でもてあそぶ。

「そういえば、山本くんはどこ行ってんの?」」
「あ、翔真先輩は、まだ外周りから戻って来てないです」
「そっか。じゃあ甲斐の面倒はとりあえず藤中に任せて、こっちは先に取り引き先との条件交渉まとめとこうか。宮澤、用意は出来てる?」
「もちろん」

 そう言うと、彼女は首にぶら下げた自分のスマホをスワイプさせた。

「相手の会社概要、資産規模から公式SNSまで把握済み。過去の他社とお取り引き実績はもちろん、ここ数ヶ月の販売実績とその傾向、ついでに株価の変動も過去五年分は頭に入ってまーす。もちろん、うちの担当になってる二人の、趣味と家族構成、好きな食べ物と嫌いな食べ物まで、全て把握済みだから」

 彼女は得意気にゆるふわヘアーを肩先で振り払った。

「オッケー。さすがね、宮澤」
「これでどんなウソも誤魔化しも、効きません!」
「宮澤さん。さすがです」

 いつも不思議に思う。
彼女はどうやってそんな情報集めてるんだろうって。
前に聞いたら、「自分エゴサの鬼なんでー」とか言ってたけど、絶対それだけじゃないと思う。
見た目も言動も可愛いけど、その外見だけで判断しナメてかかってくる相手を、ことごとく返り討ちにしてきた猛者だ。
彼女に一度目を付けられたら、決して逃れられない。
地獄の底まで追いかけられ、今年足の小指を角にぶつけた回数まで調べられあげるだろう。
と、思う。

「にしても、まだ資料が出来てないってのは、困ったね。甲斐のプレゼンデビューだったのに」
「すみません」
「いや。天野が謝ることでもないけど……」

 新井室長は、右手の人差し指と親指で自分のアゴをキュッとつまんだ。
室長が本気で困っている時に出るクセだ。
それが出た時はいつも化粧室の鏡でシワの寄ったファンデ痕を見て絶叫してるけど、きっと今日もやるな。

「質疑応答の事前予測が立てらんないじゃない」
「それよ」

 マニキュアの具合を確認しながらそう言った宮澤さんに、新井室長が同意する。

「仕方ないわね。作りかけでいいから、資料送って。とりあえず、対策はしとかないと」
「はい」

 新井室長と宮澤さんにとって、取り引き先との交渉は限りなく勝負事に近い感覚らしい。
私としてはパートナーであるべきと思うけど、かといって馴れ合っていいわけでもない。
新井室長に言わせると、違う考えを持った人間が同じチームにいることが、大切なんだって。
上司である人がそうやって自分を受け入れてくれていること。
それをちゃんと自分にも伝えてくれていることに、感謝している。
私もこのチームのことを大切に思っている。

 宮澤さんと話す新井室長は、どうやって自分たちの会社に有利な話に持っていこうかと、議論を繰り返していた。
攻め所とか落とし所とかいう話を横で聞きながら、私は自分が今回の取り引き先である会社だったならどう動くかを予測する。
きっとそこに、いいアイデアが浮かぶと信じてる。

『迷惑かけてごめん』

 不意に、私個人宛てにチャットメールが届いた。

『いいよ。これはチームの責任なんだし』

 続けてどう返事を返そうか。私は少し考えてから文字を打つ。

『そっちも頑張って』

 すぐに既読がついて、スタンプが送られてきた。
ディフォルメされた柴犬が「OK!」と手を振っている。
私はそれにクスッと微笑んで、表示画面を切り替えた。
ここからはしばらく集中する時間。
フロアには誰かがキーボードを打つタイピング音と、電話や連絡事項を話す声が静かに響く。

「あー。もうこんな時間だー」

 宮澤さんはそう言うと、思いっきり背を後ろに伸ばした。
引き延ばされた椅子のバネが、小さな悲鳴をあげる。

「もうお昼ですし、一旦休憩にしません? 少し頭休めた方が、いいアイデア浮かぶかもだしー」
「そうだね。煮詰まってたって意味ないし」

 丁度フロアには、藤中くんと甲斐くんも戻って来た。

「お昼、みんなでバーガーハウス行きましょー!」

 高らかに宣言した宮澤さんの一言に、誰も異議を反することなく我々のお昼が決まった。