18時12分の金曜日

 混雑した駅の改札を抜け、街路樹の生い茂る歩道を人の流れに沿って歩いてゆく。
駅から三分のところにある、ビルの敷地に入った。
黒いごつごつとしたアスファルトから、しっとりと光る白いタイルの上を歩く。
スマホにピコンとメッセージが入った。

『今日の予定、覚えてる?』
『もちろん』
『楽しみにしてる』
『私も』

 送られたメッセージに、軽やかな気分で自動ドアを抜ける。
ふわりと弱冷房の風が首筋をくすぐった。
社員証をかざし始業開始の十分前にはゲートをくぐると、エレベーターホールにある六台のうちの一つに並ぶ。

「おはよう」

 翔真先輩だ! 
天然の茶髪を軽くウェイブさせ、淡いブルーのワイシャツにグレーのスーツが映える。
大人男子の落ち着いた香水がほのかに香った。

「おはようございます」
「あれ? なんか今日の格好、気合い入ってない?」
「え? そうですか?」
「いつにも増してかわいい」
「だって。それはもう……」

 ねぇ? そんなこと、私にここで言わせないで。

「それを言うなら、翔真先輩だって素敵ですよ」
「はは。ありがとう」

 彼の細く柔らかい目が、上品に微笑む。
私もにっこりと笑みを返した。
朝から翔真先輩のそんな笑顔が見られるなんて、今日は一日いいことあるかも。
朝のエレベーターホールはぎゅうぎゅうに混雑していて、同じビルに拠点を置く別会社の人も利用しているから、具体的な話は何も出来ないのがもどかしい。

「昼までには、今日の会議の資料を用意しておきますね」
「あぁ。いつも助かるよ」

 チン! という音が鳴って、目の前の扉が開いた。
それを待っていた人たちと共に、エレベーターの奥へと乗り込む。
重量制限ギリギリの人数まで詰め込むと、ゆっくりと上昇を始めた。

 朝の混雑したエレベーター内だと、どうしたっての不可抗力で、体が密着してしまう。
肩に触れる先輩の腕が、心臓に悪い。
私のドキドキと緊張が、この小さくて狭い空間全体にこだましてそう。

 だけどね、先輩。
エレベーターに乗った時、翔真先輩の腕がさりげなく私と見知らぬ男性との間に入って守ってくれたこと、ちゃんと気づいていますからね。
彼の背に守られて過ごすこの数秒間が、ちょっとした至福の時。
二十三階のオフィスに到着すると、私たちはそこでエレベーターを降りた。

「やっぱりこの時間帯は混むね」
「だけど、もう少し遅くなるともっと混雑しますよ」
「そこなんだよねー」

 朝イチで浴びる翔真先輩の微笑みは、私の今日一日頑張れる活力の源になる。

「出社を遅らすと、帰るのも遅くなるし」
「結局会社にいる時間が、長くなるだけなんですよね」
「そうそう。早く仕事終わらせて、帰りたいもんね」

 気のせいなんだろうけど、そう言った翔真先輩が私に片目をつむってウインクしたように見えた。
彼の大きな手でドアが押し開けられ、オフィスに入る。

「あ、翔真先輩。今日の予定って……」
「午前中に外周りを済ませて、昼過ぎには戻ってくるつもり」
「分かりました。気をつけていってらっしゃい」
「うん。行って来ます」

 手を振ってくれた先輩につられて、思わず私も手を振り返す。
なんかちょっと恥ずかしい。
見送りを済ませ自分のデスクについたとたん、隣に座る藤中くんが、ムスッと不機嫌な顔を見せた。

「あー。朝イチから見せつけてくれるよね」
「なにが?」

 彼にそんなことを言われる覚えは全くないんだけど。
片肘をついた手に顎を乗せたまま、目を合わそうともしない。

「別に、翔真先輩とは何もないんだからね」
「知ってますよーだ」

 藤中くんは私と同期で、今は同じチームで仕事をしている。
入社して五年。
このオフィスで顔を合わせるのは、三年ぶりだった。

「いいよね。天野さんは山本先輩のお気に入りで」
「そういう言い方は語弊があるんじゃない?」
「つーか、山本先輩のこと翔真先輩って呼ぶの、天野さんだけなんだけど。なんで?」
「……。今さらそんなこと聞く?」
「別に。ふと今、疑問に思っただけ」

 藤中くんとは入社した最初の二年、同じ部署で働いていた。
でもその次の年から、彼は別の支社に配属され、今年四月の配置転換で、また同じチームとして机を並べることになった。
自然に伸ばしたボブスタイルのサラサラとした黒髪と、スタイルの良さから醸し出される雰囲気は間違いなくイケメンのノリではあるのだけれど、いつも眠そうな目でボーッとしているところが、全てを台無しにしてしまっている。

「前にいたチームに、同じ『山本さん』が二人いたのよ。だから」
「へー」

 自分から聞いておいて、全く興味なさそうな返事をする。
彼はデスクに肘をついたまま、チラリと横目を向けた。

「ま。山本先輩が今朝の天野さんをからかいたくなる気持ちも分かるけど」
「なんで?」
「そりゃあ……」

 彼は眠そうな目で、私の全身をぼんやりと眺める。

「いつもより分かりやすく、気合い入ってるからね。天野さんのカッコウ」
「……。悪い?」
「別に」

 言われなくても、分かりやすく気合い入れてますよ。
それを流行や女性のファッションに疎い藤中くんにまでバレてるなんて、ちょっと恥ずかしい。

「ヘンかな?」
「いいや」
「正直に言って」
「うん。頑張ったんだなーって」

 ねぇ、感想ってそれだけ? 本当に? 
訴えるような目で見つめる私に、彼はのそのそと頭を掻いた。

「ま、早く終わらせますよ」
「今日はね?」
「今日はね」

 彼は視線をパソコンに戻すと、気合いの入らない顔でキーボードに両手を置くと、大きな欠伸をする。
横顔に覇気はなくても、頭はしっかり動いているらしい。
動き始めた指先は、キーボードの上をどこまでも軽やかに流れるように跳ねる。

「……。あのさ、天野さん」
「なに?」
「あんまこっちばっかり、ずっと見ないでくれる?」
「なんで?」
「……。照れるから」

 二十八歳男子の照れ顔なんて、可愛くもなんともないはずなのに、ほんのり頬骨の辺りが赤くなってるのとか、首をちょこっと傾けてるのとか、タイピングのリズムが時々崩れちゃうのとか、全身からあふれ出るカワイイと、切れ長のクールなビジュアルとのギャップが激萌え過ぎる。
おかげで見てるこっちまで恥ずかしくなるなんて、反則級でしょ。

「見られて困るようなことしてんの?」
「だからさ、今は仕事中でしょ。そういうのホントにやめて」

 藤中くんと話しながら電源ボタンを押す指が、うっかり長押しになっていたのに気づいて慌てて手を放す。
それまで真っ黒に沈黙していた画面が、鮮やかな草原の緑に切り替わった。
会社用IDとパスワードでログインすると、「昨日の続き」フォルダをクリックする。
私は軽く息を吐き出すと、ゆっくりと背筋を伸ばした。

「さ。そろそろ真面目に働こう」
「おう。働け、働け」

 今日片付けるべきタスクを開くと、早速それに取りかかった。