夏休みが迫る七月。昼時の学食は相変わらず学生の賑わいに包まれている。
「黒沼は二限で終わりだよね? お昼食べたら帰る……よね?」
 ガヤガヤした学食の隅でラーメンを食べながら、俺は向かいに座る黒沼に尋ねた。

「そのつもりだけど」
 黒沼の手元にあるのは中華丼だ。最近朝昼晩としっかり食べているらしい。といっても、元々必要なエネルギーを摂取しているだけなので、体型の変化は特にない。
「だ、だよね」
「なに?」
「ううんっ、なんでもないっ」
 ちょっとでも一緒にいたい。あわよくば一緒に帰れたら……と期待した自分が恥ずかしい。三限まで受けなくちゃいけないほど単位がヤバいのは俺の事情だ。俺のわがままに黒沼を巻き込んじゃいけないよな。

 俺は気にしていることを悟られないよう、目の前のラーメンをズッと啜った。
 黒沼と付き合い始めて一週間が経った。だけど俺はというと、まだ夢の中にいるみたいに現実味がない。というのも、俺たちはまだデートどころか大学以外で会っていないのだ。
 理由は一つ。ただ単に、予定が合わないからである。俺は授業に加えて、夏休み前のテストとレポート三昧。黒沼はちょうど今の時期、ゼミの課題発表の準備とバイトで忙しそうだ。ちなみにバイトで忙しいのは、【Bar OnyX(オニキス)】の新店舗が先日オープンしたためだ。
 黒沼も新店舗に応援に行っているらしく、大学が終わったあとは新店舗に直行していると教えてくれた。

 告白の時に抱き合っただけで、キスはおろか手も繋いでいない。恋人らしいことを何一つしていない俺たちだ。
 さすがに駅まで一緒に帰るぐらいのことはしたいなぁなんて、欲張りすぎかな。黒沼の仕事が落ち着くまで待った方がいい……よな。
 一人納得してレンゲでスープを飲む。

「もしかして待っててほしい?」
 俺はブホッとスープを吹き出しそうになりながら、首を横に高速で振った。
「いやいやいや! だって黒沼、今日もバイトでしょ⁉」
「そうだけど、店長から言われてるんだよ。『働きっぱなしだから休める時に休め』って」
「でも急はさすがに無理じゃないのっ?」
「急でもいいらしい」
「でも俺の都合に、俺のわがままで付き合わすわけには……」
「じゃあ俺が勝手に待つのは?」
 黒沼はテーブルに肘をつき、首をかしげた。ずれた眼鏡の上から、黒沼の綺麗な三白眼がこちらの様子を窺っている。

「そ、それは……俺が出しゃばるとこじゃないというか、いや、待っててくれるのは俺的にはめちゃくちゃ嬉しいけど……」
「決まりだな」
 フッと笑みを浮かべた黒沼は「ラウンジで待ってる」と言い、叶わないと諦めていた俺の期待を難無くすくいあげてくれた。

 三限が終わったあと、俺は急いでラウンジに向かった。……が、肝心の黒沼の姿が見えない。
 あれ、いない。まだ来ていないのかな。それともトイレとか?
 連絡がきているだろうかと、スマホを確かめる。アプリゲームの通知だけで、黒沼からの連絡はきていない。
 俺の中に不安が顔を出す。
 何かあったのかな。バイト先からの急な呼び出しがあったとか?
 黒沼とのメッセージ画面を表示させたスマホを両手に持ち、俺はうーんと唸る。
 その時だった。

「花川、こっち」
 聞き覚えのある声とともに、窓際のテーブルで誰かが手を振っていた。ん? と目を凝らして見る。そこに座っていたのは、黒沼――ではあるけれど、地味系男子の黒沼じゃない。眼鏡を外し、バーテンダー時の髪型にセットされた黒沼がいた。
 不意打ちのイケメン姿に、俺の胸は素直にキュンとしてしまう。
「な、なになになになになに。どうしたの?」
「動揺しすぎじゃね?」
 ぬるぬると気持ちわるい動きで近づいた俺に、黒沼はフハッと吹き出した。

「びっくりした?」
「びっくりしたよ! だって大丈夫なの⁉ 前その状態になった時、声かけられてたじゃん。ホワイトボードでぶつかってきた女の子たちに」
「大丈夫。もうぜんぶ断った」
「あ、もう声かけられ済みなのね……」
 素顔の黒沼はさすがとしか言えない。地味系男子の時と同じ服装なのに、眼鏡を外し、髪を軽くセットするだけでこの調子だ。
 そういえばさっきからラウンジ内でも、ちらちらと女性たちからの視線を感じる。

 俺は居ても立っても居られなくなり、黒沼には壁に向かって座るようお願いした。
 ラウンジの他のテーブルから見えないよう、壁に向かって座り直すと、黒沼はちょっと下から俺の顔を窺ってきた。

「なに、もしかしてヤキモチ?」
「あ、当たり前じゃん。黒沼がかっこいいってことは俺だけが知っていればいいでしょっ?」
「へえ」
 黒沼はテーブルに突っ伏すと、腕の中に顔を埋めた状態からニヤニヤした表情で俺を見上げてきた。意地悪な顔だ。
「だ、大学での話だからね! 黒沼がバイトしてる時はヤキモチとかやかないし。もう」
「もう? 前は妬いたってこと?」

 俺は何も言いませんとばかりに「さ、さあ?」と首を横に向けた。
「まあ、そもそも俺は出禁食らってるから行けないんだけど」
「え、そうなの?」
 とぼける黒沼に、俺は「は?」と眉を歪ませた。
「出禁にした本人がその反応ってどゆこと? 俺、出禁になってるんだよね?」
「あー……まあ、あの時は確かに言ったかも……いや、うん。俺言ったわ」

 俺は「しっかりしてくれ~」と黒沼の肩を揺すった。
「ごめん。あの日は確かに『もう来るな』とは言ったけど、店全体として出禁にしたつもりはなくて」
 黒沼はすまなそうに「悪かったよ」と顎を引いた。

「ていうか、俺としては付き合った時点でいつでも来ていいってスタンスだったし、むしろいつ来てくれるんだろって期待してたわ」
「初めて聞いたんだけど。俺はてっきり行っちゃダメなのかと思ってた」
「困らせてごめん」
 短い沈黙が流れる。申し訳なさそうにしている黒沼は、思いのほか小さく見えた。ちょっと可愛かった。

「じゃあまた行ってもいいの?」
「もちろん。試飲してもらいたいカクテルもまだ結構あるし。それ以外にも飲みたいものがあればなんでも作るよ。花川のためなら」
 嬉しい言葉を直球でもらい、キュン死にしそうになる。ああ、心臓が痛い。
「よかった。じゃあ次黒沼がシフト入ってる日に行っちゃおうかな~」
 笑いながら軽い調子で言うと、黒沼は「いつでも待ってる」と柔らかく微笑んだ。

「伊澄てめえ!」
 ハヤトの声がしたのは、誤解も解け、よし帰ろうか――と立ち上がろうとした時のこと。
 大きな声に呼ばれて振り返ると、ラウンジの階段を足早に上がってきたハヤトが鬼の形相でこちらへとやってきた。
 唾が飛ぶほど距離を詰めてくると、ハヤトは「おまえラインのあれ、なんなんだよ!」と割れるような声で問いただしてきた。

 一週間前、ハヤトからかかってきた電話越しに夏の合宿に行かないこと、そしてキャリーケースを貸してほしければうちの家まで取りに来るようにと伝えた。
 あの後合宿への不参加表明と、キャリーケースの件を責める内容の鬼電と鬼ラインがハヤトからきたが、俺は一貫して、
「合宿には行かない」
「貸してほしいなら取りに来て」
という姿勢を崩さなかった。

「なんでおまえの家まで俺が取りに行かなきゃいけねえんだよ!」
「だから昨日もラインで言ったじゃん。取りに来れないなら宅配で送るよって」
「だったらおまえが送料払えし!」
「やだよ! 着払いが嫌ならハヤトが取りにきてってば!」
「はあああ?」

 という感じで、この一週間ハヤトとはこんな感じだ。
 以前だったら嫌々ながらも合宿に参加していただろうし、なんとか合宿参加は免れてもこちらが貸すキャリーケースを発払いで送っていただろう。

 でも今はそんな優しさ――いや、弱さを隠すエネルギーがあるなら、黒沼のためにその分を使いたかった。黒沼を大切にさせてください。想いが通じ合った時に、そう約束したのだから。
 ワーワーと言い争う俺たちを苦笑交じりに静観していた黒沼だったが、ハヤトが俺の胸ぐらをガッと掴んだ瞬間、さすがに目の色が変わった。
「おい」
 椅子から腰を上げた黒沼が、俺の胸ぐらを握り締めるハヤトの腕を掴む。

「はあっ⁉ 陰キャは黙って、ろ――」
 黒沼の顔を見たと同時に、ハヤトの表情が固まった。
「あ、え? バーテンさ……や、バーテンダーさ、ま……?」
 律儀に彼女の教えを――様付けを守っているらしい。黒沼に気を取られたハヤトの力が緩み、俺は解放された。

 まだ黒沼だとは気づいていない様子だ。黒沼も自分が黒沼だとあえて教えるつもりはないみたいで、
「先週はご来店ありがとうございました」
 と営業スマイルでハヤトに返した。この場で一番戸惑っているのは間違いなくハヤトだろう。

「え、え、すいませんっ。服でてっきり陰キャ野郎だと思って――ってか、同じ大学だったんすかっ?」
 彼女の推しバーテンダーを前にして彼女の影がちらつくのか、目を泳がせながら尋ねた。
「そうみたいですねー」
「ま、まじすか。三年すか?」
「はい。同じ授業受けてるかもしれませんよー」
 黒沼のわざとらしい笑顔に、ハヤトは次第にやりにくそうな表情になっていく。

「ま、まあ今日のところは勘弁しといてやるけど、キャリーケースの送料は絶対おまえが払えよ。急にドタキャンしたんだから」
 ハヤトは俺にそう言うと、俺たちのテーブルから離れようとした。そんなハヤトを「あのさ」と呼び止めたのは黒沼だ。

「そのお金、俺が払うよ」
「はっ⁉」
 俺とハヤトは同時に黒沼を見た。
「な、なに言ってんの! 変でしょ!」
「そうっすよ! バーテンダー様に払わせるなんてことしたら、俺が美結さんから何言われるか……」
「それって伊澄が払っても同じことじゃない? だって伊澄が払うことになったら、自分口滑りますよ。赤羽さんに。『赤羽さんの彼氏さんが俺の大切な人にカツアゲしたんですよー』って」
 名前呼び。それに『大切な人』――。さらりと黒沼の口から出た言葉の数々に、俺は全身が沸騰した。

「俺はカツアゲなんかっ」
「じゃあ望月君のやってることってなに?」
「そ、それは……ていうか、二人はどういう関係なん――」
「そういえば赤羽さんの予約が今日も入っていたような……?」
 黒沼は顎に指を添え、考える仕草をした。
「わわわわわかったわかった、わかりましたよ! 取りに行きます! 依澄の家に取りに行けばいいんでしょ!」
 ハヤトは黒沼にそれ以上言わないでほしそうに、顔の前で両手をブンブンと振った。

「だから俺もそれならいいって何回も言ってるのに……」
 俺は呆れた視線をハヤトに送る。
「伊澄てめえ、今回だけだからな!」
 黒沼には敵わないと悟ったようだけど、俺にはどうしても強気でいたいらしい。ハヤトは捨て台詞を吐いたあと、ラウンジの階段を足早に降りて行った。

 ハヤトの忙しない背中を見送りながら、「またのご来店をお待ちしておりまーす」と黒沼が呑気な声で言い放つ。

「なんかハヤトが可哀想に思えてきた……」
 俺としては正直助かったが、いざハヤトの立場になって考えると何とも言えない気持ちになった。
「わかっただろ? 俺が大学で眼鏡を外した理由」
「黒沼って実は腹黒だよね」
 恋人の新たな一面を見た気がする。これからいろんな黒沼の顔を見ることができるのだろうか。ちょっと怖いけど、楽しみの方が大きい。

 大学で素顔を出すということは、黒沼とイケメンバーテンダーが同一人物だとハヤトが知る日もそう遠くはないだろう。知ったあとのハヤトのことを考えると同情した。

 でもまあ、ハヤトと言い合えるようになったことで晴れ晴れとした気持ちになった自分がいるのは事実だ。これまでより、これからの方がハヤトときっとうまく付き合える。そんな自信で、俺の心は満ちていた。

「とりあえず駅行くか」
 黒沼は改めて椅子をテーブルにしまった。
 まだ黒沼の隣に並ぶことに慣れなくて、俺は黒沼の後ろに並ぶ形でラウンジの階段を降りる。
「もしかして気づいてない?」
 と黒沼が足を止めたのは、階段の途中でのこと。

「え?」
「俺、さっき名前で呼んだんだけど」
 黒沼が振り返り、二つ下の段から見上げてくる。まさか指摘されるとは思っていない。俺は焦りながら、「き、気づいてたよ!」と弁解した。
「あと『大切な人』って言ってた……」
 口をモゴモゴさせて言うと、黒沼が「よくできました」と涼しい目を細める。階段を下りる足を再び歩める。

「彼氏って言わないんだなって思った」
「言ってほしかった?」
「うーん、どうなんだろ」
 『大切な人』と言われて、目には見えない黒沼の優しさを感じた。でも彼氏って言われても、俺はきっと嬉しかったと思う。

「それは一応本人の許可を取ってからにしようと思ってさ。男同士で付き合ってるって、あまり言いたくないかもしれないし」
 やっぱり黒沼の優しさだったんだ。気遣いがありがたい。それに黒沼の優しさに気づけたことが嬉しかった。
「いいよ、彼氏って言っても」
 黒沼はもう一度足を止めると、意外な顔を振り向かせた。
「本気で言ってる?」
「うん。今どき隠さなくてもよくない? それに俺は男と付き合ってるっていうか、黒沼と付き合ってるつもりだし」
 いやちゃんと男ですけど、って向こうからツッコまれたら終わりだ。あとから自分の言葉の抜けを察し、俺は追加で訂正した。

「あ、いや、黒沼が男だってことはちゃんとわかってるからねっ。俺が言いたいのはその、」
「わかってる」
 黒沼はもう一度「わかってるよ」と言い、下からスッと俺の手を取った。さりげなく指を絡めてくる。いわゆる恋人繋ぎというやつだ。人生初の甘い手の繋ぎ方に、俺はその場で飛び上がりそうなぐらいドキドキした。

「俺さ、伊澄のそういうところ、やっぱり好きだわ」

「そ、そういうところって?」
「んー、自分ではたいしたこと言ってないつもりで、俺の心を掴んで離さないところ」
「わからん……」
 俺は呻りながら黒沼の隣に並んだ。隣に並ぶことにハードルを感じていたけれど、そんな俺を黒沼は容易く隣に招いてくれる。
 黒沼だってそうだ。自分ではたいしたことをしていないと思っているのかもしれないけど、俺の心をがっちりと掴んで離さない。

「なあ」
「うん?」
 俺は隣にいる恋人を見上げた。
「俺のことも名前で呼んでよ」
「えっ」
「嫌?」
「い、いやとかじゃなくて緊張するじゃん……」

 黒沼の名前は将也(ショウヤ)だ。バイト中は『ショウ君』とか『ショウさん』とか呼ばれている場面に出くわしたことが何度かある。だが、いざ自分が黒沼のことを名前で呼ぶとなると緊張度合いが半端ない。
「緊張するって言うから緊張するんじゃないの。『俺は緊張しません。今から名前で呼びまーす』って宣言してから言ってみ?」
「えー……俺は緊張しないので今から名前で呼びまーす……だめだ。余計緊張するって」
「また緊張するって言った」
「今のもカウントされるの⁉」

 そんなことを話しながら、さりげなく繋いだ手もそのままに、俺たちはラウンジの階段を降りていく。階段の踊り場の床を、窓から射し込んだ西日がオレンジ色に染めている。

 俺がこんな調子じゃ、キスもそれ以上のこともまだまだ先なんだろうな。
 経験値が低い俺は、安堵と残念に思う気持ちの狭間で揺れる。とりあえず今は黒沼の手の温かさを覚えていれば十分だ。

 踊り場から階段を降り、目の前に一階の床が見えたその時。一足先に階段を降り切ったところで、黒沼が振り返って後ろにいた俺を見上げた。

 次の瞬間、ふと優しい力に引っ張られる。前のめりにつんのめった先で唇に何かが触れる。俺の唇に押し当てられたもの――それは黒沼の唇だった。

 柔らかい体温を唇で感じる。何をされているのか、俺は一瞬わからなかった。
 一階に入っているカフェチェーン店の自動ドアが開き、店内から出てきた学生たちの笑い声が聞こえてくる。

 スッと離れたと思ったら、黒沼は何事もなかったかのように「そういえばコーヒーは飲める?」と尋ねてきた。
「――――っ!」
 俺からすれば、そんなことより、だ。

「飲めるけどそれより今キキキキキスススススーー……っ」
「よかった。今度飲んでもらいたいカクテルにコーヒー系のリキュール使ってんだよ」
「それは美味しそうだけど……美味しそうだけどぉおお!」
 俺の顔はきっと真っ赤になっていることだろう。いたずらっ子のように笑う黒沼に手を引かれながら、俺は回らなくなった舌と脚を必死に動かす。

 こういう時に何て言えばいいのかわからなくてじれったい。黒沼の横で「あーもう、あーもう、あーもう!」と俺は何度も繰り返した。

 あーもう、俺の彼氏は本当にずるい。
 これからは、こんな日々が俺の日常になっていくのだろうか。
 恋ってすごいな。いつか俺も黒沼をドキドキさせたいよ。
「飲んでくれる?」
「もちろんですとも!」
 
 力強く返事する。黒沼は「やった」と頬を緩ませ、俺の手をさらに強く握り直した。