ハヤトと森岡と居酒屋チェーンを出たのは、夜九時ごろだった。
 ハヤトは別の飲み会に参加している社会人彼女とこれから合流予定で、森岡は十一時からコンビニバイトのシフトが入っているらしい。

 サークルの仲間と飲むと、大体朝までコースになることが多い。九時は珍しく早い解散だ。しかも今日は金夜、明日は土曜日だ。加えて久しぶりにバイトもレポート課題もない週末だ。

 俺は駅の地上改札でハヤトたちと別れたあと、心の中でヨッシャとガッツポーズした。
 久しぶりに今日はゆっくり寝れるんじゃないか? でもせっかくだし、寝るだけじゃもったいないよな。あ、今期ネットで話題になってるアニメでも観るか。あのアニメずっと気になってたんだよな。あーでも、ブイチューバ―の配信を観ながらダラダラするのも捨てがたい。

 帰ったあとの時間を想像すると、まだ帰りの途中だがもう楽しくなってきた。飲み会も好きだけど、ちょっと嫌なことがあると一人の時間が倍尊く感じるというものだ。
 地下鉄改札に続く階段は、地上改札から繫華街を抜けたところにある。向かってニヤニヤしながら歩いていると、男の声に「お兄さんお兄さん!」と呼び止められた。
 悲しいかな。俺は声をかけられると、相手がビラ配りだろうと、宗教の勧誘だろうと足が勝手に止まってしまう。

 声をかけてきたのは、俺よりちょっと上ぐらいの耳にピアスをつけた厳つい男だった。
「キャバクラいかがっすか?」
「え、キャバ? え?」
「初回お安くできますよー」
 俺は目を丸くした。この人、俺に言ってる?
 キャバクラなんて未知の場所すぎる。ガールズバーに行ったことはあるけど、あれはハヤトたちと一緒だった。
 俺はそもそも牛丼屋とラーメン屋とチェーンのカフェ以外で、一人で飲食店に入ることが苦手なんだ。

 俺は小さく首を横に振って、
「い、いいです」
 と断った。だけど男は俺が断るつもりで言った「いいです」を、なぜか「行きます」の意味で捉えたようだった。
「あざす! 可愛い子そろってるんで、もうじゃんじゃん楽しんじゃってください!」
 大きな声で言い、「今ご案内しますね!」とキャバクラ側に電話をかけるつもりなのか、スマホを耳に当て始めた。
 もう逃げられない……退路を断たれたと絶望したその時だった。

「ちょっといいですか?」
 俺と男の間に、背の高い男が割って入ってきた。
 白のワイシャツの上に黒のベストをまとい、下は黒のスラックスを履いている。いかにもバーテンダーという装いの若い男は、男の俺でも二度見、いや三度見するぐらいのものすごいイケメンだった。

 掻き上げた前髪の下にある形の綺麗な額。男らしくも清潔感のある整えられた眉。意志が強そうなくっきりとした二重。鼻筋の通った鼻に、薄い唇。シュッとした顎。
 すべてのパーツの形が完璧で、しかもそれらが完璧に配置されている。二十一年間の人生で、俺はテレビの中の人以外でここまでの美形を一度も見たことがなかった。

 イケメンバーテンダーの声に、厳つい男がスマホを耳から離す。
 バーテンダーは男に「いつもお世話になってます」と丁寧に挨拶した。
「おー、【OnyX(オニキス)】のところの」
「はい」
「どうした? 今からお客さんを店に案内しなくちゃいけなくてさー」
 するとバーテンダーはいいねの形にした親指の先で、俺のことを差した。
「そのことなんですけど、実はこの人フリーなんですよ。前にうちの店も世話になったことがあって」

 バーテンダーが何を言っているのかさっぱりわからないが、次の瞬間「まじかよ!」とそれまでにこやかだった男の表情が一変した。
「すいませんすいません。同業者って俺知らなくて。今後二度と声かけないようにするんで、今回は見逃してもらえません?」

「いいよな?」
 小声で言ったバーテンダーが、鋭い目力で俺に圧をかけてくる。
「は、はい」
「あざっす! それじゃ俺はこれで!」
 男は逃げるようにその場から離れ、駅から流れてくるサラリーマンの集団に声をかけに戻って行った。

 一体何が起きたんだ。キョトンとしている俺の横で、バーテンダーが聞こえるように「はあ」とため息をついた。なんだかよくわからないけど、美形のバーテンダーがピンチを助けてくれたことだけは確かだ。
「あ、あの」
 イケメンバーテンダーが振り返る。やっぱりものすごくイケメンだ。イケメンすぎて、ちょっと油断すると男の俺でもドキドキしてしまう。
「俺、なんにもわからなくて……とりあえず助かりました」
 続けて「ありがとうございました!」と俺は腰を折った。
「別に。駅に行きたいだけなら一本外れた道通った方がいいよ。ここらへんキャッチが多いから」
「キャッチ?」
「さっきの客引きのこと。あんたみたいに断るのが苦手そうなタイプは狙われやすい」

 ――断るのが苦手そう。初見でも、俺はそう見られてしまうのか。わかりきっていたことだけど、直接言葉にされるとちょっと切ない。まあ、そういう風に見えるような態度をとっているのは自分なんだろうけど。
「気を付けて帰ります」
 リュックの持ち手をギュッと握り締め、俺は身を引き締める。

 ナメられてたまるか。バーテンダーに頭を下げてから、歩き出したのも束の間だった。二、三歩進んだところで、
「お兄さん、ガールズバーどうですかー?」 
 と俺は再び別のキャッチから声をかけられてしまった。なんで? 俺めちゃくちゃ警戒してたんですけど⁉
「あの、えっと」
 オロオロした。断る文言を探したけれど、立ちふさがるキャッチの男を前にした状態では、言おうとした言葉もすべてが吹っ飛んだ。

 その時、後ろから舌打ちとともに、バーテンダーが俺の腕をぐいと掴んで引っ張った。ちょっと乱暴だけど、痛くはなかった。
「すいませんね。この人うちのお客さんなんで!」
 バーテンダーは俺に声をかけてきたキャッチにぴしゃりと言うと、半ば強引に俺を引きずって別の場所に移動させた。

「え、ちょっと」
「あんた、ぼったくられたいのか?」
「ぼった――え? 俺からぼったくるつもりなんですかっ?」
「誰があんたみたいな金無さそうな大学生からぼったくるかよ!」
 イケメンからの罵倒に圧され、俺はとりあえず「す、すいません」と謝った。……って、あれ? 俺、この人に自分が大学生だって教えたっけ?

 連れていかれたのは、すぐ近くにあったテナントビルの一階奥。木製の扉には【Bar OnyX(オニキス)】と書かれた看板があった。
 ちょうどオープン時間らしい。バーテンダーは俺を引っ張りながらも、器用に【CLOSE】と書かれた掛け看板を裏返して【OPEN】にした。

 店の中に入ると、カウンターの奥からショートカットヘアの女性バーテンダーが出てきた。
「いらっしゃいませ――あれ?」
 二十代半ばぐらいだろうか。俺よりちょっと上に見える。見た目はさっぱりクール系だが、「あれ?」と言った声は意外と高めだ。女性バーテンダーは俺を見るなり、首を横に傾げた。
「この人あとで店の裏口から帰らせたいんですけど、いいすか?」
「いいけど、ショウ君のお友達?」
 バーテンダーの名前はショウというらしい。イケメンっぽい名前だな、と俺は謎に感心する。
「違います。店の前でキャッチに捕まりまくってたんで、捕獲してきました」
「捕獲って」
 まるで俺のことを珍獣扱いする発言に、女性バーテンダーが苦笑いする。俺はなんともいえない気持ちになった。

 イケメンは俺を解放したあと、カウンター奥の黒いカーテンで仕切られたキッチンを指差した。
「店の裏口から出れば、キャッチのいない通りに出られるから」
「い、いいんですか⁉」
 さっき言ったように、俺からぼったくるつもりはないらしい。イケメンバーテンダーの優しさと計らいに俺は感動した。
「ありがとうございます!」
「はい。じゃあそこ座って」
「え?」
「まさかタダで店の裏側通れると思ってんの?」
 上からイケメンが俺の顔を覗き込んでくる。意地悪な表情をしているつもりなのかもしれないけれど、顔が整いすぎて眩しかった。
 俺は相手から顔を背けつつ、
「の、飲んでいきます。飲ませていただきます!」
 と自ら申し出る形になってしまった。

 一人で飲食店に入るどころか、こんな大人っぽい店でお酒を飲む羽目になるなんて。せっかく今日は家での一人時間を満喫するつもりだったのにな。ああ、アニメもブイチューバーの配信も今日はおあずけか……。
 俺は自分の優柔不断さと不甲斐なさをのろった。

 イケメンに案内されるがまま俺はカウンターの真ん中の椅子に座る。座高の高い椅子に座るのは初めてでよろけそうになる。てかこの椅子高くない? ちょっと怖いんだけど。
 イケメンからおしぼりを渡され、肩身が狭い思いをしながら手を拭いた。

「これ、うちのメニュー。ぼったくりはしない店だから、そこは安心していい」
「ど、どうも」
 受け取ったメニューをドキドキしながらめくってみる。たしかにチャージ料金の説明も丁寧に書いてあるし、値段も良心的だった。
 これなら学生の俺でも払えるだろう。けれどもう一つの試練が俺を襲う。
 
 ドライマティーニ、ピニャコラーダ、ギムレット――ぱっと目についたカクテルの名前を見て気が遠くなる。俺の知らない名前のお酒ばかりだったのだ。早速挫けそうになった。
 かろうじてモスコミュールとかジントニック、カルーアミルクといった居酒屋チェーン店でも見かけるお酒もあったのが救いだ。
 俺がメニューとにらめっこしていると、イケメンバーテンダーが察したらしい。

「好きなフレーバーがあれば、それをベースに作ることもできるけど」
「フレーバー?」
「もしかして英語全然できない人?」
「いやそれぐらいはわかります。ただ俺、バーとか来るの初めてだし、なんていうか味に業界用語的なものがあるのかと思って……」
 イケメンは「ああ」と気の抜ける返事をする。
「素人のくせに、そんなこと気にしてたんだ」
「どうせ素人ですよ……」
 俺は下唇を突き出していじけたふりをする。

「好みの味を伝えるのに業界用語なんかないよ」
「そうなんですか?」
「当たり前だろ。基本的にこっちは来てくれたお客様を全員素人だと思って接客してる。でもそれは悪い意味じゃない」
 俺の手から、イケメンバーテンダーがスッとメニューを抜き取った。
「食事に合うようなスッキリ系とか甘いスイーツ系とか。そういうのでいいんだよ。なんなら、今の気分に合わせても作れるし」
「今の気分……」
 一人でバーに来ている緊張感と、一人時間を失った喪失感になるけど味で表現なんてできるのか? 
 そう思ったが、この場はふざけちゃダメな気がした。イケメンバーテンダーがまさかこんなにも真摯に答えてくれるとは思わなかった。意外だった。ただの強引で怖いイケメンだと思っていたけれど、案外真面目なのかもしれない。

「お客様の希望を汲み取ってお酒を出す。それが俺らの仕事だ。でもあんたはどうせ、酒なんて酔えればいいってタイプだろ?」
 なんだか散々な言われようだけど、あながち間違いではないのが悲しい。
 ていうかなんかこの状況、デジャヴを感じるんですけど。つい最近も、誰かにこうやって自分のだらしない部分を見抜かれたことがあったような気がする。

「希望も特に無さそうだし、こっちで適当に作っていい?」
「は、はい。むしろそっちの方が助かります」
「苦手なフルーツは?」
「ないです。あ。ドリアンはちょっと」
「そんな癖強フルーツ、そもそも店に置いてない」
 そんなやり取りをしながら、ズラーッとお酒が並んだ棚から、イケメンバーテンダーがボトルを何種類か掴んで作り始める。
 メジャーカップにお酒を注ぐ手つきも、シェイカーを振る手つきも、惚れ惚れするぐらい鮮やかだった。最後に真っ赤なチェリーとパイナップルを刺した銀のピックが、青いカクテルの縁に添えられる。

 出来上がると、イケメンはグラスを俺の前に滑らせるように提供してくれた。
「こちらはブルーハワイです」
「あ、名前は聞いたことあります。かき氷にあるやつ――」

 そっとグラスから手を離したイケメンの左手を見て、俺の心臓がドキリと跳ねた。左手の人差し指の内側――第一関節のところに、小さな黒い星のタトゥーがあったのだ。

 見覚えのある星。一度見たら、やけに忘れられない星が、今また俺の目の前にある。
 その時、俺の頭の中ですべてが繋がった気がした。
「え、え、え、えええええええーっ⁉」

 人を指差してはいけません。小学生に習ったことも忘れて、俺はイケメンバーテンダーに人差し指を突きつけた。
「チェックの人! ショウって、黒沼将也のショウ⁉」
 イケメンバーテンダーは大きなため息をつくと、「やっと気づいたか」と呆れた。
「だって全然違うじゃん。気づくわけないって!」
「声でわかるだろ、声で」
「見た目違いすぎでしょ! 無理あるって!」
 俺は思わず身を乗り出し、黒沼の顔をまじまじと見た。大学での黒沼は前髪と眼鏡のせいで目元が見えづらいけど、たしかに顎や鼻は同じ……かもしれない。
「じっと見んな。つーか俺の名前知ってたのかよ」
「あ、うん。サークルの仲間が黒沼と同じゼミだって言ってて」
「へー」
「誰か知りたくないの?」
「興味ない。大学は勉強しに行ってるだけだし、誰ともつるむ気ないから」

 大学に勉強しに行っている、だと?
 大学は人生の夏休みだから行っとけ。高校の担任にそう言われてなんとなく入学した俺にとって、黒沼の発言はかなりの衝撃だった。何を食べたらそんな立派な考えになるんだろう。俺は興味本位で、
「狙ってる企業があるとか?」
 と尋ねた。
 専門系の学部でもない学生が、大学の勉強を頑張る。そうなると、俺にとって思いつく理由はそれしかなかった。
「ない。将来ここみたいなバーをやりたいから、ちゃんと経営学勉強しとこうかなって。そんな感じ」

「なんで地味にしてるの? 大学では」
「普段の自分で行ったら、ウザいことになる」
 ウザいことってなんだ? と思ったが、整ったビジュアルを見て納得した。
 さすがイケメンは言うことが違う。イケメンがゆえにウザいことが起きた人じゃないと絶対に言えない発言だと思った。

 ちなみに指のタトゥーも気になったので聞くと、
「質問ばっかウザい」
 と鋭い目とともに返されてしまった。
「店に入りたての頃にアイスピックで怪我したんだよ。傷跡が目立ってお客さんを驚かせるかもしれないだろ。だからタトゥーで隠した」
 俺は「す、すごい……」と感心して言った。もちろん心の底から出た言葉だ。俺と同い年とは思えないほどしっかりしている。

「それより早く飲めよ」
「あ、ごめん。飲む飲む」
 黒沼に促され、俺は目の前にあるカクテルグラスを慣れない手で持ち上げた。落とさないように気をつけながら飲むと、爽やかで甘酸っぱい味が口の中に広がった。パイナップルとオレンジだろうか。涼しげな見た目に反して、口の中が南国気分になった。

 待って待って。もしかしてこれって、とんでもなく美味しいのでは? 
「おいしい……」
 グラスを離した途端、俺は自然と言葉を漏らしていた。美味しさを確かめたくて、もうひと口飲む。やっぱりそうだ。
「俺、こんなに美味しいお酒飲んだの初めてなんだけど」
 俺はカウンター席から黒沼を見上げた。黒沼はフイと目を逸らし、「へえ、よかったな」と素っ気ない。黒沼にとって、作った酒を褒められることは慣れているのかもしれない。
 でも俺は安酒しか飲んだことがない人間だ。一気に大人になった気分だった。
「まじか。お酒ってこんなに美味しいもんなの? かき氷のブルーハワイを想像していた自分が恥ずすぎる……」
「かき氷って色が違うだけで味全部同じらしいな」
「そうなの?」
 黒沼は「お客さんから聞いた」と言ったあと、フッと笑った。

 あ、笑った。

 大学はもちろん、黒沼が笑った顔を見るのはこれが初めてだった。
 ドキッとした。男相手に――それも地味系男子に気持ちを揺すられるなんて信じられなかった。
 ていうかイケメンすぎるだろ。なにこのギャップ。しかも作るお酒がこんなに美味しいなんて反則だ。笑顔はもっと反則だ。
 大学では目立たないようにしているらしいけど、バーではモテるんだろうな。お客さんとか同じバイトの人とか。
 俺とは大違いだ。
 留年回避に奔走している自分が情けなくなってくる。いや、比べるまでもないんだけど。

 それよりこれ以上ここにいたら、男相手に変な気分になっちゃいそうだ。俺は男どころか女の子と付き合ったこともない。人を好きになったことはあるけれど、それも全員女の子だった。

 ちなみに男同士の恋愛についても管轄外。高校の時、クラスの女子がボーイズラブの話題で盛り上がっていたのを聞いたことがある程度の知識しかない。クラスの女子から聞くたびに自分とは関係ない世界だと思っていたし、今も思っている。

 いくらなんでも男に変な気分になるのはダメだろ。男にキュンとしたなんて言えば、飲みネタにはなるかもしれないけど絶対ハヤトたちに笑われる。しかもそれがあの黒沼と知れば、あいつらにめちゃくちゃいじられそうだ。さすがに言えないし、言いたくない。

 そもそもキュンとしたのは俺のせいじゃない。黒沼が男から見てもカッコいいのがわるいんだ。

 俺はカクテルを飲み終わったタイミングで、控えめに腰を浮かせた。
「それじゃ俺はそろそろ……」
「帰る?」
「う、うん。レポートあるから」
 嘘だ。本当はない。
「ふうん」
 え、もっと居てよかった感じ? 気のせいかな。黒沼の表情がちょっと残念そうに見えた。
「まあ、確かにこれから他にお客さんが来たら、あんたを裏口から帰せなくなるか」
 そう言って、黒沼はまだ俺一人しかいない店内を見た。そうだった。キャッチから助けてくれたのも黒沼だった。

「ちょっと待ってて。今会計出すから」
 黒沼が小さめの黒いバインダーに挟まれた伝票を持ってくる。大体このぐらいかなという金額を頭に浮かべて、俺は伝票を開いた。
「あれ? チャージ代入ってなくない?」
 最初に見たメニュー表には、飲み物代の他にチャージ代がかかると書いてあったはず。

「今日は飲んでいくつもりなかっただろ。それぐらいいいよ」
「でも黒沼バイトじゃん。そういうのって勝手にやっていいものなの?」
「店長にはもう許可取った」
 キッチンに続くカーテンの奥から、店に入った時に迎えてくれた女性バーテンダーが手を振ってくる。あの人、まだ若そうなのに店長さんなんだ。俺はその場でペコッと頭を下げた。

「な、なんかすみません……」
「急に他人行儀じゃん」
「だって悪いし」
「店側がいいって言ってんだから、甘えておけばいいんだよ」
 そういうものなのか? 大人の世界って難しい。
 お言葉に甘えて、俺は伝票に記載された額だけ財布から出した。会計を済ませたあと、黒沼に店のカウンターの中へと案内される。カーテンをくぐった先のこじんまりしたキッチンを通る。その奥に、外へ出られる裏口はあった。

 先に裏口のドアを開けてくれた黒沼の後から、俺は一人外に出た。
「ここをまっすぐ行けば地下鉄の駅だから」
「ありがとう。なんていうか、今日は本当に助かりました」
 俺はドアの前で深々と黒沼に頭を下げた。
「だからそういうのいいって」
「でも俺、助けてもらったのに美味しいお酒まで飲ませてもらってさ。しかも安くしてもらったし……なんかこんなによくしてもらっていいのかなって」

 すると黒沼は「迷惑だった?」と少しむっとした。
「これでも一応、ちょっと申し訳なかったなって思ってるんだけど」
「何が?」
「この前資料の本貸してやらなかったこと」
 俺はああと図書館の前でのひと悶着を思い出す。
「あれは、黒沼は悪くないよ! 俺も図々しいこと言った自覚あるし……反省してます」
「じゃあおあいこということで」
「なんか『おあいこ』の使い方間違ってる気がする」
 黒沼は「あんた、意外と細かいな」と笑った。
 くしゃりとほどけた黒沼の笑顔に、胸がざわつく。猫じゃらしで肌の表面を撫でられたみたいなくすぐったさを覚えた。

「じゃ、じゃあ」
「ああ。気をつけて帰れよ」
 黒沼に背を向け、教えてもらった道を行こうとした、その時だった。
「花川」
「えっ?」
 ふいに名前を呼ばれたことにびっくりして、俺の足はぴたっと止まった。おそるおそる振り返る。
「おまえの大学の友達に、俺のこと知ってるやつがいるんだろ?」
「あ、ああ、うん」
「そいつに俺がここで働いてること、内緒な」
 内緒な、と口にしたと同時に、黒沼の人差し指が「しー」と口元に添えられる。それは黒く塗られた星のタトゥーがある指だった。唇の近くでちらっと星が見える。トクンと心臓が跳ねる。

「も、もちろん」

 店の方から、さっきの女性店長が黒沼を呼ぶ声がする。黒沼は顔だけキッチン内に向けて「今行きます」と応えると、

「約束な。じゃあまた学校で」

 と言い、裏口のドアをバタンと閉めた。