傷を負った令嬢を、田舎で見つけたので、そのまま僕と婚約して結婚する事になりました。


 移住から数日後の午後、レオナールはひとり森の中にいた。

 目的は魔力の調整だ。田舎の魔素は首都と違い、濃度が素直で安定している。試してみたい術式がいくつもあった。けれどそれだけでなく、彼は時折こうして一人になりたくなる。
 誰かに見られない場所で、自分の痣のことを忘れられる空間が、森の静けさにはあった。
 膝をつき、地面に指先で陣を描く。魔術がすっと編まれていく。手のひらの中に浮かび上がるのは、小さな光――蛍火のような魔力球。

「……やっぱり、ここの魔素は応えてくれるな」

 レオナールは魔力球を浮かべたまま、じっとその光の揺らぎを観察した。

 魔素濃度は首都のそれより低いはずだが、流れが素直だ。変な混ざり気もなく、風や木々の生気と自然に馴染んでいる。

「動的な術式の反応速度は都市部の1.3倍……いや、下手すると1.5倍近い。魔素粒子が結合に対して柔らかく反応する分、融解率が高いのか?」

 魔力球の中に、別の小さな術式を挿入する。熱伝導系の初歩魔法。通常であれば光は赤みを帯びるはずだが――レオナールは再度、集中する。

「……やっぱり、黄色が強い。ここの魔素は“守る”より“育む”方向に流れるのか。穏やかすぎて、少し拍子抜けだな」

 観察ノートが欲しい、とつい思ってしまった。
 けれど、この手応えを肌で感じることが何より大事だ。実地研究の本質は、紙の上では測れない。

「これは……魔術応用系、回復術式にも転用できるかも。もし、少し複雑な重ね書きをすれば――」

 彼の脳内にはすでに、複数の術式構造が組み上がっていた。
 研究者としての本能が静かに熱を帯びていく。その時――カサ、と背後の茂みで音がした。
 レオナールは反射的に術式を中断し、肩越しに振り返った。森の静寂の中に、微かな気配。風に揺れる葉音とは異なる、確かな“誰か”の存在。

「……そこに誰かいるのか?」

 応えはない。
 しかし、気配がするのはわかる。

(……もしかして、魔物か?)

 森の中なのだから、魔獣と言う存在がいてもおかしくない。
 レオナールは詠唱をしながら視線を動かしていたのだが、その姿を見て思わず動きを止めてしまった。
 木の陰から、ひとりの女性が現れた。
 ゆるく巻かれた銀の髪。深い灰色の瞳。肩まで隠れる古びたショール。そして、何よりも印象に残ったのは――その右頬に刻まれた、大きな傷だった。

(右頬に傷……いや、、もしかすると、魔術印?)

 傷というには、どこか不自然な形だった。
まるで何かの印のように、肌に焼きついている。
 少女はレオナールと目があった瞬間、青ざめた顔をしながら顔を隠した。

「……見ないでください」

 彼女は言った。
 声は静かだったが、どこかに怯えと、刺すような鋭さが混じっていた。
 レオナールは、ほんの一瞬だけ躊躇し――そのままゆっくりと自分のフードを外す。
 右頬に浮かぶ、痣を隠さずに。

「……大丈夫。僕の顔にも傷はあるから、気にしなくていいよ。君のやつより酷いかもしれないし……」

 笑みを浮かばせながら彼女に話しかけると、少女の瞳が見開かれた。
驚きと、わずかな混乱。そして、ほんの少しの――共鳴。

「……どうして、そんな風に」
「君と、同じだからかな。……いや、君より軽いかもしれないな、俺のは」

 レオナールは痣に指を添えて、笑ってみせた。

「怖くないの、ですか?」
「別に。呪いだって、誰かの都合で決まるものだろ?僕は……たぶん、見た目より、声とか雰囲気とか、そっちのほうが怖い」
「……変な人、ですね」
「よく言われる」

 彼女は少しだけ口元を緩めた。だがすぐに、それを消して俯く。

 少女にとっては酷いトラウマの傷なのかもしれないが、レオナールにとってはどうでも良い事だ。
 レオナールはそんな外形よりも、人間の心の方が怖い。
 ただ、そのように考えるようになっているのは、自分の事をどんな事があっても味方でいる、家族たちの存在があるからなのかもしれない。

「えっと……君の名前は?」
「私は……名前を名乗るような者じゃ、ありません」
「じゃあ、俺が名乗る。レオナール……魔術師、兼、田舎暮らしの初心者。数日前に来たばっかなんだ」
「……レオナール、様」

 その名前を、彼女は静かに繰り返した。
 それだけで、なぜだろう――森の風が、少し柔らかくなった気がした。

 彼女が去って行ったあの日――というには、まだ一日しか経っていない。けれどレオナールにとって、その背中は妙に深く印象に残っていた。
 話しかけたのも束の間、彼女は怯えるように瞳を伏せ、何も言わず、ただ森の奥へと姿を消した。
 名も、何も、聞けなかった。

 ――なのに。

 翌朝になると、レオナールの足は自然と森へ向かっていた。

 魔術の調整という建前を持ちながらも、内心では、もう一度だけ彼女に会えたらと――そんな期待を、どこかで抱いていた。

 木々の間を抜ける風が、葉を揺らす。鳥が啼く声も、遠くから聞こえてくる。
 昨日、彼女が現れたあの場所。小さな開けた空間に足を踏み入れると、そこには――いる。
 彼女は、そこにいた。
 そのまま声をかけていこうとしたのだが、声をかけられない。
 倒れかけた切り株に腰をかけ、何かを見ているかのような姿で空を見つめている。
 その姿が何処か綺麗で、思わず見惚れてしまい――次の瞬間、目線がこちらに向かったので、レオナールは体を反応させてしまう。
 少女はレオナールを見て、静かに息を吐いた。

「……来ると思ってました」

 少女は、そう言った。
 声は昨日よりも少しだけ穏やかで、少しだけ震えていた。

「その……昨日は……ごめんなさい。あんなふうに、逃げるような真似をして」
「逃げるのは、悪いことじゃない。僕だって、森に来るときは少し逃げてる気持ちで来てるし……そもそも初対面で突然声をかけられたら誰だって警戒する」

 レオナールは木の根元に腰を下ろす。
 距離は、二人分ほど。これ以上近づくことは、彼女を傷つけてしまいそうで。
 少女が、昨日と違う、静かに笑みを零しながら話しかけてきた。

「ここは、静かですね。都会より、ずっと」
「……そうだね。魔素の流れも穏やかで……君が、ここにいる理由が少しだけわかった気がするよ」

 彼女は顔を上げた。
 その右頬の『傷』が、木漏れ日に照らされて淡く揺れる。

「見えないようにしてるつもりだったのに……あなたには、見えたんですね」
「君も、僕の痣を見たろ?」
「……はい。ですが、怖くありませんでした」
「僕もだよ」

 レオナールは静かに笑った。
 彼女は少し驚いたように目を瞬かせ、そして――ほんのわずかに、唇の端を持ち上げた。
 それは、微笑みと呼ぶにはあまりに小さなものだったけれど、彼にはそれで十分だった。

「そういえば……君の名前、まだ聞いてなかったよね」

 名前を聞いていなかったので、せめて名前だけ聞いておこうかなとレオナールは声をかける。
 すると少し迷う素振りを見せながら、彼女は答えた。

「……クラリス、といいます」
「クラリス。うん、いい名前だね」

 その一言で、また彼女の表情が揺れた。
 それでも、今度は逃げなかった。

 木々の隙間から、ふわりと春の風が吹いた。彼女の銀の髪が揺れ、レオナールはそっと視線を落とす。
 この森が、きっと彼女の『避難所』であることを、彼は強く感じた。
 だからこそ――この静けさを壊さぬように。
 ゆっくりと、彼女のそばに寄っていけたらと、そう思った。

    ▽


 再び森で出会ったその日から、レオナールは何度か、彼女――クラリスのもとを訪れるようになった。

 彼女が暮らしているのは、森のはずれにある古びた離れ屋敷。
 木造の壁は雨風に晒され色褪せているが、窓辺には手入れされた花が咲いていて、彼女の静かな暮らしぶりを物語っていた。
 クラリスは最初こそ警戒していたが、レオナールが“必要以上に踏み込まない『人間』だとわかると、少しずつ言葉を交わすようになった。
 彼女の話し方は静かで、丁寧だった。
 目を見て話すことが少なく、それでもときおり、魔力球の光に照らされる横顔は柔らかくて、どこか儚かった。
 クラリスは自分の傷跡のことは話さなかった。
 レオナールも聞かなかったし、そもそも聞くつもりなどなかった。
 興味と言うものがなかったのである。
 代わりに、彼はただ、穏やかに問いかけた。

「君は、森が好きなのか?」
「はい。音が優しいですから。風も、葉のささやきも。人の声よりも、ずっと」
「……それは、ちょっとわかるな」

 ふたりの間には、沈黙が流れることもあった。でも、それが苦しくなかった。むしろ心地よいと、どちらともなく思っていた。


 ――そんなある日の事。

 
 朝から妙に騒がしい屋敷の食卓で、レオナールはため息をつく。
 原因は自分の家族だ。

「レオ、聞いたぞ?あんた最近、森に通っている、と?」

 母のオリヴィアが両肘をついてニヤリと笑っている。

「……観察と実験のためだよ。魔素の研究の一環」
「ふーん……じゃあ、何故昨日、服に白い花粉ついてたんだ?あれは確か、森の奥の『祈り草』のやつよね?」
「観察の一環だって言ってるだろ」
「うちの子、ようやく春を迎えたのかぁぁああ!」

 母、感涙。
 妹、笑顔で拍手。

「レオお兄様、すごいです! 次はお茶会デートですわね!」
「うるさい」

 妹が嬉しそうに話している間、兄のリヒトは腹部を抑え、頭を抱えている。
 小食だが、相変わらず胃が痛いらしく、薬を握りしめている。

「……だから胃が痛いんだ。お願いだからこの家、もう少し落ち着いてくれ」
「……すまん、兄さん」
「いや、レオナールのせいじゃないから気にしないでくれ……」

 男二人はそのような話をしていると、玄関の扉が、控えめにノックされた。
 この家は大きいが、田舎の家で、使用人もいない。
 一体誰だろうと。レオナールが立ち上がってドアを開けると、そこには、見慣れた銀髪の少女の姿があった。

「……クラリス?」
「こ、こんにちは……ごめんなさい、森で摘んだ果実……お礼に、と思って……」

 彼女の手には、小さな布包みに入った果物。
 まさか彼女が自分の家に来るとは思わなかったので、思わず呆然とクラリスに視線を向けてしまった。
 それを黙っている母、妹ではない。
 レオナールが何か返す間もなく、背後から轟音のような声が響いた。

「まっったくぅうう! こんな可愛い子を家に呼ぶとは、どうして教えてくれなかったレオナール!!」
「ええ!? えええええええ!? あ、あの、いえ、私は――!」
「嫁ですか!?これは嫁コースですか!?ちょっとレオお兄様!クラリスさんって呼び捨てにしてるってことは、もうそういう仲!? ねぇ!?」
「ちがっ、違うって!」
「父様!今夜の食卓、祝い膳にしましょう!!」

 静かに食事していた父が目を向ける。
 彼はそのまま無言で頷いた。

「頷くなぁぁああああああ!!!」

 混乱の中で、クラリスは小さな声で言った。

「……あの、帰った方がいいでしょうか……」
「ごめんクラリス!待って、お願いだから帰らないで……!」

 とりあえず帰ってしまったら絶対に彼らにしわくちゃにされるに違いない。
 青ざめた顔をしながら、レオナールはクラリスを止め、食卓に招待するのだった。
 数分後、彼女が持ってきた果実は食卓に並んだ。

 そして、クラリスは考える――こんなに、うるさくて、あたたかい場所があるなんて。

 最初こそ混乱していたクラリスだったが、食卓についたあとは、どこか不思議な空気に包まれていた。
 それは、恐怖や緊張とは違う。
 もっとこう――どう受け取ればいいのか分からない、という戸惑いだった。

「お口に合うといいけど、これ、アナスタシア特製のはちみつ漬け!クラリスさんの肌がもっとツヤツヤになるようにって!」
「つ、ツヤ……?」

 アナスタシアは満面の笑みで果実を差し出す。
 クラリスはおずおずとそれを受け取り、ひと口、口の中に入れる。

「……あまい」
「でしょ!?レオナール兄様の好物でもあるんですのよ!」
「やめてくれ……」

 アナスタシアの特攻はやめられず、顔面真っ赤に染まったレオナールは先ほどのリヒトのように頭を抱えるが、母のオリヴィアはそれを見てますます調子に乗った。

「ふふっ、クラリスちゃん!うちの子はちょっと変人だが、根は真面目で優しい!どうかな?」
「お母様! 早いです! まだご挨拶の段階ですわ!」

 クラリスの頬が見る見るうちに紅くなる。
 だが、誰もそれを責める者はいなかった。

 代わりに、みんなが笑っていた。賑やかに、自然に、あたたかく。

 家族というものに囲まれた記憶が、クラリスにはあまりない。
 貴族の家に生まれ、婚約者に『役目』として選ばれ、傷を刻まれて「呪われた」と呼ばれて、そして捨てられた。
 父も母も、もういない。兄弟もいなかった。
 だから――こんな光景が、眩しすぎた。

「……クラリス?」

 レオナールの声に、ふと我に返る。
 気づけば、目の端が熱を帯びていた。
 嗚咽は飲み込む。
 けれど、その代わりに言葉が溢れた。

「……こんな風に囲まれて、食事をしたの……いつ以来か、分かりません」

 妹であるアナスタシアがそれを聞いて驚く。
 そしてそのままそっと手を握る。

「じゃあ、これからは『思い出せるように』なってくださいね!うちの家族はみんなこんな感じですから」

 アナスタシアの言葉を聞いたクラリスは、泣き笑いのような表情で、こくりと頷いた。
 その夜、彼女は深く眠れた。
 久しぶりに、『夢にうなされない夜』。

 そして翌日から、森の中に咲く花がひとつ、ふたつと増えており――レオナールはそれを見つけるたびに、小さく微笑んで「明日も行ってみるか」と呟いた。

 扉の向こうにいたのは、見た事のない、『家族』だった。
 いえ、あれは――『家族』だったのだと、今なら思える。

 初めて踏み入れた屋敷の空気は、温かく、にぎやかで、うるさかった。
 右からも左からも話しかけられ、頬が熱くなるほど注目され、気がつけば果実の皿を押し付けられていた。
 なのに、誰も、私の顔を見て、眉をひそめなかった。

 あの『傷』に、怯えも、蔑みも、なかった。

 ──お母様、素敵ですわ!

 ──この子、守りたくなる顔だよな!

 驚いて、戸惑って、怖くて……でも、少し、嬉しかった。

 レオナール様が黙って席を引いてくれた時、アナスタシアさんが私の手を取って笑顔で『お姉さま』と呼んだとき、誰も知らない胸の奥が、じんわりと温かくなった。

 かつて、私は誰かの『所有物』だった。
 綺麗で、従順で、誰かに見せられるような存在であることを望まれた。
 そして、傷ついた私に彼は

「お前の事、もういらない」

 と言ってきて、私を捨てた。
 だからずっと、世界から閉ざされたまま、森の中で息を潜めていた。

 ――でも。

 もし、あの場所に、もう一度行ってもいいのなら。
 もし、あの笑い声を、また聞いてもいいのなら。

 私は――もう少しだけ、この『あたたかさ』に触れてみたいと思った。

 ――その日の夜。
 薄い毛布の中、微かに香るはちみつと果実の匂い。
 私の右頬に触れたレオナール様の言葉が、ふとよみがえる。

 「怖くないよ」

 ――私は、まだ生きていていいのかもしれない。
 そんなことを、初めて思った夜だった。

 朝の森は、冷んやりとした空気に包まれていた。
 レオナールは膝をつき、落ち葉の上に魔法陣の小さな構成線を描いている。
 指先には微弱な魔力が灯り、土の中に眠る魔素をゆっくりと引き上げる。

「……ふむ。土壌に含まれる自然魔素の密度はやはり高いな。この流れ……水脈と接触してるか?いや、もしかしてこの地下層、古代式の癒しの泉と同じ魔力構造……?」

 自分しか聞いていないのをいいことに、レオナールは一人呟く。

「記憶式を仕込んでおけば、定点観測できるか……魔素の偏り具合も記録したい……あー、観測石が足りないな。昨日のやつ回収してから来ればよかった。まったく、兄さんがくれたのあと二個しかないし……」

 陣に魔力を流しながら、小さな魔力球がぽっと浮かび上がる。
 その光をじっと見つめて――彼はさらにぶつぶつ。

「球状よりも、羽状構成の方が森の魔素には合うのかもな。いや待てよ、風魔術系との干渉が……いや、それだと熱反応が高く……でも逆に安定化に転用できる……」

 彼にとって、この時間こそが至福のときだった。
 誰に見られることもない。
 『痣』のことも、『家名』のことも、誰にも気にされない場所。
 ただ、魔術と自然と、自分だけの思考で満たされる空間。

 ――そんな中だった。

 背後に、かすかな足音がした。
 レオナールが振り返ると、そこに――クラリスが立っていた。

「あ、えっと……お邪魔してすみません、こんにちは、レオナール様」
「あ、ああ、こんにちは、クラリス」
「……隣、良いですか?」
「え、あ、う、うん、どうぞ」

 お互い思わず顔を赤く染めながら、レオナールはすぐさまクラリスが隣に座れるように、用意する。
 その姿を見つめながらいると、レオナールが再度声をかけて誘導してくれた。
 クラリスはそのまま、ゆっくりと腰を下ろして再度レオナールに視線を向ける。

「その……熱心に何か言っておられましたね」
「……別に誰かがやるわけじゃないんだけど、どうしても気になる事は最初から最後まで調べないと気が済まないタチで……ある意味研究者みたいな、感じ」
「フフ、そうなんですね」

 クラリスはそのように静かに笑いながら答える姿を、レオナールは何処か恥ずかしそうな顔をしながら見ていた。
 しばらく、クラリスから目を放さないでいると、ふと何かを思い出したかのように、クラリスは息を吐く。
 森の静けさの中で、クラリスはぽつりと呟いた。

「……正直、あまり話をしたくはないのですが、多分レオナール様はこの顔の事を気にしているのだと思うのです」
「いや、別に気にはしていないけど……」
「……レオナール様だから、お話させていただきたいんです。私の前の出来事の事」
「え……」

「――私は、貴族の家の生まれでした」

 レオナールは何も言わず、ただ、彼女に目を向けるだけだった。
 春の風が、木々の間を静かに渡っていく。

「小さい頃から、『器』として育てられました。政略のための、結婚の駒。感情も、意見も、口にしてはいけないと教えられて……」

 彼女の瞳は、遠いものを見ていた。

「『あの人』に選ばれたとき、私はようやく家族に必要とされた気がしたんです。だから、笑いました。ずっと、誰にも必要とされなかった私が、誰かの隣に立てるんだって……」

 けれど――それは幻想だった。

「婚約が決まってすぐ、『魔術の刻印』を受けました。『これが、私だけの証』だと彼は言った……けれど、それは呪いでした」

 声が震える。
 彼女にとって、その日からが地獄の始まりになったのかもしれない。

「婚約破棄の翌日には、私は『呪われた娘』になっていた。あの印が刻まれてから、私の体には誰も触れなくなった。家は私を遠ざけ、森の離れに移し、名前さえ口にされなくなったんです……父も、母も、私の事なんて……」
「……」

 彼女にとって、辛い過去だ。
 しかし、別に彼女が悪い事をしたわけではない。
 それなのに、どうしてクラリス自身が攻められなければならないのか、レオナールは理解が出来なかった。
 そのまま、レオナールは指先を伸ばした。
 彼女の許しを得るまで、触れはしない。

「その傷――その『刻印』を見てもいい?」
「……はい」

 クラリスは、ショールをそっと下ろす。
 右頬に浮かぶ、深紅のような模様。
 紋様のように肌に食い込んだそれは、確かにただの傷ではなかった。
 レオナールはすぐにそれを見抜いた。

「やっぱり、魔術印だ……しかも、これは儀式型……構造は古代の契約式に近いやつで……これは、『縛る』ためのものだ」
「縛る……?」
「君を『所有物』として扱うための術式。印の構成式に『同調支配』の痕跡がある。体ではなく、心を押さえつけるための……」

 彼の声が、少しだけ硬くなった。

「――こんなもの、刻まれるべきじゃない。ましてや、恋人に」

 クラリスの瞳が、静かに揺れた。
 同時にレオナールは怒りを覚える。

(本来ならば、このような魔術印、本来は禁止されているはずだ……それなのに、彼女に使ったんだ。タチの悪いッ)
「……レオナール様、顔が引きつってます」
「あ、ごめん……怒りが顔に出てたみたい」

 イライラとしてくる感情が抑えられない。
 いつの間にか顔に出ていたらしく、クラリスが心配そうな顔でこちらに目を向けてくるので、レオナールは笑顔で返事を返した。
 彼女は恐る恐るレオナールに再度声をかける。

「……壊せますか?」
「構造次第だ。でも、解析すれば……痛かったらごめんね?」

 クラリスの頬に浮かぶ魔術印に、指先の魔力を沿わせながら、レオナールは低く呟きはじめた。

「……なるほど。構造式は三重螺旋、典型的な契約系。意図的に外部からの干渉を拒絶する封緘が組み込まれてる……『共鳴式防壁』? いや、違うな……応力の流れが逆だ」

 クラリスは困惑と緊張の入り混じったまなざしで、目の前の青年を見つめた。
 けれど彼は、まるで独り言のように、その場で小さく頷きながら魔力の光を当て続ける。

「……印の起点は眉骨の上。そこから頬骨下部まで滑るように伸びて、終点が耳の下……このラインの角度、まさか『縛術型』の古式応用……!?変態か?いや、これは完全に悪趣味の類だな……」
「へ、変態……?」
「ごめん、前の術者の話。君のことじゃない」

 さらりと恐ろしい発言を流しながら、今度は魔力の圧力を変え、印の一部に微弱な干渉を与える。

「……中層構造の結び目に微妙な『歪み』がある。空間処理が雑……これは術者の未熟さなのか、それともわざと?……いや、むしろ急いで刻んだ?儀式式のくせに即席処理とか、ほんと最低……」
「……あの、レオナール様?」
「うん、あと3分くらいで全体の構造が割れる。あ、でも副層の結界が解析しきれない可能性が……いや、ここで回転式に切り替えれば……!」

 彼の指先から放たれる魔力は、ごく小さな動きでクラリスの頬をなぞっていく。
 触れているのは、あくまで術式だけ。
 それでも、息をするたびに、彼女の胸の奥で何かがほどけていくようだった。

「よし……最深部、見えた。これは……『所有者認定式』……術者以外が触れた場合、精神に疎外反応が起こるようになってる……!」
「……疎外、って……」
「『私は価値がない』『誰にも触れられたくない』って思わせる誘導。これは……悪質だ」

 言葉に怒気が混じる。レオナールは珍しく、声を低くした。
 けれど次の瞬間、深く息をついて、柔らかく微笑む。

「……でも、大丈夫。見えたなら、解けるよ。ゆっくり、慎重に――きちんと、君を君として取り戻す」

 クラリスは、その言葉に返す言葉を見つけられなかった。
 ただ、彼の手が頬を離れたとき――少しだけ、その温もりが恋しいと思ってしまった。
 彼は魔術構成式の写しを作るため、指先に小さな魔力光を灯す。
 指でそっと、彼女の頬の『印』をなぞり――クラリスはほんの少し、身をすくめたが、逃げなかった。

「……冷たい、ですね」
「すまない。力を込めてるから」
「……でも、優しいです」

 彼女がそう言ったとき、レオナールは手を止めた。
 ゆっくりと、視線を合わせる。
 彼の右頬の痣と、彼女の右頬の傷が、春の陽の中で向かい合った。

「……君のそれは、呪いなんかじゃない。そう呼ばせてきた周囲の『弱さ』が、そう見せていただけだ」
「……でも、誰も、そう言ってくれなかった」
「僕は言うよ。何度でも。……だから、もう、隠さなくていい」

 レオナールの言葉を聞いた瞬間、クラリスの瞳が、大きく見開かれた。
 そして、崩れるように、涙が零れ落ちる。
 レオナールの服を鷲掴みしながら、彼女は泣き崩れる
 声を殺して、涙だけをこぼした。
 レオナールは何も言わず、彼女の隣に座り、肩にそっと触れた。

 それは、初めての「誰かの手」だった。

 泣いている彼女に目を向けながら、静かに呟く。

「……父さんに報告しないといけないな、これは」

 その夜、屋敷の裏庭には、虫の音と木々のざわめきが静かに響いている。
 レオナールは、薪をくべる父の背中をしばらく無言で見つめており――話しかけるには、少しだけ、勇気が要った。

「……父さん。少し、いいか」

 ユリウスは火ばさみを置き、軽く顎を動かして『話せ』と示す。
 変わらない、無口な父の背中。けれどその寡黙さに、何よりの信頼があった。

「……クラリスの、あの頬の傷。……あれ、ただの傷じゃなかった」

 レオナールは淡々と語り始めた。
 構造式は三重螺旋。中層に仕込まれた精神誘導の術式。
 術者は、おそらく強い支配欲と、自己認定欲求の持ち主。
 印の目的は『拘束』であり、『所有』であり、何より『他人に近づかせないこと』。

「……呪いなんかじゃなかった。ただの、悪意だ」
 火のはぜる音が、短く響いた。
 ユリウスはしばらく無言のまま火を見つめていたが、やがて短く言った。

「……解けるか?」
「ああ。解析は終わった。再干渉は必要だけど……僕がやる。いいかな?」
「ああ、そうしろ」

 その言葉には、疑いも、命令も、なかった。
 ただ、『託された』という感覚だけが、レオナールの胸に残った。

「……父さん」
「……ん」

「俺は、クラリスを守る。研究者としてでも、男としてでも……そのつもりでいる」

 ユリウスは、火の灯りに照らされながら、ゆっくりと振り返った。
 そして、ひとこと。
 
「……お前の好きにしなさい」
 
 それだけを言って、再び薪をくべる。
 それが、この家で交わされる『最大の承認』だった。
 レオナールは、そっと胸の内で息を吐いた。
 冷たい夜気の中で、父の言葉は不思議と温かく、火の揺らぎよりも確かに、彼の背中を押してくれたのだった。


     ▽


 森の奥でレオナールが魔術印の解析を終えた翌日、クラリスは、ひとりで村の市場に向かっていた。
 ほんの少し――自分でも不思議なほど、『誰かに会いたい』と思えた。
 だから、勇気を出して人の多い場所へ足を運んだのだ。

 ――だが。

 村の広場に差し掛かったとき、冷たい視線が刺さった。

「……あれ、『呪いの令嬢』じゃないか?」
「誰が許可して外に……っ」
「触れたら不幸がうつるって……」

 言葉は刺のように突き刺さる。
 体がすくむ。足が止まる。
 視界がにじむ。
 動けなくなったクラリスだったが、その時声が聞こえた。
 聞きたかった声が。

「その辺にしておいてもらおうか」

 人垣の中から、静かに、けれど確かに響く声――レオナールだ。
 黒いローブに、いつもの気だるげな歩調。
 けれど、目だけが鋭く冴えていた。

「この女性に刻まれていた魔術印は、すでに無効化済みだ。呪いでも、病でもない。悪意によって作られた術式だ。それを放置したのは――周囲の無知と、無関心だ」

 静寂が広がる。

「……君たちは、呪いを恐れて彼女を遠ざけた。けれど、『恐れ』は罪じゃない。『知ろうとしないこと』が罪なんだ」

 ざわつき始めた村人たち。けれどレオナールは、一歩前へ出て宣言した。

「この人は、僕の婚約者だ」

「…………え?」

 まるで雷が落ちたかのような、衝撃。
 誰もが言葉を失い、その場が静まり返る中――クラリスはただ、立ち尽くしていた。
 今、レオナールはなんていっただろうか?

「……なんで」
「必要だからだよ」

 レオナールは振り返り、彼女の前に立つ。
 その姿は凛々しく、クラリスの両目には輝いて見えていた。

「君に必要なのは、『他人の評価』じゃない。『君自身がどう生きたいか』だ。僕は、君と一緒に生きたいと思った。それだけだ」
「……でも、私は……傷があって、呪いって呼ばれて……」
「僕だって痣がある。偏見だって受けた。でも、それでも生きてるし、今こうして君に触れられる」

 レオナールはそっと、クラリスの手を取った。

「怖いなら、逃げてもいい。ここからでも、どこへでも。でも――」

 彼の言葉は、真っ直ぐだった。

「俺は君の味方でいる。何があっても、何を失っても。それが、婚約者ってやつだろ?」

「れお、なーるさま……」

 クラリスの瞳から、涙がこぼれた。
 今度は、嗚咽ではなかった。
 ただ、静かに――温かく、流れる涙だった。

 その場にいた誰かが、息を呑んだような音を立てる。
 それが引き金となって、周囲の空気がほどけていった。

「……婚約者……なんだってさ」
「痣持ちの魔術師って、あの変わり者?」
「でも、すごく……まっすぐだったな」

 ざわつきが、ゆるやかに変わっていく。

 そして、最前列にいた母、オリヴィアが声を荒げた。
 嬉しそうに、そして笑顔で。
 両手を握りしめながら

「よっしゃあああああああああああ!! よくやったレオおおおおおお!!」

 ――歓声をあげている姿に、妹のアナスタジアも嬉しそうに隣に姿を見せる。

「うちにようこそおおおお!!」
「おかあさま、声が大きいですわ!」
「ああ……おめでとう……これからが大変だなぁ……」

 アナスタシアは号泣、リヒトは泡を吹きかけている。
 そんな騒がしさの中で、レオナールはクラリスの手を握ったまま、そっとささやいた。

「大丈夫。俺の家族、ちょっとうるさいけど、優しいよ」

 ちょっと変わっている、と言う言葉を付け加える事がなかったが、レオナールは笑顔でそのように言った。
 クラリスはそんなレオナールの姿を見て泣きながら、こくりと頷いた。

 そして、初めて――心からの笑顔を見せ――その時、レオナールは気づいた。

「……あれ? 俺、今なんて……?」

 レオナールが、ぽつりと呟いた。

「……『婚約者』って、言ったよな。うん。言った。聞こえた。周囲も聞いてた。母も喜んでた。アナスタシアは泣いてた。リヒト兄さんは泡吹いてた……うん、全部事実」

 彼の顔からさっと血の気が引いていく。

「でも、待てよ……あれ、プロポーズしてない。してないよな?……うん、してない。してないのに、『婚約者』って言ったのか、俺……何やってんだ……」

 顔を手で覆いながら、レオナールはぶつぶつと呟き続ける。

「……これ了承されてないじゃん?勝手に?公衆の面前で?大声で?クラリス本人の前で?あああああああ……っ」

 小声で、だがしっかり頭を抱えてしゃがみ込む。

「いやでも彼女、怒ってなかったし、笑ってたし……笑ってた……笑顔可愛かった……あああああでも無理だ、無理無理無理、これ『了承された』とは言えないよな!?そもそも、そもそも俺は……!!」
「……レオナール様?」
「はいっ!? なんでもないです!!」

 クラリスの問いかけに条件反射で立ち上がり、笑顔を貼り付けるレオナール。
 その頬は、魔術暴走ではない、真っ赤な熱に染まっていた。

 それを少し離れたところで見ていたリヒトは、手元の胃薬をそっと増量した。

 クラリスがレオナールの『婚約者宣言』から数日。
 村の空気は徐々に変わりはじめていた。
 広場の八百屋では

「こんにちは、クラリスさん」
「こ、こんにちは……」

 名前を呼ばれたので、返事を返す事を覚えた。
 通りを歩けば

「もう『呪い』なんて言ってたのが恥ずかしいね」

 そのように囁かれるようになった。
 クラリスのそんな穏やかな変化の中――『彼』は現れた。

 
    ▽


 日暮れ時の広場――帰り道、クラリスの足が止まった。

 そこに立っていたのは、上質なマントに身を包んだ金髪の男。
 かつて彼女の『婚約者』だった男。
 男爵家の嫡男――カノン・グランフォード。

「……久しぶりだね、クラリス。元気そうでなによりだ」

 変わらぬ笑顔。変わらぬ声色。
 だがその奥にある『傲慢』を、彼女はもう見逃さない。

「……なぜ、ここにいらっしゃるのですか?」
「いや、ただ『懐かしくて』さ……噂で聞いたんだ。君がまだ、生きていたって」

 その言葉に、クラリスの背中が強張る。

「『まだ』……?」
「てっきり、誰にも愛されず、ひとりで朽ちていったと思っていたよ……だが、どうやら『救ってくれた男』が現れたらしいな?」

 その声の奥には、羨望と嘲笑が入り混じっていた。
 彼の言葉を聞いた瞬間、胸の中から『何か』があふれ出そうだった。

「まあ、君は『使い道』がなかったわけじゃない。今さら戻ってきても、面倒は見てもいいと――」
「言葉を選べ」

 突然、クラリスとカノンの間に割って入ったのは、落ち着いた低い声。
 広場の角に立っていたのは、リヒトだった。
 黒の燕尾服のような上衣に、重厚なマント。
 胃薬を片手に持ち、握りしめながらも、その瞳は鋭く冷たい。
 クラリスは、そんな兄、リヒトの姿を見たのは初めてだった。
 静かな声で、リヒトは話を続ける。

「うちの弟の大事な婚約者に、無礼なことを言うな」
「……どちら様だ?」
「伯爵家リュミエール家長男、リヒト・リュミエールだ」

 カノンの顔色が変わる。
 伯爵家。
 それも本家筋。
 その名前が意味する力を、彼は知っていた。
 だが、カノンはそれでも引かない。

「……婚約者、と言うが……それはそちらの勝手な――」
「正式に結婚の話も進んでいる。記録にも残す。君に『差し戻し』などできない。それでもまだクラリス嬢に関わろうとするなら、我が家は君の家に正式な抗議を申し入れる」

 淡々と。静かに。
 それでいて、逃げ道を一切残さないように。
 カノンはわずかに歯噛みした。

「……面白くないな。たかが『傷物』一人に、随分と入れ込む」

 カノン・グランフォードが『傷物』と口にした瞬間、空気が一変した。
 静かだった広場に、ぱんっと乾いた音が響く。
 頬を押さえ、よろめくカノンの姿を、クラリスは見つめる事しか出来ない。

「……っ、な、何を――!」

 彼が振り返ったときには、すでにリヒトの拳が再び振り上げられていた。
 二発目は、容赦のない真正面からの打ち抜きだった。
 どさり、とカノンが地面に転がる。広場が凍りつく。

「えっと……リヒト、様……?」

 クラリスが震えた声で名前を呼ぶ。
 しかし、リヒトの表情は、冷たく、静かで、殺気に満ちていた。

 
「口を慎めと忠告しただろうが、聞こえなかったか?」


 静かに、ぞくりとする声で、リヒトは言う。

「『傷物』?それがお前の語彙の限界か?人を飾りとしか見られないくせに、自分が捨てた相手に『まだ使える』とか……」

 リヒトの足が、ぐっとセルヴィスの胸元を踏みつけた。

「『人間』をなんだと思ってる?」

「が……っ、ぐっ……!」

 呻くカノンに、リヒトは構わず言葉を続ける。
 そんな二人のやり取りを、クラリスは見つめる事しか出来ない。
 と言うより、あのような顔をしたリヒトの姿を見たのは初めてだったので、その場で動くことが出来ない。

「てめぇみたいなやつが、『選ぶ側の人間』気取ってんじゃねぇよ」

 怒気も叫びもない。
 ただ、言葉の端々に滲む――本物の怒り。

「クラリス嬢は、もうお前が『傷つけていい女』じゃない。うちの『家族』だ……うちの弟の、大切な婚約者だ。だから――」

 ぐっ、とリヒトは拳を握り直す。

「その口で彼女を汚すなら、その歯を全部へし折ってやる」

 ざわり、と風が吹いた。
 その場にいた誰もが、普段『胃痛で弱そうな兄』だと思っていた男の、本当の姿を知った。

「……立てよ、グランフォード家の出来損ない」
「……っ!」
「立てよ……俺はもう一発、正面から殴ってやらないと気が済まねぇんだよ」

 だが、カノンは立てなかった。
 顔を引きつらせ、這うようにしてその場を逃げ出す。
 リヒトはそれを追わなかった。
 ただ、足元の石を一つ蹴って――吐き捨てるように呟いた。

「クソが」

 リヒトは追いすがることなく、その場に静かに立ち尽くしていた。
 その横顔には怒りの名残もなく、代わりにどこか――疲労感が浮かんでいる。

「……はあ」

 彼は深くため息をつくと、懐から常備している銀の小瓶を取り出し、手慣れた動作で蓋を開け、くいっと胃薬を一口。

「……また胃が痛くなった。なんでこう、毎回こうなるんだ……」
「リヒト兄様……!」

 いつの間にかリヒトの近くに来ていた妹、アナスタシアに「服が乱れてますわ!」と袖をぴしぴし直されながら、
 リヒトは仕方なく小声で呟いた。

「……殴るのは嫌いなんだがな……言わなきゃ伝わらないバカもいるんだ」
「兄さん、ありがとう」

 アナスタシアと一緒にこちらに来たレオナールがぽつりと言った。
 静かに、真っすぐに。
 その言葉に、リヒトはほんの少しだけ、照れくさそうに視線を外した。

「……礼なんか、いらないよ」

 クラリスが何か言おうとしたが、その前にレオナールがふっと笑って呟いた。

「……相変わらず、キレると怖いな、兄さん」
「うるさい」
「うちの家族で一番怖いのは、リヒト兄様なのだから……もう、誰に似たんでしょう?」
「父さんかな?口は悪くないけど、容赦ないからなぁ、父さん」
「確かに、そうですわね……大丈夫ですか、おねえさま?」
「……ええ、大丈夫です」

 三人の兄弟の姿を見たクラリスは安心したかのように、笑みを零し、そのままレオナールの隣に立った彼女は静かに手を繋いでくる。
 一瞬、驚いた顔をしたレオナールに対し、クラリスは頬を少し赤く染めながら、笑うだけだった。

(……大丈夫、この人なら、この人達なら)

 クラリスは目を閉じ、彼らに感謝をしながら、強くレオナールの手を握りしめた。

 クラリスの元家から、正式な謝罪はなかった。

 彼女を『呪われた娘』として幽閉し、婚約破棄を黙認し、その後も彼女の存在をなかったものとして扱い続けたあの家は、今も首都の片隅で、平然と日々を送っていた。

 ――そのままで、済むはずがなかった。

「リュミエール家より、正式な来訪の申し出……ですか?」

 元クラリスの実家――エルフォード侯爵家の屋敷。
 そう告げられた使用人は、耳を疑う。
 けれど、門が開いたとき、空気が変わった。

 先頭を歩くのは、ユリウス・リュミエールーー無口な男がひと睨みするだけで、門番が黙る。
 隣に立つのは、オリヴィア・リュミエールーーその腰に提げられた大剣に、召使いが目を剥いた。
 続いて入ってきたのは、微笑む長男リヒト。
 そして、最後に静かに立つのは、『傷物』とされた令嬢を守り通した、痣持ちの魔術師――レオナールだった。
 応接室に通された四人を迎えたのは、クラリスの伯父であり、現家長のエルフォード侯爵だった。

「……何のご用件でしょうか?」

 形ばかりの挨拶。
 その傲慢さは、まるで『あの頃』と何も変わっていなかった。
 ユリウスは何も言わず、席に腰を下ろす。
 代わりに、口を開いたのは妻であるオリヴィア方だった。

「クラリス嬢を、我が家の婚約者として迎えました。あなた方が『処分』した子を、我が家は『家族』として受け入れ……それに対して――『けじめ』を取りに来ました」

 侯爵の目が細まる。

「それは脅しかね?」
「いえ、『事実』だ」

 オリヴィアは、静かに笑っている。
 その笑顔は獣のように鋭く、美しかった。
 続いて、リヒトが手元の書状を開いた。

「こちら、国法に基づく婚約登録書。クラリス嬢は正式にリュミエール家次男と婚約済み。貴家が過去に“呪術的拘束”により彼女の人格を損ね、婚約破棄後も『処分』と称して隔離した記録も残っている」
「なっ……そんな記録――」
「ええ、隠されてました。でも、魔術式って正直ですから……それに関わった使用人、屋敷、管理記録、全部洗いました」

 リヒトの笑みは、静かな断罪だった。


「エルフォード家の名に泥を塗ったのは、クラリス嬢ではありません。彼女を『物』として扱った、あなた方自身です」

 
 侯爵の額に冷たい汗が浮かぶ。

「……それで、何を望まれる?」

 ようやく折れた声に――ユリウスが、口を開いた。

「公的謝罪文の発表。名誉回復の声明。および、過去の“財産切り離し”名義にされた資産の一部返還……それが『最低限』だ」
「……っ……!」
「従わないなら、貴家の過去の『処分』全てを記録と証拠付きで貴族院に提出する」

 言葉ではない。これは通達だった。
 これが、リュミエール家のやり方だった。


     ▽

 
 応接室を出たあと、レオナールはそっと呟いた。

「……父さん、母さん、兄さん……やっぱり、容赦ないな」
「当たり前だ……家族を傷つけた相手に甘い顔なんてするものか」

 オリヴィアが鼻を鳴らす。

「あー…………胃薬切れた……」

 リヒトはげっそりしながら歩いている。
 その後ろで、父のユリウスはいつもの無言のまま、ほんの少しだけ、満足げに頷いた。

 ――日が暮れかける帰り道。
 馬車を待つ間のわずかな時間、レオナールは木の根元に腰を下ろしていた。
 胃痛で苦しむ兄は座席で横になり、母は鼻歌を歌いながら剣の手入れをしている。

 そんな中――父、ユリウスだけが静かに佇んでいた。

 レオナールは、ふとその背に目をやる。
 どこか、自分に似た背中だった。
 魔術師として、家族として、そして――人として。

「……父さん」

 レオナールが声をかけると、ユリウスはゆっくりと振り返った。

 変わらぬ、無口な父の顔――だが、その瞳の奥には、確かな想いが宿っていた。
ぽつりと――本当に小さく呟く。


「……あの子を、クラリスを、ちゃんと幸せにしろ」

 
 それだけを言って、背を向けた。

 レオナールは、言葉を返せなかった。
 けれど、その一言が胸に深く刺さった。
 それは、承認であり、信頼であり――何よりも父からの『祝福』だった。

 あの日、森で彼女と出会ってから、すべてが変わった。

 これからは、一人ではなく、彼女と共に生きていく。
 彼女――クラリスが自分自身の幸せにするために。
 レオナールは小さく頷いた。

「……ああ。任せてくれ」

 春風が、彼の痣をなでるように通り過ぎていった。

 花の香りが、風に乗って漂っていた。

 田舎の教会の小さな庭で、春の陽射しを浴びながら、クラリスは純白のドレスの裾を整えていた。

 鏡の前には、傷も、呪いも、もう“ない『彼女』が傍に居る。

 その右頬には、かつての刻印の痕がかすかに残っている。
 けれど、それを隠すショールは、もう身につけていなかった。
 彼女は、もう隠さない。
 そして、それを誰よりも先に褒めてくれた人が、これから隣に立つのだ。

「クラリス、準備できてる?」

 扉の向こうから声がかかった。

 あの、少し眠たげな声。いつもの調子。だけど――少し、照れた音色。

「……はい、すぐに」

 彼女は深く息を吸い、扉を開けた。
 外には、黒の礼服をきちんと着こなしたレオナールが、驚いたような顔で立っていた。

「……すごい、綺麗だ……いや、知ってたけど、なんか……うん、改めて……その……」

 ぶつぶつと言葉が崩れていく。

「……あ、ありがとうございます……でも、私、ちょっと緊張していて……」
「僕も。めちゃくちゃしてる。今すぐ逃げたいくらい」
「……逃げないでください」

 ふたりは顔を見合わせて、笑った。

 そのすぐ先にある小さな祭壇には、
 兄リヒトが堅い顔で書類の確認をしており、母オリヴィアが大声で「誰か泣く準備できてるか!?」と叫び、父ユリウスが花をいじりながら無言で立っていた。

「……なんて、にぎやかな家族なんでしょうね」
「僕も、昔はびっくりしてた」
「今は?」
「今は、誇りに思ってる……君もその一員になってくれるなら、もう言うことない」

 クラリスは静かに頷いた。
 震えることなく、迷うこともなく。
 ただ、レオナールの手を取り、その隣に立つ。

 春の陽が、二人の頭上に降り注ぐ。

 痣と、傷と、呪いと、孤独と。
 全部を越えて、彼女は今、『花嫁』になった。
 そして魔術師の彼は、『守る者』になった。

 その日、教会の扉が開くと、村の人々が小さな祝福を持ち寄っていた。

 誰もが、『呪いの令嬢』ではなく――『幸せそうなクラリス』として、彼女を見ていた。

 小さな教会の庭に、笑い声が響いた。
 それは、春の訪れと、再生の音だった。
 そして、その横で。

「……レオ、いい嫁もらったなぁ……」
「母さん、うるさい……」
「おねえさまぁぁああ!ドレス似合いすぎよぉぉぉ!」
「妹まで……はぁ、父さん、今日もしゃべらないの?」
「……綺麗だった」
「「「えっ!?」」」

 思わず家族全員が父を二度見した。
 その一言が、一番泣けるなんて、ずるい。

 クラリスは――レオナールは、これから先、何度季節が巡っても、この日を、笑って思い出すのだろう。
 あの日、森で出会った、ひとつの孤独が。
 今、ようやく春を迎えた。

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