黒沼にこっちからラインを聞いてもいいものだろうか。
 俺は風呂に鼻の下まで浸かりながら、つらつらと考えていた。息を吐くと口から泡がぶくぶくと弾ける。
 ここ最近、風呂場での議題はもっぱら黒沼の連絡先を聞くか聞くまいかだ。

「どうやって聞くのがいいんだろーなー」
 黒沼はバーにいつ来てもいいと言ってくれた。とはいえ、行ける日がわかっているなら事前に伝えておきたい。その方が俺の心の準備ができる。
 前もって知らせることなく店に行ったら、この前謝りに行った時みたいに、無防備な黒沼を目にすることになるかもしれない。それはさすがに心臓に悪い。

 結局今日も入浴中の短い時間では、黒沼にラインを聞く方法は見いだすことができなかった。風呂から出ようと足を出したその時、
「伊澄いるー?」
 姉の声がして、風呂の折れ戸が急に開いた。
「ちょちょちょちょちょっ、急に入ってくんなって言ってるじゃん!」
 まっさらな全身を両腕で抱きしめながら、俺は湯船に沈んで身を隠した。

「黙れや。誰もあんたの汚い体なんて見たくねーから」
「突撃しといてそれは酷すぎないっ?」
 風呂の戸を開けたのは、姉の琴音だった。向こうから入ってきたくせに辛辣だ。
 俺が入っていることに気付かず、風呂場に入ってきたわけではなさそうだ。現に琴音は最近新調したオフィスカジュアルの服に着られていた。
 琴音は昔から、俺に用件があると風呂だろうがトイレだろうが突入してくる。
「ねえ、あんたの大学にめちゃくちゃイケメンの人いない?」
「いや、範囲広すぎでしょ。わかんないよ」
「たぶん三年か四年かなぁ。前髪上げてて、目力がある人」
「全然絞れてないんですけど……」
 イケメンはわからないが、前髪を上げてる目力がある人なんて、石を投げれば当たるぐらいそこらへんを歩いている。
「あと右手の人差し指に星のタトゥー入ってるの」
「急に絞ってくるじゃん」

 姉がぶっこんできた情報により、そのイケメンがたった今まで俺が悶々と考えていた相手だと知った。俺の戸惑いなんて露知らず、琴音は続ける。
「今日同期と武蔵平(むさしだいら)駅で飲んだんだけどさ。そこにある【OnyX(オニキス)】ってバーで飲んだのよ」
「え、あ……おぉ」
 黒沼のバイト先だ。俺は反応に困った。
「で、そこのバーテンダーさんがめっちゃかっこよくてさぁ。もう超ヤバかった」
「へ、へえ」
 バーで働く黒沼がかっこいいことは知っている。やっぱり他の人から見てもかっこいいんだ。嬉しいはずなのに、ちょっとモヤッとした。

「で、いろいろ話聞いたらあんたと同じ大学で、しかも同じ学部だって言うの。ねえ伊澄、知り合いじゃない?」
「な、なんで俺がその人と知り合いだと思ったんだよ。バーテンダーなんて、どう考えても俺と真逆じゃん」
「それはあたしも思ったよ? 伊澄とキャラ違うなーって。でも学年近そうだし、弟が同じ大学にいるって言ったら、『友達かもしれないっすねー』って笑ってたんだもん」
「でも俺の名前出したわけじゃないでしょ?」
「え? 出したよ?」
「出したの⁉」
 やられた。知り合いじゃない?と質問してきた時点で、琴音は俺と黒沼が知り合いかもしれないとある程度予想はついていたのだろう。

「でもバーテンダーさんの返事が曖昧でさー。あんたの名前出しても『名前は聞いたことあるかも』とか『友達かも』みたいな反応しか返ってこないの。普通にウザかった」
「ウザかったのかよ。かっこいいって言ってたくせに」
「ウザかったけどかっこよかったの! 曖昧な返事されたら普通にモヤモヤするじゃん。で、本当のところはどっちなの⁉って」
「ってことは、今風呂場に突撃してきたのはハッキリさせたかっただけ?」
「そうだけど?」
「黒沼を狙ってる……とかは?」
「黒沼っていうんだ、あのイケメン。やっぱりあんたら友達じゃない」
 話が脱線している姉を「で?」と下から窺い、軌道修正を図る。
 琴音は顔の前で「ないない」と手を振り、サッパリと言い切った。
「年下には興味ないもん」
 でもイケメンは目の保養になるからチェックしときたいじゃん。琴音はそう言って、風呂場を出て行った。

 もしも姉が黒沼を狙っていたら――と考えた時は、正直肝が冷えた。黒沼と友達なら連絡先を教えて、と言われていたのだろうか。もしそうなったら、俺は教えていたのかな。それとも断っていたんだろうか。
 どっちに転んでも、俺は自分の行動に自信を持てていない気がする。

 黒沼は、琴音に俺と知り合いだって言ったら、面倒くさいことになるとわかっていた。だから適当にはぐらかしたのだろう。
 わかっているけど、『友達かもしれない』と琴音に言った時、どんな気持ちだったのかな。俺のことを素直に友達だと思ってくれていたら嬉しい。嬉しいけど……なんだか腹の底が重くなるような気分にもなる。嬉しいのに、ちょっと寂しい。
 この気持ちはどこからくるんだろう。やっぱり俺は黒沼のことを好きなのかな。友達だと思われるのが嫌なのかな。

 俺は黒沼に好きになってもらいたいと思っているのだろうか。天地がひっくり返ったとしても、ありえないことなのに。
 元々なかった自信が、より無くなっていく。やっぱり俺から連絡先を聞くのはやめよう。俺は風呂に浸かり直しながら、そう決めた。