結局その週、黒沼と学校で会うことはできなかった。
 黒沼と被っている教科もあるけど、もともと受講する学生が多いマンモス講義だ。大教室にいる大人数の中から、黒沼一人を探し出すことは難しかった。
 テスト週間をなんとか乗り切り、迎えた次の週。黒沼と約束した直後に約束を破ったあの日から、ちょうど一週間。

 俺は黒沼に謝罪するため、再び店の前に来た。
 時刻は十八時二十分。先週本人から聞いた話によれば、おそらく黒沼はすでに店にいる時間だ。
 扉をノックする手が緊張で震える。怒っているかもしれない。少なくとも呆れられている気がする。謝りに来るのが遅いと罵られてもおかしくない。

 【CLOSE】の看板がかかっている扉を、俺はおそるおそるノックした。コンコン、と軽い音が鳴る。
「はい」
 扉の向こうから聞こえてきたのは、一週間ぶりに聞く黒沼の声だった。声を聞いただけで、俺はぶわっと顔が熱くなる。黒沼って顔だけじゃない。声もイケボなんだ。俺はその時初めて知った。
「は、花川です」
 ドアの向こうにいる相手が黒沼かどうかもわからないうちに、ガチャンと鍵が動き扉が開いた。現れたのはチェックのシャツに身を包んだ黒沼だった。

 まだ着替えておらず、髪もセットしていないようだ。分厚い眼鏡はかけていないものの、重たい前髪の隙間から綺麗な目が俺を見下ろしている。いつも大学で見る黒沼と、素の黒沼がいい感じに混ざっている。それはそれでいい。直視できないぐらいかっこよかった。

「急に来てごめん、俺――」
「とりあえず入れば?」
 俺が入れるよう、より大きく扉を開けてくれる。
「お、お邪魔します」

 俺は黒沼の後に続いて店の中に入った。酒瓶のケースが積まれていたり、新しいおしぼりが入った袋がカウンターの椅子に置いてあったり。店の人間じゃなきゃ見えない景色がそこにあった。
「散らかってるけど気にしないで」
 開店前の店がいくら散らかっていたって、今の俺には大した問題じゃない。
 ここでタイミングを逃したら、言いづらくなりそうだ。椅子に座る前、俺は黒沼に腰を九十度折って頭を下げた。

「なんだよ急に」
「先週は本当にごめんなさい! 黒沼と試飲の約束したのに、すっぽかして」
「ああ、そのことか」
 黒沼は気にしていないとばかりに素っ気ない。めちゃくちゃ怒っているか、俺にまったく興味がないか……どっちだ?
「別にいい。元々花川ってそういうヤツだろうなって思ってたし」
「そういうヤツ?」
「断れないっていうか、流されやすいっていうか」

 うぅ。やっぱり見抜かれていたか。そしてこれは怒っているというより、呆れ……いや、はじめから期待されていなかったということでは?

「最近話すようになった俺の誘いより、前からの友達優先する人間なんだなって思っただけだから」
「で、でも」
「ていうか店長に言ったんだって? 自分で言わなきゃ俺に幻滅されるって。それって今の謝罪のこと?」
 あの店長さん、俺が来たこと言ったんだ。たしかに俺が来たことを言わないでほしいとは頼んでいないけど。
 詰められているみたいで怖かった。でもどうせ嘘なんてついても、黒沼には全部見透かされてしまうのだろう。

「そ、そうだよ……ちゃんと自分の口から謝らなきゃって思いました!」
 俺は半分ヤケになりながら、早口で言った。
 だけど黒沼は興味なさそうに「へー」と言ってカウンターの中に入っていく。
「そこ座りなよ」
 着席を促された俺は、おとなしく黒沼の前の椅子に腰を下ろした。

 試作のカクテルを作るつもりなのか、黒沼は後ろの棚から何本か酒瓶を出してカウンターの上に並べていった。気持ち酒瓶をカウンターに置く力が強いような気がした。
「別に店長伝いでもよかったのに。初めからあんたに期待してないし。店長の口から聞いても俺は別に幻滅しなかったと思う」
 グサッと胸をえぐられる。あんた呼ばわりされるのは、初めてここに来た時以来だ。距離をとられているんだろう。
俺は切ない気持ちになった。同時にあれ?と引っかかった。

「もしかして黒沼……めちゃくちゃ怒ってる?」
 その瞬間、酒瓶を選んでいた手がピタッと止まった。
「はあ? なんで俺が怒んないといけないんだよ。怒ってねえし」
「でもさっきから棘のある言い方してるから」
「してない」
「ほんとに? 俺の小学生の従兄弟もそんな風に拗ねてたよ。今年のお年玉が少ないって。正月に」
「俺は小学生じゃねえ!」
 こっちを向いた黒沼は、顔を赤くして怒っていた。やっぱり怒ってるじゃん。でもそれ以上は指摘しなかった。今の俺には、くだらないことで黒沼と揉める権利もない。

「黒沼を小学生とは言ってないよ! そもそも怒られて当然のことをしたのは俺の方だし……」
 でも意外だった。黒沼でも拗ねることなんてあるんだ。かわいい……かも。意外な一面を見ることができて、俺はちょっと嬉しくなった。
 一瞬感情を爆発させた黒沼だったが、冷静になるのも早かった。

「本当に花川には怒ってない。ただ、邪魔だなとは思った」
「邪魔?」
 黒沼は頭の後ろを掻きながら、
「あいつらだよ」
 と言いにくそうに言った。
「あいつらって、ハヤトと森岡のこと?」
「そう」
 そういえば黒沼はハヤトたちが乱入してきたあと、一言も口を開かなかった。苦手なのかなと思ったけど、俺の直感は当たっていたらしい。

「ああいうノリ、まじで無理」
 黒沼はダルそうに言った。
「花川の友達ならしょうがないって思ったけど、正直すげー邪魔だった。急に入ってきやがって」

 黒沼の言葉に、俺はキュンとした。
「そ、それってつまり……」
 俺と話していた時間を邪魔されたくなかった――ってことでいいのか?
 顔が一気に熱くなる。ドキドキする。もしかして黒沼も俺のこと……
「あ、試作のカクテル、ちょい甘めでもいい? 今回スイーツ系なんだけど」
 急に話題を変えられ、俺はガクッと肩を落とした。黒沼と喋っていると情緒が忙しい。
「スイーツ系いいね。俺甘いの好き」
 俺は黒沼の問いかけに苦笑いで応えた。

 一瞬勘違いしかけたけど、本気にする前でよかった。きっと黒沼のことだ。本当にハヤトたちみたいなタイプが苦手なだけで、邪魔だと言っているんだろうな。
 そうこうしているうちに、黒沼がササッとカクテルを作ってくれる。試作といっても、分量を量ったりシェイカーを振ったりする手つきには迷いがない。

「はい、どうぞ」
 底の浅いカクテルグラスが指先のタトゥーに導かれ、俺の前に差し出される。チョコレートの甘い匂いがふわりと香る。
「わー美味しそう!」
「酒が苦手な女性でも飲めるものを作りたくてさ。何か気になることがあったら言って」
 酒が苦手な女性――。俺とは正反対の人だ。黒沼にはこれを飲ませたい女の人がいるのかな。考えたら、上がりかけていたテンションがちょっと沈んだ。
「まともなこと、ちゃんと言えるかな~」
 俺は無理やりテンションを上げ、試作をひと口飲む。チョコの甘さとクリームの濃厚さが美味しい。でも冷たいからそこまでくどくない。

 俺は黒沼がこれを飲ませたい相手じゃない。お酒はそこそこ飲める方だし、なにより男だ。でも黒沼の作ったお酒はやっぱり――
「うっまぁ」
「元々似たようなカクテルはあるんだけど、アルコール度数が高くてさ。これはブランデーを減らして生クリームと牛乳を入れてみた」
 黒沼は得意げに教えてくれた。どう?と言いたさげに視線を送られ、俺は「すごく飲みやすいよ」と返した。

「やった」
 黒沼が小さく小脇でガッツポーズをする。まるで子どものように喜ぶ姿に、くすぐったくなる。
「デザート感覚で飲めるね、これ。お酒が苦手な女の人も美味しいってなるんじゃない?」
「もう少しこってりさせた方がいいか迷ったんだけど」
「それはそれで美味しいと思うけど、俺はこっちの方が好きかなぁ」
 言ってから、そういえば俺はそもそも黒沼のターゲット層に入っていないんだったと思い出した。

「く、黒沼はさ。これを飲ませたい女の人が特別にいるの……?」
「は? なにそれ? そんな相手がいたら今回花川に頼んでない」
 眉間にしわを寄せた黒沼を見て、しまったと思った。
 なに一人で勝手に嫉妬してるんだよ俺。
「そ、そっか」
「なんでそんなこと聞いてくんの?」
「あ、ううん。なんとなく気になっただけで……」
 俺は誤魔化すようにカクテルを飲んだ。

 黒沼は普段クールだけど、苦手なものがハッキリしていて、好きなものにはとことん熱い。拗ねたり喜んだり、人間らしく感情をあらわにする姿は少年みたいだ。
 困ったな。黒沼と話せば話すほど、黒沼将也という人間を知っていく。推しとファンの間にある境界線が、薄くなっていく。

 やばい。本格的に好きになっちゃうかも……。
 ほろ酔いで頬が熱い。ドキドキする。顔が見れない。
 これ以上飲んだら、変なことを言ってしまいそうだ。俺はカクテルを飲み終わると、そそくさと財布を出した。
「ごちそうさまでした。今日も美味しかった~」
「今日は二杯目無理そうな感じ? アルコール低いやつなんだけど」
「う、うん。今日はこの後も課題があって」
「ああ、単位やばいって言ってたな」
「それなんですよ……」

 よかった。普通に会話できている。俺は財布のチャックを開け、「いくらかな」と尋ねた。
「いらない。まだ商品化してないやつだし」
「でも」
「このやり取りもういいって」
 黒沼が面倒くさそうに顔の前で手を振った。たしかに前回も会計時に似たような押し問答があった。あの時は黒沼がチャージ代をサービスしてくれたんだっけ。

「本当にいいの?」
「いい。こっちは花川の時間をくれただけで十分だから」
 スマートすぎて眩暈がする。なんてかっこいいんだ。
 世間では奢り奢られ論争があるし、どっちが正解なんて俺にはわからない。でも一つ言えること。それは奢ってもらった上で「時間をくれただけで十分」と言ってくれる。この一連の流れを受けて、不快な思いをする女子はいないだろうということだ。
 同じ男として完敗だ。そして黒沼を意識していた人間としては、もっと落ちてしまう。

 敗北を認めつつ、
「黒沼ってモテるでしょ」
 俺がこぼすと、黒沼は嫌味のない声で「まあな」と答えた。
 そう簡単に認められると、こっちもですよねとしか言いようがない。
 
「あ、そうだ!」
 帰るため椅子を立とうとした時。俺は黒沼に渡したいものがあったことを思い出した。
 俺がリュックから取り出したのは、カクテルをミニチュア化したカプセルトイのキーホルダーだ。先日地元の駅にあったガチャガチャを回したら、前回黒沼に飲ませてもらったブルーハワイのキーホルダーがたまたま出てきた。
「なにこれ?」
「よくできてるよねー。俺、そこのガチャガチャが毎回新しいのに変わるたびチェックしてんの。今回カクテルシリーズでさ。なんか黒沼っぽいなーと思って、やってみた」

 黒沼は受け取ると、キーホルダーをつまむようにして回し見した。
「なんでこれを俺に?」
 なんでと聞かれて、俺は返答に困った。ブルーハワイのキーホルダーが取り出し口から出てきた時点で、黒沼の顔が浮かんだから……としか言えなかった。でも本当にそれだけだったのかな。

 そうだ。俺はこのブルーハワイを手に取った時に、ふとある感情が沸いたんだ。

「ファンに……なっちゃったんだもん」
 べつに悪いことを言っているわけじゃないのに、語尾が弱々しくなる。俺は目を斜め下にやりながら答えた。いざ言葉にするとなんだか恥ずかしかった。
「黒沼の作ったカクテルを飲んで本気で美味しいと思ったし、黒沼がいつかお店をもてたら俺も嬉しいなって。応援したいなって……」
 人に流されまくりのこんな俺がファンとして応援しても弱いかもしれない。俺自身、自分の内面がぐらついていることはわかりきっている。自分のことも支えられないのに、やっぱ他人の応援なんて無理だっただろうか。

 ――余計なお世話。まず自分の留年回避を頑張ったら?

 ああ。逆に応援される未来が見える。
 失敗したと本気で思った。カウンターの中に立っている、黒沼の顔を見るまでは。
 反応がなかったこともあって、俺はおそるおそる目線を下から上にやった。黒沼と目が合って驚いた。

 黒沼は顔を真っ赤にして、キーホルダーを握り締めた手で口元を隠していた。思いもよらない反応だった。全くの予想外。
 俺が凝視しながら「ぇ」と呟くと、黒沼は「見るんじゃねえ」と目を逸らした。
「黒沼、なんか顔赤くない?」
「るせーな」
 近づいて顔を覗き込む。黒沼はフイと俺から顔を背け、「めっちゃハズイわ」と言った。
「茶化されんのも根掘り葉掘り聞かれんのもウザいから、店をもつ夢は誰にも言ったことなかったんだけど……ファンになったとか、応援してるって言われて、なんかキた」
「なにが⁉」
「わからん。でもめっちゃハズくなった」
「ていうか、夢のこと言ったのって、俺が初めてだったの⁉」
「まあ。言っても花川なら無害かなと思って」
 それは褒められているのか?
 わからないけど、余計なお世話だとは思われていないようだ。それだけで俺は十分だった。

「これ、せっかくだからもらっとく」
 黒沼は目を細めて、俺があげたキーホルダーをチェックシャツの胸ポケットにしまった。
「ありがとな。もし花川も困ったことあったら、俺に言って。今度はちゃんとシャーペンも本も貸すから」
「ノート見せてって言ったら?」
「いいよ」

 今日この数十分の間に、黒沼の表情がだいぶ柔らかくなった気がする。距離がちょっと近づいたように感じるのは気のせいだろうか。
 黒沼は大学では誰ともつるむ気はないと宣言していた。でも少しは俺のことを友達と認め始めてくれたのかな。
 黒沼はかっこいい。自分をしっかりもっていて、こんな俺相手にも優しくしてくれる。きっとこれ以上求めたらバチが当たる。だからそれ以上は求めない。求めちゃいけない。

 でも……心の中では友達だと思っていてもいいかな。好きな気持ちを抱えていてもいいかな。独りよがりでも、言わなければ。
俺はまた来ることを約束したあと、祈るような気持ちで「今日はありがとな」と黒沼に言った。
 駅までの道が遠く感じる。でも不思議と、このまましばらく歩いていたい気持ちだった。