恋ってなんだっけ。
 三号館の二階ラウンジ。一階のカフェチェーン店からコーヒーの匂いが漂う窓際のテーブルで、俺は窓の外を見上げていた。青い空にはひこうき雲の一本線が流れている。いい天気である。

 ぼーっとしていると、無意識のうちに「はぁ」と小さなため息をついた。大なり小なり、こぼしたため息は本日これで何度目だろうか。

 地味系男子こと黒沼がバイトしているバーに期せずして尋ねたのは、五日前のこと。まさかあのイケメンバーテンダーが大学で地味系男子として認識していた相手だなんて、思いもしなかった。びっくりした。ここ数年で一番びっくりした出来事だ。
「やばいよなー……」
 何がやばいって、俺はあの日からバーテンダー姿の黒沼が忘れられないのだ。

 背筋を伸ばして酒を作る姿。無駄のない動き。紳士っぽい見た目に反して荒い言葉遣い。
 そして――。

 笑った顔と、最後に「しー」と口に指を当てた姿がダブルで俺の脳裏に襲いかかる。瞬間俺はボフッと頭から火が噴いた。
「あーだめだ。かっこよすぎかよ……」
 俺は広げた教科書とルーズリーフの上に突っ伏した。せっかくテスト勉強しようと思ってラウンジに来たのに、さっきからまったく集中できない。
 自分の夢をちゃんと持っているところもかっこよかった。それに向かって努力しているところも。
 表面的にトゲトゲしているのは大学で話した時と変わらないけど、バーで会った時はなんていうかこう……すごく優しかった。もちろん、向こうは俺のことをただのお客さんとして接していただけにすぎないんだろうけれど。

 俺はテーブルに突っ伏したまま、ルーズリーフの上に『恋』と書いた。自分のこの感情が何なのか知るのが怖い。でも現時点で思い当たるものはこれしかなかった。
「恋、しちゃったかなぁ」
 ボソッと呟くと、突如俺の目の前に大きな手のひらが降ってきた。
「うわあっ!」
 俺はガバッと頭を上げ、起き上がった。勢いよく反ったせいで、椅子の背もたれが後ろに倒れる。それを支えてくれたのは今まさに考えていた相手だった。

「大丈夫かよ?」
 チェックのシャツを着た黒沼が、ちょっと焦った顔で後ろから俺の顔を覗いてくる。上下逆さまになった黒沼は、ビン底眼鏡を手でちょっとずらしてこちらを心配そうに見ている。眼鏡と前髪の間から本来の黒沼の目が覗き、俺の心臓は魚のように跳ねた。
「脅かしてスマン」
「あ、ううん。ってか今の聞いてたっ?」
「何のこと?」
 恋しちゃったかなぁの独り言は、黒沼の耳にまで届いていないようだ。俺はひっそりと胸を撫でおろした。

 が、安心したのも束の間。黒沼がごく自然に、俺の前にある椅子を引いた。
「な、なになに座るの?」
「あ、ごめん。誰か来る?」
「誰も来ないけど……」
 黒沼は「歯切れ悪いじゃん」と文句を言いつつ、俺と同じテーブルに座った。
「だってまさか大学で話しかけてくるとは思わなかったから」
「帰りに言っただろ。また学校でって」
「本気だったんだ」
「嘘ついてどうすんの?」

 黒沼は俺の手元をじっと見て、「もしかして勉強中だった?」と聞いてきた。
「ああ、うん。俺単位やばくてさ。もう留年寸前よ」
「単位ヤバいくせに、二日酔いになるまで飲み歩く余裕はあるんだな」
 痛い所をグサッと突かれる。かっこいいと思ったバーテンダー姿ならまだしも、地味な姿からの指摘はなんだか(しゃく)だった。相手の発言に、俺もちょっと反論したくなった。

「毎日じゃないし。ていうか、ちゃんと大学で勉強してる黒沼には、俺はメリットないと思うけど?」
「メリット? 花川が?」
「大学では誰ともつるむ気ないって言ってたじゃん」
「あ、それは大丈夫。花川とつるむ気で声かけてないから」
 あっさりとフラれる。恋愛対象どころか友達になりたいとも思われていないらしい。あまりにも脈がなくて、いっそのこと笑えてくる。

 はいはい、そりゃそうですよねー。ショックだわー。
 そもそも男同士だ。最初から期待なんかしていない。たった今フラれたばかりだけど、現に俺のメンタルはこうして無傷だ。

 そんな自分に軽くホッとする。バーテンダー姿の黒沼は、きっと俺の中で『推し』みたいな立ち位置にいるんだろうなと思った。三次元の推しが初めてできたから、きっと恋と勘違いしかけただけだ。
 俺は一人納得し、冗談ぽい口調で言った。
「つるむ気ないって、本人に平気で言っちゃうんだ~。声かけてきたのはそっちなのに~」
「だって花川の連絡先知らないし」
 おっと、これはラインを交換する流れか⁉と思ったが、黒沼はあくまでも俺とラインを交換するつもりはないらしい。スマホを取り出す様子もなく、用件だけを端的に伝えてきたのだった。
「今試作のカクテル作っててさ。今週のどこかで飲みに来てよ。勉強の息抜きにでも」
「試作のカクテル?」
 まさかの誘いに、俺はハッと目が覚めた。
 俺でいいのか? そういうのって、飲み慣れた人に飲んでもらった方がいいんじゃないの? 

「なんで俺っ?」俺は顔の前で自身を指差した。
「花川さ、バーに入ったのはこの前が初めてって言ってたよな」
「言ったね」
「しかもすげえいい顔で美味しいって言ってくれただろ? 俺、あれ結構嬉しくてさ」
 すげえいい顔……をしていたかどうかは自分ではわからないが、褒めてくれているのだろう。
 気になっている相手を、自分の言葉によって嬉しい気持ちにさせることができた。それを喜ばない人間なんてこの世界にいるのだろうか。黒沼のストレートな言葉に、俺の耳はボッと熱くなった。

「あれからいろいろ新しいカクテル作りたくなって、バイトが暇な時に作ってんのよ。でも仕事中、俺は飲めないだろ。開店前はもちろん、閉店後は片付けがあってそれどころじゃないし」
「意外と自分で飲めないものなんだ」
「そうゆーこと。それに店長が花川が美味しいって言ったカクテルなら、新商品として店で出してくれるって言ってて――」
「ストップ!」
 俺は黒沼の話に割って入った。
「急に責任重大になってない⁉ 言っとくけど俺めちゃくちゃ子ども舌だよ?」
 申告するのも恥ずかしいが、黒沼に迷惑をかけたくない。俺は正直に言った。けれど黒沼は「だからいいんだよ」と気にも留めない。
「逆に舌が肥えた人にうけるカクテルなんて、俺にはまだ作れない」
 確かに黒沼は俺と同い年だ。黒沼の誕生日は知らないけど、きっと法律的にアルコールが解禁されてからまだ一年ちょっとか。つまり俺と同じスタートラインに立っているというわけで。じゃあ味見役が俺でも大丈夫……なのか?

 自信はあまりなかったけれど、
「お、俺でよければ」
 俺は黒沼の頼みを受け入れることにした。
「助かる。ちなみにいつ来れそう? 俺はほぼ毎日夕方には店にいるから、花川に合わせられるけど」
「んーと、今週はテストが多いからなあ」
 俺はスマホのスケジュールアプリを開きながら、今週の予定を確認する。明後日の水曜日、それと金曜日にもテストがある。前日の夜は勉強しておかないとキツイから、明日以降は厳しい。
「あ、今日は?」
「今日?」
 黒沼が意外そうな顔をする。

「俺は大丈夫だけど、花川は大丈夫なのか?」
「うん! むしろ今週中だったら今日しかないや」
「時間は?」
「時間?」
「店のオープンが九時な。でもそれじゃ遅いだろ? 普通にお客さんが来店する時間だし」
「たしかにそうだよね」
「花川はこのあと講義何限まであんの?」
「今日はもうないよ。さっきポータルサイト見たら休講になっててさー」
「お。ちょうど良くね。今から行く?」
 待て待て、タイミングが神すぎないか?
 まさかの休講と黒沼からの誘い。そして神展開に、俺は身を乗り出して「行く!」と返事した。
 運が味方したとしか思えない。まさかの展開に頬がにやけそうになる。ふと正面に目をやると、黒沼の口角もまんざらでもないように上がっていた。

 あ、また笑ってる。

 ビン底眼鏡と前髪で隠れている目は、どんな風に笑っているんだろう。気になってしまい、俺はダメだダメだと相手から目を逸らした。
 ダメだろ俺。推しの裏側を詮索しちゃ。
「じゃあ俺、教務課に用事あるから先に行ってるわ」
 そう言って、黒沼が椅子から立ち上がろうとした時だ。

「あ、伊澄いるじゃん。おまえライン返せよなー」
 ラウンジにやってきたハヤトが、俺に向かって大声で声をかけてきた。静かなラウンジに、ハヤトの空気を読まない声が際立つ。
「ご、ごめん。勉強してて……」
「勉強? なに、まだ無駄な抵抗してんの? いいじゃん留年したって。俺らがいるんだからさー」
 いつもの調子のハヤトに、俺は苦笑いする。
「あれ? コイツ黒沼じゃん」
 俺の横に立って、ハヤトはようやく俺の前に座る人物を認識したみたいだ。
「なになになに。おまえらいつの間に仲良くなってんの?」
「……」
 さっきまでよく喋っていた黒沼だが、ハヤトが来てから石像のごとく一切口を開かない。
「仲良くっていうか――」
 黒沼は誰ともつるみたくないって言ってたよな。ここで俺が仲良くなったってハヤトに言ったら迷惑……だよな。そもそも黒沼は俺と仲良くなったつもりなんてないだろうし。

「ち、ちげーし。たまたま同じテーブルになっただけだよ」
「は? めっちゃ空いてるじゃん」
 たしかにラウンジ内にある他のテーブルは、ちらほらとしか人がいない。なんなら空いているテーブルの方が多いくらいだ。
 俺は下手な嘘をついたことに内心かなり焦った。でもハヤトはそれ以上俺にも黒沼にも興味がないようだ。
「ま、いいや。それより今日の夜、いつもの店に集合な」
「えっ? 今日?」
「そー。夏休みの合宿の部屋決めしようぜ」
「聞いてないよ」
「前から言ってたじゃん」
「でも今日やるって聞いてない」
「それは今言った」
 まじか、と俺は絶望した。だって今から黒沼の店に行く。たった今約束したばかりだ。

 ちらっと黒沼を見るが、肝心の黒沼は手元のスマホに目を落としている。もしかしたら、ハヤトのことが苦手なのかもしれないと思った。
 さすがにハヤトの誘いを断ろう。先に約束したのは黒沼の方なんだから。
「いや、今日はちょっと」
「なんかあんの?」
 俺は言葉に詰まった。黒沼と約束してるなんて言ったら、ハヤトが茶化してくるに決まっている。
 それにこの前、俺の友達に自分がバーで働いていることは内緒にしてほしいと、黒沼から釘を刺されている。さすがに断る理由を黒沼にしない方がいいだろうと判断した。
「お、俺にもいろいろやらなきゃいけないことがあるんだよ」
「なんだそれ」
 まったく本気にしていないようだ。ハヤトが笑ったタイミングで、「おー伊澄ここにいたんだ」と森岡がラウンジに入ってきた。ハヤトとラウンジで待ち合わせしていたらしい。
「伊澄も今日行けるってー」
「ちょっと。誰もそんなこと言ってないじゃん」
「は? なに言っちゃってんの。伊澄はいつでも行けるだろ」
「たしかに」
 ハヤトと森岡は、当然のように俺が今日空いていると思い込んでいる。

 たしかに俺は二人の誘いにいつも乗っている。一度断ったらもう二度と誘われないかもしれない。そんな不安が、どうしてか消えないからだ。

 でも今日は。今日だけは。

「そういえばさっき田畑先輩が部室に来てさ。就活終わったから、これからラウワン行こうって」
「今から? 金ねーよ」
「奢ってくれるらしいぜ」
 ハヤトは「まじ⁉ 行く行く」と態度を変え、乗り気になった。
「伊澄も行くよな?」
「え、だから俺は勉強がまだ」
「そんなの後でやればいーじゃん。ほら、早く片付けろよ」
 ハヤトに教科書を綴じられる。シャーペンも筆箱にしまわれる。自分の荷物を勝手に扱われる様子を見ていると、自分がやらなきゃという焦りが湧いてきた。俺は「わかったってば」とハヤトから荷物を取り、片付け始めた。
 ハヤトに「鈍くせぇなー」と急かされるがまま、勉強道具をリュックに押し込んでいく。自分でも何で荷物をまとめているのかわからなかった。

 荷物をまとめ終わり椅子から立つと、ハヤトの腕が俺の首から肩に回された。物理的に逃げられない状態だ。
「行くぞー」
 ハヤトに引っ張られ、黒沼からどんどん離されていく。
 俺はハヤトに連行されながら、黒沼にちらちらと視線を送った。
 ごめん。ごめん。約束を破るつもりはないんだよ。ハヤトたちとの用が終わったら、すぐに黒沼の店に行くから。
 目で訴えたが、黒沼はスマホに目を落としたままこちらを見ようとはしない。

 とうとう最後まで目が合わないまま、俺はラウンジの外に連れ出されてしまったのだった。