まさか大学三年生にもなって、毎日ここぞとばかりに課題に追われる羽目になるなんて。大学に入ったばかりの頃、俺は自分の大学生活後半戦がそんな風になるとは思いもしていなかった。

 経営学部はラクそう、という理由で入学したあの頃の自分を問い詰めたい。おまえ、そんな気持ちじゃ後で詰むからなって。まあ、サークルに入って飲み会ばっかり参加していたのは、その後の自分なんだけど。

 図書館に来たのは、入学式後のオリエンテーション以来初めてだった。人も少ないし、学食やラウンジのようなガヤガヤ感もない。本を貸出機に通すピッという音が、唯一際立っていた。
 俺がここまで足を運んだのは他でもない、レポート課題の資料を探しに来るためだ。
 ちなみにレポートは明後日に提出期限が迫っている。もっと言うと、だいぶ危機的状況である。

 一から本を探す余裕も時間もない俺は、図書館のゲートを通ってすぐのところにある受付カウンターで、本の所在を聞くことにした。
「すいません。この本ってありますか? これなんですけど。『世界から見た日本の経営史』ってタイトルの」
 俺はカウンター内の女性職員に、スマホで本の表紙画像を見せた。
「少々お待ちください。お調べしますね」
 手元のパソコンから、女性職員が調べてくれる。マウスでカチカチとクリックしていた手が止まると、女性の眉尻が申し訳なさそうに下がった。

「うちには二十冊ほどそちらの本を置いているんですけど、ちょうど今貸出中になってますね」
「全部ですか?」
「全部です。申し訳ございません」
「そ、そうですか」
 終わった。
 絶望に突き落とされた俺は、女性職員に軽く頭を下げて図書館をあとにした。
 そりゃそうだ。俺が探していた資料は、講師が「資料として参考にするように」とあらかじめアナウンスしていたものなのだ。普通、みんなもっと早くから借りているよな。

 他の科目のレポート課題や小テストに追われていた俺が、今回のレポートのことを思い出したのが昨日の夜。ハヤトに誘われ、参加した飲み会からの帰り道だった。

 ああ、もう自分が本当に、
「バカすぎる……」
 図書館の自動ドアを出た瞬間、俺は膝から崩れ落ちる。
 今から本屋に行くか? でもたしか買うと三千円ぐらいする本だったよな。バイト代が入るのは十日後だし、手が出しづらいな。地元の図書館で探すのもありだけど、それこそ在庫がなかったらどうしよう。無駄足になる。

 その時だった。頭を抱えていた俺に、キツイ声が追い打ちをかけてきた。
「そこ、邪魔なんでどいてもらえますか?」
「え、あ、すいません」
 絶望に浸りすぎて、図書館の出入口を塞いでいたことに気づかなかったようだ。俺は急いで立ち上がった。膝を伸ばしたタイミングで、注意してきた相手と目がかち合う。
「あ」
「はい?」
 それは二週間ぐらい前、講義で隣の席になった地味系男子だった。名前はたしか……黒沼だったっけ。図書館で借りてきたのか、脇には数冊の本を抱えている。

 立っている姿を見てびっくりした。意外と……いや、かなりの背があった。百七十センチちょっとある俺が、上目遣いに見上げるぐらいだった。
 百八十五センチはあるだろうか。ていうか、普段からチェック柄のシャツを着ているんだな。今日は赤色だけど。
 無意識に前回と比較してしまう。でも相手は俺のことなんて覚えていないのだろう。どこかで会いましたっけ、と不思議そうに首を横に傾げていた。

 俺は自分で言うのもあれだが、平凡な顔をしている。そのせいで覚えてもらえないことなんてしょっちゅうのことだ。
 バイト先のファミレスでも、田所さんという毎日来る常連のおじいさんから三日連続で「お兄さん、大学生?」と聞かれたこともある。
 もともと目立つのは苦手だから、別に気にしていないけど。

 黒沼が俺の横を通り過ぎていく。そういえばあいつ、地味な見た目なのに指に星のタトゥーがあったよな。シャーペンを借りた時に見た黒い星を思い出す。そのギャップにびっくりしたから俺は覚えていたのかもしれない。
 そんなことより資料どうしよう……とため息をついた瞬間、俺は目の前に見つけてしまった。地味系男子の腕の中――そこにあるものを。

「ちょ、ちょっと待って!」
 急いで黒沼を追いかける。振り返った男の目が、眼鏡の奥で迷惑そうに俺を見た。
「その本って、もしかしてこれ⁉」
 俺はさっき図書館の女性職員に見せた画像を掲げる。もう片方の手で、相手の腕の中にある本とスマホの画面を交互に指差した。
 黒沼が眉をひそめる。俺のスマホを見たあと、「だから?」と低い声で言った。

「俺、経営学部三年の花川伊澄っていいます。その本使いたくて……あ、明後日提出のレポートなんですけど」
「はあ」
「今図書館で調べてもらったら、全部貸出中って聞いて……」
 後になるにつれて、俺の喋るスピードが落ちていく。そこまで言っておきながら、俺は途中から気づいてしまった。あれ。俺、今だいぶ失礼なことを頼もうとしてない?

 黒沼の口元が、あからさまに不機嫌そうに歪んでいく。俺にも聞こえるほどのボリュームでため息をつくと、
「貸してほしいってこと?」
「う……ごめんなさい」
 そういえば黒沼には以前、シャーペンも借りている。相手も誰に貸したかまでは覚えていなくても、シャーペンを貸したこと自体は覚えているかもしれない。
 その相手が同じ人物だと知ったら、ますますいい気はしないだろう。

「こんなこと、急に知らない人間から言われてもキモいですよね……すいません、忘れてください」
 ああ、自分がキモすぎる。切羽詰まっていたとしても、友達どころか知り合いでもない相手に向かって、相手が借りた本を貸してくれというのはダメだ。さすがに反省すべき案件だ。俺は穴があったら入りたくなった。

「この前シャーペン貸した人」
「えっ?」
 俺は下に向けていた目を咄嗟に上げた。
「だよな?」
「う……うん。そう!」
 うそ。俺のこと、友達以外で覚えられる人なんているのか? 
 認識されていたことに驚いて、俺は「覚えてたのっ?」と興奮気味に聞き返した。相手が誰であっても、ちょっと嬉しかったのだ。
 でも黒沼から返ってきた言葉は、想像以上に辛辣なものだった。

「まあ、自分の周りにいないし。控えめな振りした図々しい人間って」
「うっ……」

 ――図々しい。
 生まれて初めて言われた言葉だ。俺のけっして強くはない心にグサッと刺さる。
 俺の不躾なお願いに、かなり気を悪くしたようだ。口調から、俺への不信感がビシビシと伝わってくる。

「こっちだってレポートあるから、本は貸せない」
「はい……」
「友達じゃないし、別に恩もないし」
「はい…………」
「花川だっけ。自己紹介までしてもらって悪いけど、自分のミスを他人でカバーしようとするのはやめた方がいいと思う。嫌われるぞ」
 俺と相手の間に、分厚い壁がドスンッと落とされる。完膚なきまで線を引かれたのだと察した。何も言い返せなかった。俺も自分が図々しいことを頼んでしまったと自覚していたから。

 最後俺はコクンと頭を大きく縦に振って、「そうだよな、ごめん」と黒沼に謝った。
 覚えていてもらえたことに喜んだ自分が恥ずかしかった。自分はなんてバカなんだろう。俺はこの数分間の行動を後悔した。

 でも……言われた言葉は、全部本当のことだと思った。俺はずっと見て見ぬふりをしてきたのかもしれない。自分の図々しさに。
 ボッチになりたくない。嫌われたくない。そういうのもきっと、図々しさからくる過剰な自意識だったりするのかな。
 自分の隠したい部分が、黒沼には見透かされているような気がする。
 やっぱりこいつ、苦手だな。なんでバカみたいに自己紹介しちゃったんだろう。俺があいつの名前を知っているってことを、あいつはたぶん知らないのに。